第37話 交渉

 目の前のふかふかのパンケーキに、さっくりとフォークを刺す。


 焼いてあるものを分けてくれ、と伝えたはずなのに、アルバートはわざわざシェフを呼びシェイラに焼き立てのパンケーキを提供した。


 フルーツとチョコレートソース、ホイップクリームもつけてくれて、完全に至れり尽くせりである。


 クラウスも、くんくん、と幸せそうにバターの匂いを嗅いでいる。


「グレッグ殿下が朝からお部屋でケーキを召し上がるタイプとは思いませんでしたわ」


 もぐっ、と口に一切れ目を運びながら、シェイラは敢えて彼の前世の名を呼んだ。


「朝の時間は、特に大切にしています。それだけで一日が充実する」

「……確かにそうですわね」


 一瞬、シェイラは朝から散歩に出かけなければこんなことにはならなかった、と思ったが、こうなっては仕方がない。せっかく来たのだから、フィンとプリエゼーダ王国のためになることをしようと決意していた。


「話を戻しますが、アレクシア様はどうしてこちらに。魔法の類でしょうか。だとしたら、とても嬉し……」

「違いますわ。霧に巻き込まれました」


 シェイラは、ぴしゃりとアルバートの言葉を遮る。


 本来、魔法を使っては国境を越えられないし当然王宮内に入ることなどできない。だから、この前プリエゼーダ王国を訪問したアルバート一行は複数の地点を経由して入国した。前世、アレクシアが避難民を国境近くまでしか飛ばせなかったのもそれが大きな要因である。


 時間をかけて複雑な魔法陣を描けばできなくはないが、そんな時間はなかった。


 当然、アルバートは『高名な魔導士』アレクシアなら直接自分の部屋を狙って来ることが可能だと思っているのだろう。本来であれば侵略と捉えられても仕方がないことだったが、彼がそう受け取らなかったことは助かった。


(恐らく、前世での関係が無ければ危なかったけれどね)


 にもかかわらずここまで来てしまったのは、霧の特異性によるものだった。魔法の残骸でできているそれは、本当にどこに連れて行くか分からない。


「……霧ですか。まさか我が国の結界をかいくぐってくるとはな」

「まずないことですが、対策を講じるべきですわね。もしよろしければ、魔法陣をお描きしましょうか? 無料ではありませんけれど」


 アルバートには微塵もダメージを受けた様子はない。シェイラはニコニコと笑いながら口にイチゴを放り込んだ。


「無料でない、ということは、見返りに何を?」

「来月の条約へのスムーズな調印のお約束と、それから私を安全にこの国から出してください。たったそれだけの簡単な見返りです」

「それは良いですね。では見返りの見返りに、貴女を望みましょう」


 思った通りの答えが返ってきたことに、シェイラはあからさまにため息をつく。


「それは嫌です。グレッグ殿下の頃から数えて……一体何度振られたら諦めてくださるのですか」

「せっかく会えたのです。やはりこれは運命かもしれない」

「そんなわけがないでしょう。殿方は諦めが肝心ですわ」


 そういえば、前世でも似たような会話をした記憶がある。プリエゼーダ王国の貴賓室で、彼をもてなしたときに。


 自分との婚約に頷かせたいグレッグを適当にあしらいながら、アレクシアは背後のクラウスの気配ばかり気にしていた。クラウスは無言を貫いたのを覚えている。


(政治や外交に関しては有能な彼だけれど。どうしてこうなってしまうのかしら。この前の夜会の時だって、私に向かって跪こうとしたわ)


 きっと、前世のグレッグが生涯独身だったことにも関わるのだろう。けれど、シェイラには自分にはどうすることもできないと答えを決めていた。


「私は、フィン国王陛下よりもアレクシア様のことをよく分かっています。何と言っても前世からの結びつきがあるのですから」

『みゃーん』


 足元でミルクを飲んでいたクラウスが、アルバートのところまでトコトコと歩いていく。


「クラウス、だめよ。こちらへ」

「……!」


 シェイラの声掛けに、アルバートは固まる。


「そのお名前は。大切な方のものですね」

「はい。この猫には前世の記憶を取り戻してすぐに会いました。それからずっと、彼の名を」


「……そうですか。やはり、貴女は前世への未練をお持ちのようだ」


 そう口にしたアルバートは、ハッとしたように顔を上げる。


「寿命の問題は」

「解決いたしましたわ」

「!」


 シェイラの返答に、アルバートは目を見開いた。その表情には、愛嬌のある丸顔の第二王子の名残が見える。


「前世での私の心残りは、国を思ったものではありませんでした。私はただの小娘です。貴方は美化された『アレクシア』を見ているだけですわ」


 意外なことに、アルバートはシェイラの言葉に同意する。


「確かにおっしゃるとおりだ。どんなに『国のため』に生きたつもりでも、最後に思い出されるのは実らなかった恋だったりしますからね」

「……」


 シェイラは何も答えない。


「私の心残りは、貴女でした。あのとき、救援が間に合えば。何度そう後悔したことか。精霊に祈ったのもそのことです。アレクシア様を助け、妻として迎えたかったと」


 アルバートには申し訳ないが、微塵もその可能性がないことを伝えたくて、シェイラはあえて傷つけるような言い方を選ぶ。


「私も同じですわ。精霊に祈ったことまでは覚えていませんが……。ただ、好きな人に好きだと伝えたい、それだけでした」

「……それは」


 アルバートの指先で、ナイフがするりと滑ったのが見える。そのまま皿の上に落ち、かしゃりと音を立てた。


「もしかしてフィン陛下は……あの男なのか」


 アルバートとシェイラが出会ってから、ずっと丁寧だった言葉が崩れた。そして、猫のクラウスに視線が向く。彼の声が一段低くなったことを感じて、シェイラはナイフとフォークを置いた。


「それで。この前の夜会でアルバート殿下が私を引き留めようとしたのは、そんなくだらないことが原因ではありませんよね? 一体何をお望みなのでしょうか?」


「……その質問にはお答えできませんし、申し訳ありませんがアレクシア様を国にお返しするわけには行きません。朝食を終えたら、お部屋を用意します。しばらくはそこで」

「……」


 シェイラは魔法が使えないということは言わない。使えたとしたら、あっさり霧に飲まれてここまで来てしまうはずがないからだ。


(彼は、何らかの事情で私に魔法が使えないと察しているはず。だから安心して軟禁できるのよ)


「では、国に知らせを。きっと、後宮の皆が心配しています」

「……後宮?」


 アルバートの眉がぴくりと上がる。


「はい。私は今世、伯爵家に生まれ陛下の後宮に上がったのです。運命みたいだと思いませんか?」


 シェイラは、さっきのアルバートの言葉を使って微笑む。けれど。


「やはり、そんなところに貴女は帰せない」


 アルバートは酷く苦々しい表情をした。


(良い方だけど、頭が固いのよね)


 シェイラはまたナイフとフォークを手に取り、残りのパンケーキをもちもちと切っていく。目の前の男が本音を話しつつも、本当のことを言っていないのは明白だった。


 交渉は、今のところうまくいかなさそうである。


 ◇


「シェイラ嬢が森から帰っていないというのは本当か」


 その日の午後。フィンは執務が手につかないほどに焦っていた。


「はい。後宮の女官長から報告が。今朝、散歩に出かけたまま戻っていないと」

「一人で出たのか」

「そのようです。……あ、猫も一緒と聞いていますが」


 ケネスに詳細を聞いていると、執務室の扉が開いた。


「陛下、書簡が。……ゼベダの王太子殿下からです」

「下がれ。後で確認する」

「いえ……あの、それが」


 口ごもった文官を一瞥すると、フィンは手紙を取り上げた。


「……これは」


 その書簡には、シェイラが霧によってゼベダの王宮に入り込み、アルバートの元で保護されているという内容が記されていた。合わせて、シェイラがゼベダを気に入ったのでしばらく滞在させるとも書かれている。


「……すぐに迎えに行く」

「お待ちください、陛下」


 書簡を投げ捨て、そのまま歩き出したフィンをケネスが止める。


「平和条約への交渉が進んではいますが、一応ゼベダとは休戦中という扱いです。招かれてもいないのに陛下が出て行くことは即ち開戦を意味します」

「……迎えに行くなら、一か月後の条約調印式まで待て、と?」


 ケネスは返事をしない。フィンが口にしたのも、自分に言い聞かせるためのようなものである。それほどに、明白な事実だった。


 ぴりぴりとした空気に遠慮しながら、書簡を持ってきた文官が問う。


「キャンベル伯爵家への報告はいかがいたしましょうか。今日、シェイラ様のお兄様が後宮にくると聞いていますが」

「こちらに通せ。俺が直接話す」

「御意」


 指示を終えたフィンは唇を噛んだ。今朝の光景が蘇る。


 目を覚ますと、ベッドの不自然なほどに端の場所に寝ていた。自分の体にはブランケットがかけられていて、薬のせいで会話の途中に眠ってしまったことを思い出した。


 すぐ隣のソファにはシェイラが体を折るようにして眠っていて、フィンは慌ててベッドへと運ぶ。そして、すーすーと寝息を立てる彼女の唇に恐る恐るキスをした。


 こんな無防備な寝顔を、前世でも幾度となく見てきた。今は躊躇なく触れられることに、言葉に出来ないほどの幸せを感じていた。


(今朝までは、確かに俺の隣にいたはずなのに)


 フィンは、拳をぎゅっと握りしめたのだった。

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