100年後に転生した私、前世の従騎士に求婚されました~陛下は私が元・王女だとお気づきでないようです~
一分咲🌸生贄悪女、元落ち⑤6月発売
第1話 絶望の淵で
パチパチと耳に響く暖炉の熱。
柔らかく揺れる朱の灯りに、心地よく鳴る鐘の音。
幸せな笑い声、しんとした雪の匂い、緋色の実と尖った翡翠色の葉。
まもなく訪れるはずの、希望の朝が消えたのは一瞬のことだった。
◇
暗闇に護られて、深い深い森を走っていた。
外出用ではない柔らかな靴の底にくる、小枝がめりっと刺さる感触。体勢が崩れて不安定になっても止まることは許されない。
小さな頃から、愛する人とともに慣れ親しんだこの森。今日は、いつもの心安らぐ土の匂いは感じない。颯と追い立てる樹々のぴりぴりとしたざわめきに息ができないでいる。
けもの道ですらもないこの荒れた葉と木の枝の上を、どれぐらい走ったのだろうか。
(もう、魔力が……)
すっかり空っぽになってしまった体のせいで、足がもつれて、息が切れる。それでも、アレクシアの手を引く力が弱まることはなかった。
「大丈夫か? 王女」
「ええ」
彼はいつも、アレクシアのことを『王女』と呼ぶ。
もう『王女』ではなくなってから1年が経つ。その響きに込められた、あたたかい感情がアレクシアはとても好きだった。
けれど、今はそんな気遣わし気な声にも強がる余裕はなくて。
ただ、頷くしかなかった。
終わりはもう見えている。それなのに、彼への想いが邪魔をしてどうしても命令が下せない。こんなことは、彼女の人生ではじめてだった。
(私たちはじきに追手に捕まる。クラウスだけを逃したくても、この残りわずかな魔力では転移魔法はもう使えない。……私が一人囮として残って彼らを引きつけ、クラウスを逃がす時間をつくる)
「……っつ」
唇を噛みしめ、決意を固めたところで怪我をしている従者――クラウスが顔を歪めた。アレクシアは足を止めてしゃがみ込み、くしゃくしゃの紙を取り出す。
「今、癒しの魔法を!」
「だめだ。さっき、使用人たちを逃がすのに使ってもう魔力は空っぽだろう。これ以上無理をしたら命に関わる」
「無理をしなくてももうとっくに関わってるわよ? いいから見せて!」
「……いまそれを言う場面か……」
緊迫していた二人の空気が一瞬緩んだ。こういうところは、主従関係にありながらも幼なじみの二人である。
(今なら、私を置いて行けと命令を下せるわ)
アレクシアは鋭い視線をクラウスに向ける。
「……行くぞ」
言葉を発するタイミングを与えずに、彼はまたアレクシアの手を引いて走り始めた。たった今、顔を歪めていたはずなのにその名残は微塵もない。クラウスもまた、彼なりの決意を固めた様子だった。
二人は、このプリエゼーダ王国を治める年若き女王とその従者である。
城が襲われてから、まだ一刻ほど。鉄壁だったはずの守りは内側から崩された。
けれど、不思議と裏切りへの怒りは収まっていた。死を前にした、しんとして冷たい感情。それが揺らぐかどうかは、アレクシアにとって彼の無事次第だった。
さっき、アレクシアはこの世界でも有数の魔導士である自分が持てる魔力をありったけつぎ込んで、使用人たちを安全な場所へと移した。
自分と専属護衛騎士であるクラウスだけが残り、こんな原始的な方法で逃げているのは、彼らへの追手を遅らせるためにほかならない。
(彼らのことは、協約を結ぶ同盟国の国境まで飛ばした。だからきっと、国境を越えてしまえば皆助かる)
その刹那。
「いたぞ!! こっちだ!!」
恐れていた声とともに、照明弾が上がった。おぞましいほどの、魔力の気配が近づいてくる。
(クラウスは、私が守る)
「……アレクシア」
もう魔法は使えないことなど、本能で分かっていた。
でも、幼い頃から彼と一緒に学んだ剣術がまだ残っている。眼光鋭く一歩前に出ようとしたところで、殊更強い力で引っ張られた。
アレクシアの腕を痛いほどに握る、ずっと、自分を守ってくれた無骨な手。
髪の毛が風を切った瞬間に香った、懐かしい土の匂い。優しくて甘やかな、すべてを許されたころの思い出が胸をかすめる。
(どうして……この想いを一度も伝えなかったのかしら)
最後の感情は、国を守ることだけを考えて生きてきたアレクシアとしてはびっくりするほどの、少女のように純粋な想いだった。
その後の記憶は、ほとんどない。
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