第6話 霧と不思議な猫
翌日。
シェイラはキャンベル伯爵家の庭にいた。理由は、ハルキイチゴを採るためである。
「ずっるいよなー。ローラのやつ、自分は高みの見物だぞ?」
昨日、自分が揺らして大量のハルキイチゴを落下させた樹をどしんと蹴りながら、次兄のジョージが言う。
「蹴るのはやめてください」
上から、ぽとんと落ちてきたハルキイチゴがカゴに入る。シェイラは顔を顰めてジョージが蹴った樹の幹を撫でた。目には見えない精霊に護られるこの国で、自然を大切にしないのは論外だった。
「お前は何でいつもそんなに澄ましてるんだよ。今日だって、ハルキイチゴのジャムを作りたいって言ったのはローラだぞ? 昨日落ちてきた分じゃ足りなくて、追加で採らないといけなくなったのに……自分はあのテラスでお茶を飲んでいるんだぞ?」
彼が視線を向けた先では、ローラがひらひらと手を振っている。シェイラも、取り繕った笑顔を返した。
「……手元に縫物があるでしょう。きっと、お母様のお手伝いをしているのよ」
「それにしたって。僕だけじゃなくローラにも文句言えよ。お前は本当になー!」
長兄ルークは勉強の時間である。この庭には、シェイラとジョージの二人だけだった。
「「……!」」
さっきまで晴れていて気持ちの良いお天気だったはずなのに、急に霧が出てきた。
「……家の中に戻るぞ」
「はい、お兄様」
軽口を叩いていたジョージの表情が強張る。それに同意したシェイラも、あわててカゴを抱えた。
この世界で発生する霧はあまり良いものではない。魔法の残骸で発生することが多く、運が悪いと巻き込まれて知らない場所へ連れて行かれてしまうことがあるからだ。
大人であれば、いざという時用にその場所に留めるための魔法陣や道具を持っているし、それ以前にまず街には結界が張ってある。
けれど、子供が家の庭で遊んでいるときに霧が出てきたら、それが濃くなる前に家の中に逃げ込むしかなかった。
「行くぞ」
「あ」
シェイラが抱えていた大きなカゴをひったくるように奪い取って、ジョージが走り始める。シェイラもそれに続いたけれど、風邪でしばらく寝込んでいたせいで、体力が落ちていた。足がもつれて、転んでしまう。
「いたっ」
シェイラが転んだことにジョージは気付かない。ぴゅうっと駆けて、屋敷の玄関を開けた。
(あ……これ、まずい)
何とか体を起こしたシェイラを濃い霧が包んでいく。反射的にポケットに手を突っ込んで、魔法陣を描くための紙とペンを取り出す。けれど、もう間に合わない。
(あ。それ以前に、私は……魔法が使えないんだった……)
完全に、視界は真っ白になった。
さっきまでキャンベル伯爵家の庭に漂っていたハルキイチゴの甘い匂いが、全然しなくなっている。
たった一瞬。けれど、ここはもうシェイラが知った庭ではない。
(気温も……少し下がった気がする)
シェイラは両腕をぎゅっと抱え込む。
(前の人生でも、こんな風に霧に巻き込まれたことがあった。あのときは、クラウスと一緒だった)
王城の裏に広がる森は、アレクシアとクラウスの格好の遊び場だった。そのときも、二人で遊んでいて霧に包まれたのだ。当然、クラウスは焦ることなく魔法陣を取り出してその場に留まろうとした。
けれど、アレクシアは霧の先に何があるのかを知りたかった。だから、彼の手を止めたのだ。
――その時に飛ばされたのは。
「ここ……知ってる」
目の前に広がるのは、一面の草原である。樹も花もなくて、見渡す限りの若草色。少し長い草の丈がふくらはぎに触れてくすぐったい。
少しだけ肌寒いものの、優しい風が吹いていて嫌な感じはまったくしなかった。
(きっと、あのときも、ここに来た)
アレクシアとクラウスが霧に飲まれたとき。あの日も、辿り着いたのはここだった。自分から来たものの、急に怖くなってすぐに魔法陣を描き、王城に戻った。転移魔法が使えたことにひどく安堵したことを覚えている。
壮大な風景を眺めながら立ち尽くしていると、足に草とは違う柔らかいものが触れた。
「……!?」
シェイラは、これは何だ、と恐る恐る視線を下に落とす。
『みゃー』
「……」
そこにいたのは、猫だった。
「ね、猫……?」
この何もない草原に、真っ白い猫。一体どこから来たのだろうか。
シェイラが戸惑っていると、猫はぴょんと跳ねてシェイラの肩にのってきた。身のこなしが軽いだけでなく、本当に重さもない。ふわふわとした柔らかい毛が気持ちよかった。
「ここは、どこなのかしら」
答えはないと知りつつも、聞いてみる。
『みゃー』
猫は小さな声で優しく鳴いてから、シェイラの顔を舐めた。まるで、大丈夫だよ、とでもいうように。
「あなた、少し不思議ね?」
シェイラは微笑んで、人差し指で柔らかな毛を撫ぜる。すると、お返しかのようにふにゃふにゃのしっぽが、髪を撫でてくれた。
『みゃー』
「……」
重さのない猫。ふわふわの美しい毛並みに、金色の瞳。そして、何よりも強く感じる魔力の気配。シェイラには魔力がないけれど、この猫が普通の猫ではないのは分かる。
「私、ここに来たのは二度目なの」
『みゃー』
猫が相槌を打つ。
「この前来たときも、同じぐらいの年齢だったと思う」
『みゃー』
「一緒に来てくれた彼は、もういないの」
『みゃー』
まるで会話をしているようだ。あまりにもリズムよく返事をくれるので、シェイラはつい饒舌になる。
「21歳まで、私は生きるわ。彼は私のことを守ろうとしてくれていたもの。だからそれまでにキャンベル伯爵家を立て直すことだけを考える。でも」
『みゃ?』
「さみしい」
ぽろりとこぼれた本音に、ずっと我慢してきた涙があふれる。
「彼も、誰も、いない。さみしい」
『アレクシア』として来たことがあるこの場所。無限にも思えるほどに広いこの草原は記憶の片隅に残っているものとまったく変わらなかった。それだけに、空虚さがじわじわと心を抉っていく。
「……!」
『みゃー』
気が付くと、猫がシェイラの涙を舐めてくれていた。
「……ありがとう。すっきりした」
シェイラは涙を拭いて猫に笑いかける。金色の瞳が『もう平気?』とでも問うようにこちらを見つめていた。
「もう泣かないわよ。私、元々そういう性分ではないし」
『みゃー』
「それにしても、ここからどうやって帰ったらいいのかしら。前は魔法で帰ったのよね。でも今の私には魔力がない」
すると、猫がトトッとシェイラの手元まで下りてきた。シェイラの手には、さっき霧に包まれる瞬間に握りしめた紙がある。
『みゃー』
猫は手から紙を一枚咥えて抜き取ると、また肩までやってきた。
「これに……描くの?」
『みゃー』
まさか、と思った。けれど、言われた通りに魔法陣を描いてみる。行き先はキャンベル伯爵家の庭だ。シェイラが描き終わると、猫は紙をぱくっと噛んだ。
「あ」
その瞬間、シェイラの体は光に包まれる。
(これは……)
なじみ深い、覚えのある魔法の感覚。気が付くと、シェイラはキャンベル伯爵家の庭にいた。頬にふわふわの毛が触れる。
『みゃー』
猫も一緒だった。
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