第20話 王女と従者

 さっきまで、自分と対等に座っていたはずの彼が跪いている。


 それが今必要なこととはどうしても思えなくて、シェイラも彼の目の前にぺたんと座った。冷たい床など全く気にならない。


「……王女。あの時は、お守りできなくて申し訳ありませんでした」


 その言葉選びに、これは本当にクラウスなのだ、と思う。


「何を……」


 言いたいのは、こんな言葉ではないのに。けれど、一瞬で専属護衛騎士に戻ってしまった彼に、フィンが抱えてきた後悔の大きさを知る。シェイラにも、覚えがある。それを聞き流すことなんてできなかった。


 シェイラは、恐る恐る彼に手を差し出す。でも、彼の手は膝の上で握られたまま動かない。


(……手を、取ってくれない)


 シェイラは、大きく息を吸った。もう会えるはずがないと思っていた彼が、ここにいる。


 口を開くと、嗚咽だけが出そうで。シェイラは唇をぎゅっと噛みしめて、彼が顔を上げてくれるのを待った。


 フィンの手が、膝の上で小刻みに震えている。彼の視線は床に落とされたまま。後宮の奥で会ったときの、真っ青な顔色。それを思い出すだけで、彼がこれまでどんな悪夢をどれぐらい見てきたのかということは想像に難くなかった。


(……)


 少し迷った後、シェイラは彼の膝まで手を伸ばしその震える手を取る。そして、少し近づいてその手のひらを自分の頬にあてる。いつの間にか流れていた涙が、大きな手に触れた。その感触に驚いたのか、フィンはやっと顔を上げた。


 懐かしい紺碧の瞳に、自分が映っている。涙でぐしゃぐしゃの自分の顔はひどく間抜けだけれど、そんなことはどうでもよかった。


(やっと、目が合った)


「ずっと、会いたかった」


 嗚咽は堪えられたけれど、声が掠れた。もう一度息を吸って、大きな声で続ける。


「寂しか……」


 その瞬間、シェイラはフィンの腕の中にいた。まるで壊れ物を触るような、優しい感覚だった。前世で最期に覚えている、絶望と入り混じった痛いほどの幸福感があたたかい感情に塗り替わっていく。


「いつから」

「森を逃げた後……私は気がついたら6歳のシェイラ・スコット・キャンベルだった」

「そうか」


 フィンの、シェイラを抱く腕に少し力が入る。


「クラウスは?」


「俺は、生まれたときから記憶があった……そうか。魔法陣を描いて、キャンベル伯爵家を立て直して……こうなっても、やはり君は君だな」


「違う。死ぬって分かっていたけど、せっかく貴方が守ろうとしていたんだもの。アレクシアとしての意志があるうちは、最後まで生き抜くって決めただけ」


 また、ぎゅっと抱きしめられた。大きく息を吐く気配がする。


「……よく、御無事で」

「……まず、無事ではなかったけれどね?」


 これが彼なのだと思うと、ついかつてのように憎まれ口を叩いてしまう。耳元で、ふっ、と柔らかく空気が揺れる気配がした。


 いつの間にかおでこがくっついている。目を伏せたままフィンはため息をつく。クラウスがたまに見せていた、呆れたようなこの表情がアレクシアはとても好きだった。


 フィンは躊躇っている。

 この期に及んで、まだ何を抑える必要があるというのか。


 やっと会えたのに、まだいろいろなことを考える余裕があるらしい彼と自分の温度差が悔しくて、シェイラは、自分から唇を重ねた。


「……っ」


 フィンが驚いた気配がする。けれど、すぐにシェイラのはちみつ色の髪に彼の指が絡む。一度だけ口づけた後、フィンはシェイラの首元に顔をうずめた。


「俺も、会いたかった」


 耳元で囁かれた低い声に、ぞくりとする。


 その瞬間。


 シェイラの中で、カチン、と音がした。


(あれ……!)


 物理的な振動もあったので、シェイラは驚いてフィンから体を離す。まるで時計の針が動き出したような、この感じ。


(もしかして、これって……寿命が……)


 初めての感覚に、シェイラは自分を抱きしめるように両腕を抱え、目を瞬かせた。


「……すまない。大丈夫か」


 勘違いしたらしいフィンはシェイラの手を取り、立ち上がらせてくれる。


「大丈夫よ。これくらい」

「……これくらい?」


 面白くない、というように、俄かにフィンは眉を吊り上げる。明らかに、甘い時間は終わりだった。


 さっきまでの声色が嘘のように、フィンは言う。


「というか。王女は、なぜこんなところに上がっているんだ」

「こんなところ、って後宮よ? 貴族令嬢にしたらわりと名誉な場所じゃない?」


「君をこんなところへ送り込んだ今世での父親は万死に値するな。すぐに呼んで話を聞く。……ケネス!」

「えっ? ま、待って」


 フィンが声を張り上げたので、シェイラは慌てる。数秒も置かずに側近は現れた。


「ご用ですか、陛下」

「すぐにキャンベル伯を領地から呼び出せ。問い質したいことがある」


 まったく意味が分からない。一瞬冗談だと思ったが、フィンの目は本気である。


「いえ、ケネス様。お手を煩わせる必要はございません。陛下に言い聞かせますので、少しお待ちいただけますか」

「承知いたしました。よく言い聞かせられるよう、しばらく下がっておきます」


「あ、ケネス」


 ケネスはやれやれ、というように扉を閉じる。自分ではなくシェイラの言うことを聞いた側近に、フィンは不満げである。その表情を見て、シェイラはほっとした。


「……ここにきてから……貴方はずっと一人なのかと思っていたの。でも、そうじゃなかったみたいね」

「気付いていたのか」

「わざわざ魔法陣を描いてあげるぐらいには心配していたわ? 一応、王としては先輩だし」


 シェイラの言葉に、フィンは少し微笑んでくれたけれど、それは本当に一瞬だった。


「それで。言いたいことは、山ほどある」

「……はい?」


 懐かしすぎるお説教の予感に、シェイラは椅子ごと後退りをする。

 

「まず大体にして、この薄い服は何だ。こんな夜に出歩くときの服装か。肩掛けを持ち歩くようにと、あれほど」


 そう言いながら、フィンは自分が着ていたジャケットを脱いでシェイラの肩にかけた。


「一応、侍女が準備してくれて……見て分かると思うけど、生地は意外ときちんとしているし、断じてナイトドレスとかではないわよ? あの、少し……落ち着いて?」


「正気でいられるか。国王が俺だったからいいようなものの。軽率すぎる。王女も、もう少し考えて行動を」

「はい、ごめんなさい」


「それから、外壁から下りるときは梯子を使え。いくら運動神経に自信があっても危険すぎる。というか、そもそもあんなところに乗るな」

「み、見ていたのね……」


 返事をしないシェイラを、フィンはじろりと睨む。


「ご、ごめんなさい」


 完敗だった。


「ほかにもまだ言いたいことはあるが」


 フィンは、お説教モードから急に真面目な表情になる。


「王女の心残りはなんだ。何としてでもそれを解消しないと」

「え」


(寿命のことは……もう大丈夫な気がするのだけれど)


 さっき、体中に響いた鈍い感覚。あれは、21歳で止まっていた寿命が動き出した音なのだろう。そうでなくてはおかしい。


(だって。私は、クラウスと心を通わせたかっただけだもの)


「……やはり平和か」

「えっ」


 どう伝えようか迷っていたところで、また、間抜けな声が漏れた。けれどフィンはシェイラの心情を気取る様子も見せない。


「城が襲われたあの時、隣国との講和を結ぶ直前だっただろう。実は俺も、それなのではと思っていた。あれ以来、交渉は頓挫していたが……偶然にも時を経た今、再度交渉が進んでいる。だから心配するな」


「そう……それはとても良いことで……でも」

「大丈夫だ。きっと、俺が何とかする」


 そう言ってシェイラの手に恭しく口づけるフィンの瞳は真剣である。


 だからシェイラは、それちょっと違います、とは言えなかったのだ。

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