第28話 上弦の月とクラウスと
「王女、こちらへ」
フィンに特別な呼び名で声をかけられたので、シェイラはぎくっと体を震わせた。シェイラのそんな様子をものともせず、フィンは上着を脱いでシェイラの肩にかける。
(皆が見ているのに、これはありえないわ)
シェイラとメアリの会話が一同に聞こえていなかったのと同じように、フィンがシェイラをアレクシアの転生者であり正妃に適任とする声はシェイラにも聞こえていなかった。
「私は大丈夫ですわ。それよりもメアリ様を」
「メアリ嬢に何か体を拭くものを」
フィンの言葉に、ケネスがすぐに肩掛けを取り出しメアリに渡す。それを確認したフィンは、シェイラの顔に飛んだ水しぶきを自分の指で丁寧に拭う。
羽根を滑らせるような優しい手つきに、シェイラは呼吸を忘れそうになる。けれど、焦りですぐに正気に戻った。彼はまったく話を聞いていない。
「陛下」
見かねたシェイラは苦情を申し立てた。
「なんだ。ハンカチの方がいいか」
「いいえ。そんなに濡れていないので問題ありませんわ。……と言いますか、私は今日魔導士として呼ばれたものと思っていたのですが」
「ああ。済まない」
謝罪を口にしつつ、フィンはまだシェイラの髪についた雫を拭っている。
自分から離れないフィンをシェイラは眉を寄せて見上げた。そして周囲の気配を辿るけれど、なぜか咎める空気はない。
(これは、どういうこと)
「……そういうことだったのですね」
メアリがフィンを見つめている。さっき、彼はシェイラのことを『王女』と呼んだ。驚きつつ、フィンの前世がクラウスなのだと理解したのだろう。精霊によって転生することは稀ではあるけれど、既にここには二人の転生者がいる。三人目がいてもおかしくなかった。
「!」
メアリが改めてフィンとシェイラに跪こうとする。これは、淑女の礼ではなく臣下の礼だ、そう察したシェイラは瞬時にメアリの体を支えて阻止した。
「謝罪はもういただきました。ここからは、メアリ様として振る舞ってくださいませ。忠誠を誓うのも、謝罪をするのも、メアリ様としてです」
「……シェイラ様」
「そうだな。ハリソン伯爵家の面々はもちろん、後宮にいる皆が心配していると聞いているが」
フィンの言葉に、シェイラは頷く。
「そうです。穏やかに相槌を打ってくださる方がいないのでティルダ様の言葉はすっかり丁寧になってしまっていますし、優しく聞いてくださる方がいないので、サラ様の嫌味も鳴りを潜めていますわ」
「……ありがとうございます。シェイラ様」
シェイラは遠慮がちに微笑むメアリの手を取った。さっきまでの震えはすっかり止まっている。
「今頃、お二人はメアリ様のお部屋で帰りを待っているはずです。戻ったら、湯浴みをして温かくして、私達と一緒にお茶を飲みましょう」
「はい、ぜひ」
メアリの知的な印象の瞳が控えめに細まった。上辺だけと知っていても、メアリが笑ってくれたことにほっとする。シェイラは、改めて彼女の手を握り直す。
メイリア王国との国境に程近いこの場所で、100年と少し前に彼女は死んだ。後悔を抱え、その中でまた王宮に上がったメアリの気持ちが、シェイラには痛いほど分かっていた。
◇
「それにしても……こんなに転生者が多いなんて不思議だわ。しかも、同じ時代よ」
城壁の上、ほの暗さの中にぽかりと浮かぶ上弦の月を眺めながら、シェイラは呟いた。
「あの日は精霊祭の前日、いや、日付が変わっていれば当日だった。何か特別なことが起きていても不思議ではない。俺たち以外に、あの場所で精霊に会った者は他にもいるのかもしれないな。なあ?」
『みゃー』
フィンの言葉に猫のクラウスが相槌を打ち、彼の手にごろごろと体を擦り付ける。ちなみに、シェイラは彼の前世の名前を借りていることをまだ言えていない。
(だって、今世でも会えるなんて思わなかったもの。もし知っていたら絶対に違う名前を付けていたわ。こんなの……恥ずかしすぎる)
『精霊祭』というのは新年を迎える日のこと。精霊がつかさどるこの国では、一年の中でも最も特別な日として認識されている。
今日、メアリをメイリア王国との国境の湖から部屋に送り届けて休ませた後、シェイラは夕食を摂って大人しく部屋にいた。けれど、湯浴みを終えてもベッドに入る気になれなかった。
ひさしぶりに『王宮の魔導士』として依頼を受け魔法陣を描いたこと。マージョリー・ハーレイから謝罪を受けたこと。どうやら、フィンがシェイラの前世を話したらしいこと。
今日はいろいろなことがありすぎて、頭は冴え渡っていた。
時間はまだ遅くはない。シェイラは一人部屋を出て後宮の奥、森の匂いが感じられる城壁近くまできたのだけれど。案の定、そこには先客がいたのだった。
「……それにしても、私には城壁に乗るなと言っていたのに」
「そう言っても登ってくるんだからな」
シェイラはフィンが城壁の上に座っているのを見つけるが否や、器用に足場を利用して隣によじ登った。フィンの苦笑が懐かしくて、シェイラは照れ隠しに肩をすくめる。
「……君が、アレクシアだと皆に話した」
「だと思ったわ」
「俺自身のことも……。本当はクラウスの生まれであるワーグナー侯爵家と王家の関係を考えても明かすべきではないとは思ったが」
「そうね。ワーグナー侯爵家は今も存在する名門だけれど……ご当主はきちんとした分別をお持ちの方でしょう? 陛下の判断は間違っていない」
城壁の上、シェイラとフィンは堀側に足を投げ出して座っている。頬を撫でていく夜風に、清々しく甘い秋の匂い。真っ暗な森にところどころ浮かび上がる灯り。静かである。
「……あの場だけではなくさっき戻ってからも皆に話した。今日のこともあって、真偽を問う声は上がらなかった。明日には君を取り巻く環境がまたガラッと変わっているのだろうな。……申し訳ないが」
気遣う様子のフィンに、シェイラは余裕を見せる。
「後ろ盾としてはほぼ無意味のキャンベル伯爵家の令嬢と親しくしているのではなく、女王・アレクシアだから特別な関係なのだと思われている方が貴方にとって都合がいいわ」
「それは、本気で言っているのか?」
ほんの少しの怒りを孕んだ声に、シェイラは隣へと視線を移す。拗ねているのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。
「この国を継ぐと決心した時から、俺の指標は女王・アレクシアだった。一番近くで見てきたからな」
「ふふっ。ありがとう」
「ただ、今は前世の君が優秀だったから正妃に迎えたいと言っているわけではない」
「それは……もちろん分かっているわ」
言葉はなくても当たり前に知っていることだったけれど、改めて口にされるとむず痒い。シェイラは堀に浮かぶ月に視線を落とし、つま先を揺らしてかちかちと鳴らした。
「今日……湖の中でメアリ嬢に、『好きな人だっていた』と言っていただろう」
「! ……聞こえていたのね」
「なぜかそこだけはな」
柔らかく笑うフィンの横顔を、シェイラは頬を膨らませて睨んだ。
「あれは、正直うれしかった」
「……」
何か眩しいものを見るようなその顔は、とても優しくて。
「……とっさに出た、王女としての言葉だろう。王女の側に十数年間仕えた、クラウスとしての自分がやっと報われた気がした」
彼が紡いでくれる想いの大きさに、鼻の奥がつん、とする。頬が熱くなって、目が泳ぐ。
(今の私は……あまり人に見せられない顔をしている気がするわ)
アレクシアもシェイラも、根となる部分は変わらない。動揺は人に見せないし、想像を超えて気持ちが動くことはそうない。
――こんな場面を除いては。
(こんなことで喜んでくれるのなら、いくらでも言うのに)
ただし、今以外でである。シェイラはこの感情の置き方が分からなくて、下を向いたまま足をぶらぶらと揺らしたのだった。
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