第9話 婚約破棄①

「シェイラ嬢。私と君の婚約を白紙に戻したいのだが」


 目の前の男の言葉に、シェイラは目を瞬かせた。ぱち、ぱち。……やはり意味が分からなかった。仕方がないので、隣で足を組んで座る次兄ジョージに聞く。


「ジョージお兄様。私、この方と婚姻に関わる契約を交わしていたかしら」

「相変わらず面白いことを言うな、お前。答えは否だ」


 口の端を持ち上げたジョージが言うのを確認して、シェイラは彼に向き直り、大輪の笑みを浮かべた。


「ということですので、お引き取りを。お出口はあちらですわ」

「えっ」


 男の瞳もまた、聞いていない、というように揺れている。スッと立ち上がり、出口へとエスコートしようとするシェイラに、彼の隣に座っていたローラが立ちはだかった。


「シェイラ。あなたはとっても凄い子よ。魔力は皆無だけど、その分魔法陣を描くのが上手なんだもの。しかもまだ子供だったのに事業を起こして家を立ち直らせちゃうんだから」


 ふかふかの分厚い絨毯に、大理石の調度品。確かに、このサロンにあるものはすべて少し前のキャンベル伯爵家にはありえなかったものである。


 抑揚のない形ばかりの褒め言葉に、ジョージがため息をつく。


「ローラ。なんでお前がサイモンの隣に座ってんだよ」

「うるさいわねえ。ジョージお兄様は黙っててくださる?」


(また、ローラお姉様なのね……)


 たおやかな笑みを湛えつつも、シェイラは内心うんざりしていた。


 シェイラが前世の記憶を取り戻してから、12年。時が経ち、シェイラは18歳になっていた。


 この12年は本当に長く、いろいろなことがあった。


 一つはキャンベル伯爵家の立て直しである。王宮から派遣されている魔導士のお墨付きをもらったシェイラは、父親に掛け合って商会を設立した。


 母親をなくしたうえ、魔力を持たないシェイラに同情していた両親は甚く協力的で、シェイラが15歳になるまでは父親の名を使うことを許してくれた。


 魔法陣は、魔法を使うたびに必要になる。初級魔法までは印刷物でも発動するが、それ以上のものは手描きでないといけない。そして、魔法の精度を左右するのは個人の魔力量ではなく魔法陣の質のほうだった。


 シェイラはまず、初級魔法の魔法陣を自分で簡単に作れるスタンプを売り出すという商業的な禁忌に手を出した。そこでキャンベル商会の名を売り、他業者からのシェアを奪う。


 当時の次兄ジョージは『お前顔に似合わずえぐいこと思いつくな』と驚愕していたが、シェイラはいつも通り無視した。


 名前が浸透したところで、オーダーメイドの高額な魔法陣を描く事業を始める。もちろん、危険な呪いに関するものや攻撃魔法は対象外だったが、良質な魔法陣に飢えていた市場には響いたようで、事業は一躍成功を遂げたのだった。


 そして5年が経つころには『キャンベル商会』の名で流通する良質な魔法陣は貴族の間で知らぬ者はいない存在になり、今に至る。


 今、シェイラたちがいるこのサロンも、事業のためにキャンベル伯爵家の敷地内に造ったものだった。


 他に言及したいことと言えば――。

 

「! クラウス」


 シェイラが座るソファでくつろいでいた猫が、タタンッ、と肩に上る。真っ白い柔らかな毛並みに、金色の瞳。時を経ても、彼の外見はこの屋敷に連れ帰ったときと何ら変わりはない。この猫は、間違いなく精霊の使いだった。


 シェイラは魔力を持たないけれど、魔法を使いたいときはこっそり彼が貸してくれる。寂しさを紛らわしてくれる彼に、シェイラは大切な名前を付けた。


(名前を借りるぐらい……許してくれるわよね?)

『みゃー』


 喉の周りを触ってやると、クラウスは頬ずりをしてくる。お日様の匂いがして、シェイラはいつだって彼に癒された。


「ちょっと、シェイラ。猫と戯れてるんじゃないわよ。今は、あなたの婚約破棄の話をしているの」


 ローラの声に、シェイラは現実に引き戻される。


「あ、ごめんなさい、ローラお姉様。まず私は、こちらのサイモン様だけではなく、どの殿方とも婚約をした覚えはありませんわ。私はこの商会を切り盛りしていくので精一杯です。とにかくお父様にお話を。何かの間違いですわ」


 もう一つの『大変なこと』は両親がやたらと縁談を持ち込んでくることだった。その裏にはさっさと義妹を家から追い出したいというお姫様体質のローラの進言があることは明白だった。


 けれど、両親もそこまで薄情ではない。縁談があるたびにシェイラの意志を尊重してくれていた。だから、このような事態――知らない間に婚約をしていて、しかも破棄されるなどという驚愕の展開はありえないはずだったのだけれど。


「シェイラ。私、最初っからあなたのことが気に入らないの。私より少しだけ美人で、生まれた家が少しだけ高貴で、わたしより少しだけ頭がいい」


 ローラの発言に、シェイラはこの婚約破棄がどのような性質のものなのかを知る。


「おまえより頭がいいのは少しだけではないだろう」

「もう! ジョージお兄様は黙ってて!」


 ジョージの言葉に、ローラは目をつり上げる。


「……すまない。私も話してもいいだろうか」


 ローラの隣で大人しくしていた彼がやっと口を開いた。彼の名はサイモン。たった今シェイラに婚約破棄を申し出た彼は、大富豪として名を馳せるフォックス男爵家の嫡男である。


 フォックス男爵家は豪商だ。アレクシアの時代にも当然存在し、王宮との付き合いもあった。新興の商会であるキャンベル商会とは歴史も規模も違う。


 ジョージとは2年前まで通っていた貴族学校の同窓であり、シェイラも知らない存在ではない。


「ええ。もちろんです。正直、何が何だかわかりませんの。詳しくお話を」


 この後に出てくるのであろう話を想像しながら、シェイラは覚悟を決めていた。

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