第17話 ひやりとした感覚
さっきまで庭を見下ろす形で座っていたはずなのに、いつのまにか庭から空を見上げていた。
倒されるときに自然と受け身を取ったので、後頭部と背中に衝撃はあまり感じない。前世での動きがこんなに淀みなく出せるとは。シェイラの意識は、また別のところにいた。
急に近づいた土の匂いと、腕や顔をくすぐる草の感触。こんなときに暢気すぎると思いながらも、彼の顔の向こうに見える澄んだ空がとても美しい。
そして、首筋にあてられたひやりとした鋭い感覚にぞくっとする。けれど、目の前にあるのは殺気を含まない寂し気な瞳だった。
透き通ったディープブルーと、日の光のようなゴールド。端正な顔立ちとも相まって見とれてもいいはずなのに、シェイラにはその先の哀しみしか映らない。
回廊と城壁の間の庭にシェイラを押し倒し、その首筋に短剣をあてたままフィンは呟く。
「君は、本当の彼女のことを少しも知らないだろう。彼女が、どんなに、」
「……!」
この短剣は、きっと少しでも動けばシェイラの肌を傷つけるだろう。けれど、シェイラには彼がそんなことをするとはどうしても思えなかった。
決して甘く見ているわけではない。前世で剣士だったアレクシアの勘のようなものだった。
「……俺が怖くないのか」
「え?」
「首元に剣を突き付けられても、まったく怯えていない」
フィンはそう言うと、シェイラの上から退いた。シェイラは仰向けに寝転んだまま、言う。
「……怖さよりも、寂しさの方が強くて」
「? どういうことだ」
「今の貴方の瞳と、同じものを私も毎朝見ていますから。……鏡越しにですけれどね?」
「……」
情けなさのほうが勝って、シェイラは自嘲気味に笑った。
そう、この瞳に隠された何とも言えない感情なら、今朝も見た。目覚めてすぐ、猫のクラウスが側に居ないことに気が付き、うっかり名前を呼んでしまったのだ。クラウスはすぐに来てくれたけれど。
もう泣かないと決めたはずなのに、すぐに感情に流される自分の弱さに辟易する。
フィンは何も言わない。少しの間、空を眺めてからシェイラは起き上がった。
「ごめんなさい。王族に対し、不敬でした。……どんな罰でも」
「いや。今のは完全に俺が悪い。つい頭に血が上った」
すっかり我に返ったらしいフィンは、髪をぐしゃっとかき乱す。瞳からは、さっきまでの強い憤りが消えていた。
(……)
彼が持つ、かつての女王・アレクシアへの強すぎるほどの特別な感情。尊敬の念という言葉では到底片付けられない、重くて身をぴりぴりとさせる情熱。けれど、その答えがシェイラには分からなかった。彼が人を寄せ付けないのは、その答えに繋がっている気がした。
「すまなかった」
改めて、フィンは頭を下げる。
「陛下。気軽に人に頭を下げてはいけません。私は貴方の尊厳を傷つける言葉を言ったのですから」
ふと、驚いたような彼の瞳が目に入った。オッドアイの片方は、アレクシアが焦がれた愛しい碧と同じだ。
もし、クラウスがシェイラと同じように転生していたとしたら。こんなふうに、アレクシアの名誉を守ろうとしてくれるのだろうか。行き場のない怒りを抱え、ひどく傷ついた瞳で。
――この国には、輪廻転生の概念が存在する。けれど、転生するのは詳細な記録が残せないほどごく稀。しかも、いつの時代に生まれ変わるのかは分からない。
(ううん、そんな都合のいい話、絶対にない)
一瞬だけよぎったその考えを、シェイラははなから否定したのだった。
『みゃー』
陽だまりで微睡んでいた猫のクラウスがむくっと立ち上がり、タタッと城壁までかけていく。そして、樹や壁の凹凸を器用に使って城壁の上に乗り、また寝そべった。
それを指さしながら、シェイラは言う。
「……今日は、あの場所で魔法陣を描こうと思って来たの」
ここに来たときは言う気がなかった。もし、フィンに会ってしまったら何も言わずに立ち去るか、軽く挨拶だけをかわす予定だった。
けれど、今はなぜかもっと彼と話がしたい気分だった。青い顔を見て、元同業として彼の抱えるものに同情しているのかもしれない。
「あんな場所でか? 危ないだろう」
苦笑するフィンに、シェイラは微笑み返す。彼が笑うのを初めて見た、と思う。
「眠らなければ大丈夫だわ。……貴方みたいにね」
「意外と言うな」
(何だか、少しだけ懐かしい感じがする)
――もし、クラウスも転生していたとしたら。転生先の時代で、彼は幸せに生きているのだろうか。
その可能性に気が付いてしまったシェイラの胸は、ちくりと痛んだのだった。
「……気を付けて」
「ありがとう」
先に城壁に上ったフィンが、シェイラの手を引く。さっきは、肩の上の猫を撫でるのさえ躊躇っていたのに、随分な変化だった。
「すごいわ。裏の森がよく見える」
景色に感動するシェイラの言葉に相槌を打たず、フィンは寝転んでいた。目は閉じている。きっと、この前初めて会ったときのようにこのまま眠るのだろう。
(青い顔色。わざわざここに来て眠ること。……きっと、事情があって部屋や夜では眠れないのね)
シェイラよりも少し高い場所で寝ていたクラウスが近寄ってくる。そして、ととと、とフィンの顔の近くまで行くと丸まってそこで寝直した。
フィンは目を瞑ったままクラウスを撫でる。
『みゃー?』
「しー。少し休ませてあげて?」
クラウスがもっと撫でてほしそうにおねだりをするので、シェイラがかわりに真っ白なふわふわの毛を梳いた。うっかり、フィンの銀の髪に指先が触れた。
けれど、彼は気にすることなく眠っている。さっきまでのあらゆるものへの拒絶が嘘のようだった。
シェイラは、庭側ではなく堀の方に足を投げ出す。アレクシアが慣れ親しんだ、大好きな森が見える。樹の匂いがここまで届く気がする。
それから、魔法陣ケースから一枚の紙とペンを取り出した。そして、丁寧に描いていく。今日描くつもりでいたのとは違うものを。
少し複雑な高位魔法の魔法陣だから、描くのに時間がかかる。それにひさしぶりに描くから、計算も慎重に。けれど、彼が眠っている間には仕上げて渡せるだろう。
(……これ、クラウスにも描いたことあったわ。渡したら、こんなもの描く時間があったら休めって怒られてしまったけれど)
穏やかな時間が流れて行った。
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