第8話

「まずはこれね。蕎麦」

「……それ、引越し祝いじゃないの?」

「いいから。次はこれ。リードディフューザー」


 彼女は紙袋から次々に品を取り出して、テーブルに置いていく。私の部屋に本来ないはずの色が幾つも追加されていくのが、少し落ち着かない。


「ホワイトムスク……って、何の香り?」

「さあ? でも、私結構好きなんだよね。だからあげる」


 こういうのは相手の好きな匂いのものを渡すのではないのだろうか。私は戸惑いながら、封を開けて匂いを嗅いでみる。


 何となく、稲月っぽい匂いがする、ような。

 元々はこの部屋を私色にするという話だったはずだが、気付けば部屋は稲月色に染まっている気がする。どこを見ても、どこを触っても稲月がいるように思う。


 ずっとここにいたら、私はどうなってしまうのだろう。

 この部屋に根っこが生えたら、私は今とは違う私になるような気がする。

 それは必ずしも、悪いことじゃないと思うけれど。


「稲月っぽい感じ、するね」

「そう? 嗅ぎ心地いい?」

「うん」


 稲月は私がいつまでここにいることを想定しているのだろうか。

 私が望むなら、ずっといてくれてもいい。


 前に彼女が言った言葉を真に受けることはできない。でも、家具を買ってもらってしまった以上すぐに出ていくのも変な気がする。


 じゃあ、いつ出て行ったら変じゃないのだろう。

 ここを自分の居場所だと思うにはまだ何もかもが遠くて、確かなものがないように思う。だからといって何の感情も持たずに出ていけるほど、稲月と一緒のこの家に関心がないわけでもない。


 どうなんだろう。

 稲月のことをもっとよく知れば、この場所を私の居場所だと思うようになるのかもしれない。でも、そうなったら少し困る。


 いつか終わるとわかっているのなら、特別な感情は抱かない方がいいと思う。感情を制御するのなんて、無理だとわかっているけれど。


「それならよかった。他にはねー、これ」


 彼女は紙袋をひっくり返した。タオルやら歯ブラシやらがテーブルの上に散らばる。


「これは私が使ってるのと同じメーカーの歯ブラシ。今までは来客用の使ってもらってたけど、こっちの方が磨き心地がいいから。で、これはボディタオルと、彩春用のハンドタオル。彩春の好きそうなの選んでみたけど、どう?」


 稲月は饒舌に語る。歯ブラシもタオルも淡い色で、私の好みだった。

 ……しかし。


 いいのかなぁ、と思う。こういう私のものが増えると、余計に根が生えて、帰るのが辛くなる気がする。

 でも稲月が笑顔で私を見てくるから、受け取らないなんて選択肢はなかった。


「色々、ありがと」

「ううん。……ここが彩春の家で、彩春の部屋だから」


 稲月の家の、私の部屋。ここはそういう空間だ。

 人の家に自分の部屋があるというのは変な感覚で、でも、心がほんのり温かくなるような心地もして。罪悪感と温かさでどうにかなってしまいそうになる。


 私がいるべき場所は、どこなのだろう。稲月は受け入れてくれているけれど、ここは私の家ではないし、まだ居場所とは思えない。


 でも、本来私が帰るべき家すら自分の居場所とは思えなくて、誰かにいていいと肯定されているわけでもない。育った場所があそこだから、家だと判断しているだけであって、特別なものなど何もない。


 帰りたい、と思った時に浮かべられる場所が、私にはないのだ。

 心がいつも迷子で、どこにもいけなくて、寂しい。

 こんなことを考えるのは、私が子供だからなのかもしれない。


「ずっとここにいてもいいよ」


 私はベッドに倒れ込んだ。

 新品の匂いが私の匂いに変わる頃には、この迷子の心も、どこかに着地することができているのだろうか。


 寂しいとか、居場所が欲しいとか、帰る場所が欲しいとか。

 馬鹿みたいだ、本当に。


「ずっと、かぁ」


 ずっとという響きは、空っぽだ。

 確かな繋がりが何もないから、その言葉に意味を感じることができない。


 私は稲月と、どうなりたいのだろう。もっと仲良くなって、ずっと一緒にいたいと心から思えるようになりたい?


 それとも、ただ孤独を感じなくなるくらいに大人になるまで、ここに置いていて欲しいだけ?


 わからない。

 ただ、今はここにいたいと思う。

 稲月と、一緒にいたい。


「私、稲月と一緒にいるのは好きだよ。くだらない話して、一緒にご飯食べて、遊んだりして。でも、ずっとってなんなんだろうね」


 稲月と私の息遣いが、部屋を埋めている。私は体を起こす気にもなれず、ただぼんやりと天井を見上げていた。

 暖かな光。それで心まで溶けてしまえばいいのに、と思う。


「稲月。もし稲月が私のことを一切知らなくても。あの時私を拾ってくれた?」

「当たり前じゃん。彩春が彩春である以上、私は絶対一緒にいる道を選んだ。……何があっても、彩春のことを好きになった」


 透き通った、静かな言葉。胸がじわりと温かくなって、体が重くなる。好きという言葉にどれだけの意味があるかなんて、わからない。

 それが嘘か本当かもわからなくて、ただ天井に向かって手を伸ばす。

 稲月が私の顔を覗き込んで、手を握ってくる。


「私が私である以上って、どういうこと?」

「何て言えばいいかな。ちょっと抜けてて、いつも隠さずに本音を伝えてくれて。……ちょっと、寂しそうな。そういうのが、彩春かな」

「よくわかんないかも。それに……」


 寂しそうなのは、稲月も同じ。

 そういう言葉を口にしたら、稲月が見えなくなってしまうような気がして、私は口を噤んだ。


 私たちは曖昧だ。

 稲月の本心は電波の中に巧妙に隠されていて、掴めない。それを本気で知りたいと願ったら途端に全部溢れて消えてしまいそうで、私はこのままぬるま湯のような関係を続けたいと願ってしまう。


「好きって、わからないし」

「伝えてもいいなら、伝えるけど」


 指が絡んで、黒い瞳が近付く。前よりも熱い指が、一本一本私の指を確かめるようにして力強く絡んでくる。


 伝えるって、どうやって。

 聞くまでもないと思う。彼女の顔がどんどん近付いてくる。


 あれ。考えてみたら、抵抗する手段がない。思ったより稲月の力は強くて、その瞳に宿る光も増すばかりだった。


 いや。なんか、違う。こういう展開は求めていないと思う。でも、本気なのだろうか。ここで私が何も言わなかったら、彼女はこのまま私との距離をゼロにしてしまうのかな。


 好きが本気だったとしたら。

 前の時間軸の話は、どうなるのだろう。

 色々こんがらがって、よくわからなくなりそうだった。


「稲月、前にキスより先のことはしたことないって言ったけど……キスをしたことないとは、言ってなかったよね」

「そうだね。したことあるよ、彩春と」

「そっか。まあ、恋人だったんだもんね」


 前の時間軸の話をすると、やっぱり稲月は途端に見えづらくなってしまう。


 でも、私が稲月にここまで近付いたのは、電波発言があったからだ。電波に頭がどっぷり侵されたからこそ、喉を触られても抱きしめ合っても、そういうものかな、なんて精神でいられた。


 何もない状態で好きと言われても今以上に信じられなかっただろうし、罰ゲームか何かだと思っていただろう。


 稲月は今の私に何を望んでいるのだろう。本当に私のことが好きならば、そういうことをしたいと願っているのだろうか。だから私のことを拾った、とか。


 稲月とそういうことをしたいとは思えない。けれど、稲月がそれを望んでいるのなら、してもいいんじゃないか、と思う。

 電波発言に付き合うのと、さほど変わらない。


「うん。……でも、今はしない」

「どうして?」

「だって、彩春の目が空っぽだから」


 稲月はきゅっと指を絡めたまま、私の目を覗き込む。

 近い。

 触れられる度、彼女の言葉を聞く度、彼女との心の距離が遠ざかるような気がするのはなぜなのか。


 でも、近い。

 彼女の温度も匂いも感じられるほどに近いから、脳が混乱する。


 受信すべき周波数がズレて、稲月が遠ざかる。触れられた場所が熱いのに、霧に隠れていくように稲月が見えなくなる。


「好きって言って、キスしてって言ってくれたら。その時に、する」

「……稲月」

「今は言葉でしか伝えらんないけど、私が彩春のこと好きって気持ちは、嘘じゃないから」


 この世の言葉とは思えないほど遠い響きが、ぐわんぐわん頭を揺らしてくる。


 言葉だけじゃ信じられない。

 けれどそれ以上のことで伝えられても、多分もっと信じられない。

 稲月のことをもっと知らないと、彼女の感情を理解できそうになかった。


「寝よっか」


 手を離して、私の横に寝転がってくる。

 彼女はそのまま、私のお腹に手を回して、柔らかく抱きしめてくる。私はベッドの端に置いたリモコンで電気を消して、そのまま力を抜いた。


「これからのこと、だけどさ」


 暗闇に稲月の声が浮かぶ。


「彩春は、したいこととかある?」

「どうしたの、急に」

「今までは、私のしたいことばっかしてたから。……彩春のしたいことも、知りたいし。しようよ、一緒に」


 彼女の手がお腹を撫でてくる。服の上からでも、少しくすぐったい。そもそも、お泊まり会と言っても、普通は同じベッドでは寝ないのではないだろうか。


 そう思うのに、稲月と一緒に寝るのには違和感がない。

 稲月を特別に思うのは、彼女が電波発言をするからだろうか。

 よく、わからない。


「じゃあ、お出かけしたい」

「お出かけ?」

「うん。前の時間軸で行ったことない場所。今の私と稲月で、新しく思い出を作りたい」


 電波に隠されていない稲月を見るためには、それしかないと思う。彼女から前の時間軸という殻を取り外して、その中身を見ないと、私はきっと彼女に近づけない。


「……わかった。じゃあ、行く場所考えとくね」


 彼女はそう言って、私の肩に顔を埋めてくる。私はそれ以上何も言わず、彼女に身を委ねた。


 誰かと同じベッドで寝るのなんて、きっと十数年ぶりくらいだろう。抱きしめられた記憶がないのと同じで、一緒のベッドで誰かと寝た記憶もない。


 稲月と一緒に寝るのは初めてだったけれど、意外と安心して、すぐに眠りに落ちた。

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