第36話 森とパンケーキの匂い
「クラウス……待って」
裏の城門をくぐり、橋を渡ってシェイラは森まで来ていた。
後宮に暮らしているとはいっても、行動は自由である。頻繁に城下町へ出かけるのは難しいが、裏にある森へ行くぐらいなら女官長の許可を得ればすぐに可能だ。
『みゃー』
広い森が楽しいのか、クラウスは跳ねるようにして先へと進んでいく。
(ここ……本当に、112年ぶり……だけど、全然変わっていない)
太陽の光が樹々の葉の隙間からしか届かない、鬱蒼とした森。もう秋のはずなのに、濃い緑が目に鮮やかだ。
「昔からこうなのよね。ここは、季節感がない」
大好きな土と葉っぱの匂いを胸いっぱいに吸い込んで、シェイラは木陰に腰を下ろした。柔らかい地面の感触がとても気持ちがいい。
ふと、アレクシアとして14歳になったばかりのある日の思い出が浮かぶ。
(ここでクラウスは不満を言ったわ。なぜ自分を専属護衛騎士に選んだのかと)
それは、父王がクラウスに勅命を告げた直後だった。二人とも少しずつ大人になり始め、アレクシアはクラウスが自分から離れて行こうとしていると感じた。そして彼と一緒にいるために言った唯一の我儘の結果である。
「私はそれに、ずっと隣にいなさい、って答えた気がする……」
(自分で言うのも変だけど、随分な言い分だわ。もう少し言葉の選び方というものがあったはずなのに)
勝気で不器用な自分に笑みがこぼれて、シェイラは天を仰いだ。
あの時、クラウスはどんな顔をしていたのかどうしても思い出せない。きっと、当時のアレクシアにとっては『ずっと隣にいなさい』が精一杯の言葉だったのだろう。だから、彼の顔が見られなかった。
(当時とは違った悩みもあるけれど……想いを告げることさえ満足にできなかったあの頃に比べると、今は本当に幸せだわ)
と同時に、ゼベダの王太子と一度話してみたい、とも思う。フィンは彼が恋愛感情を持ちこしていると心配していたが、前世で彼と親しくしていたアレクシアとしてはどうしてもそうは思えなかった。
天を仰いでいた顔を正面に戻す。――何だか、白い気がする。
(……これは)
シェイラは急いでスカートのポケットに手を入れ、一枚の魔法陣を取り出す。
(これは、霧だわ)
シェイラは6歳のときに霧に巻き込まれ、そこで猫のクラウスに会った。それ以来、霧を見たことはなかった。それほどに、霧に遭遇する機会は少ない。
王宮内や城下町には結界が張ってあるけれど、この裏の森はそうではなかった。
「クラウス」
森にシェイラの声が響く。少し離れた日が射す場所で日向ぼっこを楽しんでいたクラウスは、ゆっくりと顔を上げた。
『みゃーん』
「霧が出て来ちゃって、魔法を使いたいの。力を貸してくれる?」
クラウスはシェイラが持つ魔法陣を一瞥してからぴょんと肩に飛び乗る。そして。
『みゃーん』
魔法陣を、噛んではくれなかった。
(えっ? ど、どうして)
いつもは簡単に力を貸してくれるはずのクラウスが、完全にとぼけている。肩の上でゴロゴロ言いながら、頬ずりをしてきた。
その間にも、霧はどんどん濃くなっていく。
「お願い。この場に留まりたいの」
『みゃー?』
懇願するシェイラのことをクラウスは気にしていない。『大丈夫』というように頬を舐めてくれたけれど、気が気ではなかった。
(……どうしよう)
そうするうちに、いつの間にか霧に完全に飲まれてしまったようだ。さっきまでいた森の、爽やかな空気はもう感じられない。
幼き日のアレクシアやシェイラが行ったのと同じ草原に辿り着いたかと思ったものの、どうやらそうではないらしい。
ひざ下をくすぐる草の感触はなくて、むしろ慣れた感覚に近い。そして、不自然に甘い香りが漂っている。それから、ぽかぽかとした温かさ。そうまるで、王宮内の部屋のような。
(……え……?)
霧が晴れると、目の前の男はパンケーキをぽろり、とこぼした。
メープルシロップと濃厚なバターが混ざり合ったおいしそうな匂い。パンケーキは彼の目の前に3段重ねになっているけれど、その隣には焼き立てのものが更にたくさん積み重なっている。
(そういえば、前世のこの方は甘いものがお好きだったわ)
思考がついていかないシェイラは本当にどうでもいい情報を思い出した。
「……アレクシア様。どうして、ここへ」
パンケーキを落としただけでは足りなかった様子のゼベダの王太子、アルバートはがたん、と立ち上がった。お約束のようにナイフとフォークが床に落ち、椅子が倒れる。
軍人のように厳つい外見の彼と、パンケーキの甘い匂い、床に転がったナイフとフォーク、倒れた椅子。
アルバートにとって、シェイラはアレクシアである。何を交渉するにしても、まずはそれっぽく振る舞う必要があるだろう。
「私にも分からないわ。まずはそのパンケーキ、一つ分けてくださる?」
状況を理解しつつ、シェイラはヤケクソで言ったのだった。
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