第2話
稲月が意気揚々と家を出たのは朝九時のこと。
私はそれに引っ張られるままに街を歩いていた。
思い出の追体験というのには肉体的接触も含まれているみたいで、稲月は私の手を握りながら歩いている。
稲月の手は私よりも少し大きくて、あったかい。私の手はどちらかといえば冷たい方だから、バランスがいいと思う。
そうして彼女と一緒に来たのは、パステルカラーの屋根が可愛い雑貨屋だった。私が淡い色を好むことを知っているのか、稲月は誇らしげに私を見ている。
確かに、好みの店だ。何を買うか決めていてなくても、見ているだけで楽しいタイプの店だと思う。
……でも。
「稲月。ここ、まだ開業してないみたいだけど」
店の扉には張り紙が貼られている。そこには、十月十日にオープンする旨が書かれている。
今は九月十一日。この店がオープンするには早すぎる。
「……あ。まだ開いてなかったんだ。うっかりしてた。前はよく来てたから」
失敗失敗と稲月は笑う。
前の時間軸云々の設定を守るためにわざわざこの店を選んで来たのだとしたら、用意周到である。私はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
前の時間軸の設定、ずっと温めてたのかな。
ちょっと、稲月を見る目が生暖かくなってしまう。子供の頃のごっこ遊びの延長、みたいなものなのかもしれない。
もしかすると稲月はそういうのがまだ好きだけど友達には言い出せないから、私を引き入れようとしたのかも。
でも、だとしたらちょっと可愛い。いつも明るくて大人びて見える稲月の意外な一面を見た気がする。
「……なるほど。んと、じゃあ、どうする? 開いてないなら、帰る?」
稲月は私の手をぎゅっと握って、そのまま引っ張ってくる。
社交ダンスみたいな、日常でやるには変な格好になる。今にも踊り出しそうな瞳は、私をまっすぐ見つめていた。
睫毛、長いなぁ。マッチとか爪楊枝、たくさん乗せられそう。
「帰んないよ。行こう、次の場所に」
私の返事を待たず、稲月は歩き出す。
忙しい子だと思う。
私と彼女に流れる時間の速度は多分十倍くらい違うんだろう。私がゆっくり朝にお茶なんて飲んでいたら、彼女はその時間で遊んで帰ってくるくらいはできるに違いない。
そのズレた時間の流れが、私は好きだ。
自分だけではよくわからない時間の速度も、人と関わると色んな差異が感じられる。人との違いと共通点を探す作業は無限でキリがなくて、でも、心が温かくなる。
稲月の時間の流れが、手を通って私に流れてくるような感じがする。
だから私は、いつもより足の回転を早めた。
妙にカラフルな内装に、同じく色とりどりのケーキが並んでいる。右から見ても左から見てもケーキバイキングだ。
今日は稲月に朝食を作らなくていいと言われていたが、バイキングを100%楽しむためだったらしい。
私はこういうところに来るのが初めてだったため、少しそわそわしてしまう。でも、隣の稲月は堂々としているので、私もちょっと胸を張ってみる。身長から何から稲月の方が大きいので、少しへこむ。
「稲月は、こういうところ慣れてそうだね」
「ん? まあね。もう何十年も来てるから」
「十何年じゃなくて?」
「何十年、だね。いや、まあ正確には二十年くらいかな」
電波発言がまた飛び出す。
学校での稲月しか知らない子たちが今の稲月を見たら、驚くんじゃないだろうか。私も学校での稲月以外をほとんど知らなかったから、驚いている。何度聞いても電波がぴりぴり私の鼓膜を刺激してきて落ち着かない。
電波で感電って、しないよね。
でも私は多分感電している。不思議ちゃんこと稲月の電波攻撃で、びりびり、びりびり。
いつか私の頭に稲月用アンテナが立って、電波をしっかり受け取れる日が来るのだろうか。
その前に、感電死しそう。
「二十年。ってことは、人生を何度も繰り返してるとかじゃないんだね」
私はトングをかしゃかしゃしながら言う。パン屋でもこういうことをしてしまうタイプだ。
トングで威嚇して、取る対象を弱らせる。
とかじゃ、ないけれど。癖だろうな、多分。行儀は悪いかもしれないが、友達もやるから恐らく普通だと思う。
「私は高校三年間を何度も繰り返してるだけだよ」
「それはすごい。何か楽しいことあった?」
「彩春と恋人になった」
白昼堂々明け透けな言葉である。こういうところで言われると誤解を招きそうだけど、誤解でもないのだろうか。
いや。今の私は稲月の恋人じゃないのだから、やっぱり誤解だ。
でも、私と恋人になるのは楽しいことだろうか。
卑下するつもりはないが、私と一緒にいても別に楽しくはないと思う。話がうまいわけでもないし、特別容姿が優れているわけでも、すごい特技があるわけでもない。
私が人に提供できるのは、ゆっくり流れる時間くらいだ。忙しなく動き回る人の手を捕まえて、ちょっとゆっくりしてこうよなんてことを言うのは得意だった。
何事ものんびりがいいってわけじゃないけれど、焦れば焦るほど泥沼にはまって苦しくなるのはわかっているから、私は静かにゆったり構えるようにしている。
あの乾いた静かな家で身につけたスキルだ。
「なるほど。時間がたくさんあれば、たくさん恋人ができてお得だよね」
小さくてカラフルなケーキをいくらか皿に取って、トングを置く。稲月は大きめのケーキを五切れも皿に乗せていた。
食べきれるのかな。
女の子の燃料は甘いものなんて友達がふざけて言っていたけれど、稲月もそうなのだろうか。性別的には私も女だけれど、甘いものがそこまで好きなわけではない。
ただ、可愛いものは好きだから、こうして小さなケーキを見ていると、ちょっと心が躍る。
「彩春だけだよ」
「んと?」
「長い間繰り返してきたけど、できた恋人は彩春だけ」
席に戻った後、彼女は言った。思いがけないほど真剣な顔だった。
そういう顔を見ていると少しお姉ちゃんぶりたくなって、私も真剣な顔で応じた。
「それは光栄だ」
ごっこ遊びを本気でしたことはないが、それを稲月が求めているのなら頑張ろうと思う。この一ヶ月、私は稲月のお陰で孤独を感じなくて済んでいる。
一人は嫌いだ。寂しいのも、静かなのも。
でも、人が多くて賑やかな場所に身を置くと、自分がひどく孤独な人間であることに気づく。
皆楽しそうにしていて、家に帰ったらきっと家族がいて。
おはようって言ったらおはようって返ってくる。そんな生活をしている。
おはようなんて言葉は、私にとっては乾いた部屋に投げかけるだけの空虚な言葉に過ぎないのに。
「うん。光栄に思っていいよ。この水空ちゃんに愛されたことを」
彼女は自信たっぷりの笑顔を私に向けてくる。
私は緑色のケーキにフォークを刺した。表面はゼラチンか何かでコーティングされていて、それが店の照明を受けて輝いている。
可愛い。食べてしまうのがもったいないほどに。
でもケーキは食べられるのが存在意義だから、食べる。
可愛らしい見た目に反して、甘さは可愛くない。舌の根っこに染み付くような攻撃的な甘さだった。
「それ、一口ちょうだい」
彼女は半分になった一口大のケーキを指差して言う。私は皿を差し出した。
「違う違う。一口ちょうだいって言ったら、こうやるの」
稲月は自分のケーキを小さく切って、それをフォークに刺して私の方に差し出してくる。
友達としたことは何度かあるが、前の時間軸では恋人だったと堂々言ってくる人とこういうことをしようとすると、妙な感じがする。
友達相手だったらあーん、なんて言って一口あげたのだろう。
稲月だって友達なのに、無意識のうちにそれを避けていた。やっぱり、恋人云々の電波攻撃が少し脳を痺れさせていて、そのせいで私は私らしくなくなっているんだろう。
私らしさなんて、私も知らないけれど。
元恋人さんは、知っているのだろうか。いつか聞いてみたいと思う。
「美味しい?」
小さく口を開けて彼女のケーキを食べると、笑いかけられた。
「うん。いいと思う」
甘くて、甘くて、甘い。
脳みそが甘いという言葉でいっぱいになる。多分、舌から伝わる情報だけではこうはならなかったと思う。
稲月の目が、声が、妙に甘やかだから、頭まで甘くなってしまうのだ。
ごっこ遊びだってわかっていても、心がほんのり温かくなって、ふわりと浮くような感じがする。
「はい。じゃ、私にも」
稲月は口を開けて待機する。明るく染められた茶色の髪もあいまって、なんだかすずめの赤ちゃんみたいに見えた。
親鳥になるには、私は少し未熟すぎるだろうけれど。
私はフォークでケーキを刺して、彼女の口に運んだ。
形のいい唇が閉じて、頬が動く。
「ん、美味しい」
笑いかけられたから、笑い返す。
たったそれだけのことで胸が満たされるのだから、私はしょうがない人間だと思う。
「そっか。もっと食べてもいいよ」
私がそう言うと、稲月は微妙な表情を浮かべた。
「彩春ってさ。二つしか入ってないアイスとかもちょうだいって言ったら絶対一つくれるタイプだよね」
「欲しいならあげるよ。だって、そっちの方が両方幸せになれるし」
「二個しかないのにあげちゃったら、彩春の幸せが減るんじゃない?」
「減らないよ。それで相手が喜んでくれるなら、それが一番幸せ」
私一人から生まれる幸せなんてほんの僅かなものだ。私は幸せというものを生み出す機能が弱いから、他の人を幸せにできる行為をした方がよっぽどいいと思う。
人の幸せそうな顔を見ていると、少しだけ自分と比べてしまったりはするけれど、やっぱり私も幸せになれる。だから、分けて欲しいと願うのなら、何でも分けたいと思う。
「なんていうか、彩春って欲がないね」
「欲だらけだと思うよ。多分ね」
「私に比べれば、全然だよ」
稲月はそう言ってから、小さく笑った。
「……私、そういう彩春が好き」
そういうって、どういう?
わざわざ聞くのもおかしいから、私は何も言わずに全部のケーキを半分にした。
それを稲月に分け与えながら自分も食べていると、自分でも馬鹿みたいだと思うくらいに幸せな気分になった。
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