第9話
三ヶ月も経てば、他者との生活も自分の一部になるらしい。
日常という言葉で連想されるものの中に自然と稲月の名前が混ざって、彼女の顔を思い浮かべることに違和感を覚えなくなっている。
夏休み、友達の家を転々とするのにも疲れて、そろそろ家に帰ろうかなんて思っていた時だ。学校の屋上で稲月に声をかけられて、うちに来ないかと誘われたのは。
あの時、私はなんで稲月についていくことを選んだろう、と思う。
私は教室に最初に来る生徒で、稲月は二番目に来る生徒。稲月が二番目に来るようになったのは確か六月で、それからしばしば話すようになったのを覚えている。
でも、仲良くはなかった。
知り合い以上、友達未満。それがあの時の私たちの関係だった。
泊めてくれるなら誰でもよかった、というわけではないと思う。知らない人に誘われても行かなかっただろうから、私の中ではちゃんと線引きがされているんだろう。
その線引きがなんとも曖昧で、自分でもよくわからなくて。
「そろそろ、帰んないとな」
一度家に帰って掃除をしないといけないし、何より、そろそろ稲月の家から出て行かないとまずいと思う。
いくら稲月が許してくれているからといって、金銭的な負担をかけ続けるのもどうかと思う。親からもらっているお小遣いは全部稲月に渡すつもりだったけれど、稲月は受け取ってくれないし。
それに。
稲月との癒着が強くなればなるほど、それが剥がれた時心が傷つき、膿んで取り返しがつかないことになる。
日常に潜む稲月の影を一つ一つ潰していって、自分はいつか一人になる人間だということをしっかり認識しないと、多分私はどうにかなってしまう。
誰かとずっと一緒にいるなんて、無理だ。
私は本心から誰かを好きになることができない。
他人の心なんて一生理解できなくて。私の言葉も、理解してもらえなくて。そういうものだとわかっているから。
「……稲月、起こさなきゃ」
最近、稲月は私を目覚まし時計の代わりにしている。
どうせ私は朝食作りのために早く起きるからいいのだが、私に頼りっきりの彼女を見ていると少し心配になる。
私がいなくなったら、きっと目覚まし時計に戻るだけだろうけど。
私は鍋の火を止めて、彼女の部屋まで歩く。
ノックをして、返事がないことを確認して、部屋に入る。
当たり前だけど、稲月の部屋からは稲月っぽい匂いがする。私にくれたディフューザーとはまた違ったものがタンスの上に置かれているのが見えた。
「稲月。朝だよ、起きて」
稲月の部屋は暑い。
エアコンの温度が高く設定されているのに稲月は掛け布団と毛布で完全に体を包んでいる。
赤ちゃんみたい。
写真に撮って見せたら、恥ずかしがるかな。
いつもそんなことを思っている。
「いなづ……」
肩をゆすると、腕を引っ張られる。
毎日ではないけれど、時々稲月は私を二度寝に誘ってくる。大抵の場合は寝ぼけているだけだからすぐに正気に戻って離してくれるのだけど、今日は手が離れない。
将来稲月と結婚する人は大変そうだ。
意志が弱いと、一日中彼女と一緒に惰眠を貪ってしまいそう。意志薄弱というほどではない私は、夜までは寝ない程度には自制心がある。
「稲月。朝ごはん、できてるよ」
稲月はむにゃむにゃ言いながら私に顔を近づけてくる。全く起きていない。
ご飯で釣る作戦は、失敗だ。
うーん。
他に稲月を効果的に起こせそうな方法はあるだろうか。思い付かない。前に稲月と一緒に寝起きドッキリなるものを見たことがあるが、あいにく今はクラッカーなんて持っていない。
「稲月。いなちゃん。つっきー。……水空」
手当たり次第呼んでみると、最後に反応があった。
目がゆっくり開いて、薄い光の宿った瞳が私を映す。
「おはよう」
彼女はまだぼんやりしているのか、目をぱちくりさせている。
「おは、よう」
「うん。手、離してね。食器、並べてくるから」
「あ、はい」
稲月に手を離された私は、すぐに立ち上がって部屋の扉に手をかける。
「稲月。二度寝しちゃ駄目だからね」
「わかってるよ。私は寝起きいいから」
「はいはい。二度寝してたら稲月のご飯も食べちゃうからね」
「むちむちになるよ」
「むちむちて。なんかやらしいよ、稲月」
「彩春もやらしいとか、思うんだ」
一瞬、変な空気になる。稲月はぼんやりしながらも私の全身を眺めている、ような気がした。
「……早く来ないと、本当に食べちゃうから」
私はそう言って、リビングの方に戻った。
稲月が部屋から出てきたのは朝食を食卓に並べてから十分後のことで、朝の用意が済んだのはさらに五分経った後だった。
「……ぬるい」
「稲月が起きるの遅いから」
「むむ」
今日の朝食は中華粥だ。前に稲月が食べたいと言っていたから作ったのだが、冷めてしまっては美味しさも半減してしまう。
冷めたご飯を温めるのには慣れているから、彼女のお椀を持っていこうとしたのだが、手で制される。
「いいよ。このまま食べる」
「冷めてたら美味しくないんじゃない?」
「美味しいよ。彩春が作ったものだし」
「私が作ったものだったら全部美味しいって言うの?」
「うん。実際そうだし」
褒められて、悪い気はしない。
両親に料理を食べさせるためにずっと練習してきたから、料理は得意だ。結局料理を作っても両親の帰りが遅くなったりとかで、ほとんど食べさせる機会はなかったけれど。
それに、両親は私の料理になんて興味がないのだ。
私に求めているのは数字に出るものだけ。テストの点数とか、成績表の数字とか。そういうもの以外に言及されたことがほとんどない。
もっと構って。もっと褒めて。
なんて言葉を何度口にしただろう。そのどれもが届かなくて、残ったのは寂しいという感情を詰め込んで作った人形みたいな私だけだ。
でも、そういう人生を送ってきたからこそ、私は稲月に出会ったのだ。
それは、良かったのか悪かったのか。
出会いが今の私にとって良いものであればあるほど、未来の私の毒になる。そうわかっていても、この生活を今は続けたいと思い続けて、今日まできた。
どうしようもない、と思う。
「稲月って、私がいなかったときはご飯どうしてたの?」
「その辺のスーパーで買うか外で食べてた」
「不健康だよ」
「そう思うなら、彩春がずっと私のご飯を作ってくれればいい」
ずっと。彼女は頻繁にその言葉を口にする。
それを手放しで受け入れられたら、幸せなのかもしれない。
でも、そんな私は私じゃない。
「……稲月も、料理しようよ」
「したことないからなぁ」
「二十年も繰り返してるのに?」
「うん。一人で暮らしてると、めんどいからいっかってなっちゃって」
前の時間軸が本当にあるならば、彼女は三十数年生きてきてずっと料理をしようと思わなかったということになる。
そんなこと、あるのかな。
いや、高校生なんてそんなものなのかもしれない。
でも、よく考えれば、全部の時間を合わせたら彼女は私よりずっと年上ということになる。それこそ、両親と同じくらいの年齢になるのではないだろうか。
私はちょっと笑った。稲月は稲月だ。実際何歳だとしても、今見ている稲月が私にとっては全てである。
「挑戦してみる? 教えるよ」
「いい。私が料理を覚えちゃったら、彩春が作ってくれなくなっちゃうかもだし」
「将来困るかも」
「そうなったら彩春のせいね」
彼女はぬるいお粥を食べながら言う。
「なんで?」
「彩春の料理に体が慣れちゃったから、私はもう自分で料理する気になれないし」
唐突に稲月の日常に加えられた私の味に慣れたなら。
私が明日いなくなったとしても、きっと元の食事の味に慣れることができるだろう。
人はそういう生き物だ。
大抵のことには簡単に慣れることができて、慣れる前のことなんて忘れてしまう。
「……稲月。私ね」
そろそろ、家に帰ろうと思う。
そんな言葉が口から出てこないのは、私が弱いせいだろう。
でも、まあ。勝手に出ていって、後で彼女にメッセージを送ればどうにかなるんじゃないかな。
……いや。稲月のことだから、そんなことしたら学校で私に突撃してきそうだ。
だとしたら、綺麗に別れるためにはどうすればいいんだろう。嫌になったとか、言ってみる?
絶対無理だ。そういうことが言えるなら、もっと早くにこの家を出ている。
思い出が増えすぎた。この家の調理器具は私が取り出しやすい場所に置かれていて。歯ブラシは二人のものが並んでいて、部屋にだって私の色と稲月の色が混ざっている。朝起きれば稲月の気配があって、そんな日常が普通になってしまっている。
これを私の中から消去するには、多大なる痛みと苦しみが伴う。
じゃあずっと稲月と一緒にいるの?
なんて、考えるまでもない。
「そろそろ……」
「そろそろ、お出かけしようか」
稲月は私の言葉を遮った。
「……?」
稲月は運動部の子みたいに粥をかき込んで、立ち上がった。
行儀悪いよ、なんて言葉を言う暇もない。
彼女はそのまま私の腕を掴んできた。
「まだ彩春と一緒に行ったことがない場所、行こうよ。考えたからさ」
「ちょっと、稲月。私、まだ食べ終わってない」
「知らない」
「洗い物もまだあるし」
「そんなのほっときなよ。時間は有限だよ」
時間を何度も繰り返している人間が、それを言うんだ。
どこか冷静にそう思いながらも、稲月に手を引かれる。強引だ。その強引さに流されて、心を預けてしまっている自分がいることに少し驚く。
こうなったら稲月は止まらない。
帰ってきたら、張り付いたご飯を剥がして洗う作業に追われるんだろうな。
帰って、きたら?
私はいつの間にか、ここに帰ってくることを当然だと思うようになっているのだろうか。でも。
「ほら、行くよ彩春」
彼女は微笑む。
色々考えなくちゃいけないことはあるのに、その笑顔で全部吹っ飛んで、私も自然と笑みを返していた。
胸の中が稲月に埋められていく音がした。
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