第25話 いかんせん、貧乏ですし。
東京から富山に帰ってくると、また、変わらない僕の日常が始まる。結局、江美里に言われたことを整理できず、一睡も出来ないまま仕事に出ることになった。
「薬味のネギ、無くなりそうやったら補充せんなんがいね! もっと、他の人のこと考えんと、アンタのせいで、みんな迷惑しとんがいよ!」
みんなって誰だよ。高校生のことだろうか。それにネギ、まだ残ってるじゃん。軍艦のネギなんてしばらく出ないんだから、もう少し待ってもいいのに。僕は姉さんに投げそうになった一掴みのネギをタッパーに戻し、分かりましたと頭を下げる。
今日も、朝から姉さんに細かいことで叱られた。僕が傷心でもお構いなしだ。自分の指示はいつも言葉少なで察しろという雰囲気を出しているくせに、こちらの事情は一切察してはくれない。そしてどうやら、無駄なことを考えてしまって声が出せない僕に、彼女は持て余すストレスをぶつけたいらしい。想像でしかないが、多分、昨日旦那と喧嘩でもしたのだろう。やはり、上下関係でものを考える人間には、声を大きく対応したほうがいいな。ただ、今は声を出す気力が尽き果ててるんだけど。
僕がもう一度、姉さんに目を向けると、彼女は眉間にシワを寄せて何か言いたそうにしている。僕が、なんでもないですよと作り笑顔で返すと、彼女は満足したのか巨体を揺らしてゆあの方に戻った。
小さい頃、親に殴られたような顔でがなり立てる姉さんを見ていると、なんだか悲しくなってくる。
ゆあは、僕が休んでいる間に復帰したようで、復帰後は茶碗蒸しやメロンの用意など、パートのおばさんがやるような新しい仕事を任され始めている。家では夕食をよく任されると豪語する彼女だが、包丁を片手にぎこちなくしいたけを切る彼女を見ていると、果たして真偽の程は分からなかった。自分の仕事に集中しているからか、ゆあはレジや下げには出てこないが、客が来るといつものように大きい声で「いらっしゃいませーっ!」と、叫んでいる。その姿を見て、少しだけ救われるような気持ちになった。
ネギを詰め終えたタッパーを持って
蛇口を捻ってお湯を出したところで、粘りつくような影が、僕の身体にかかる。
「修二ーっ! もっと手、早く動かされまーっ! みんな迷惑しとんがいねーっ!」
バックヤードに姉さんの絶叫が響く。ゆあがこちらを見て驚いた顔をしている。
僕は、ちゃんと手を動かしている。これ以上、動かそうと思っても、動かない。というか、動かしても、何の意味があるのか。分からなかった。考えて、考えられなくて、頭がフリーズして、ついでに手も止まった。
「すんません。限界です」
ああ、言ったな。まあいいか。そう思った。
「限界って何け! 仕事ながやから、やらんなんやろーっ!」
返す刀で姉さんに切りつけられた。僕は言葉で切られるままだった。
「修二きゅうけーい! お昼行っといでー!」
板場から大将が顔を出している。どうやら休憩時間になったようだ。リングに、セコンドから降参のタオルを投げ入れられたみたいだった。
「休憩入ります!」
僕は逃げるようにまかないの皿を掴み、料理の乗ったおぼんを持って、休憩室に入った。
休憩室に入ると、ずっと締め切られていたからか蒸し暑かった。冷房の電源を入れて、扉を締めた。扉を締めると同時に、ノック音がする。ずり落ちる鼻水を拭って返事をすると、姉さんが入ってきた。
「ごめん、ちょっといい?」
どうせ、また何か言われるのだろうと僕は身構える。
「さっきはちょっと言い過ぎた」
姉さんが珍しく謝っている。よく分からず「こちらこそすみません」と、僕も謝る。僕が頭を下げたのを見て、間髪入れずに、姉さんが口を開く。
「後、もう一個いい? 修二、人にもの頼む時、お願いしますって言わんなん。修二、全く言ってくれんってみんながボヤいとった。じゃあ、休憩しられ」
そう言って、姉さんは休憩室を出ていった。だから、みんなって誰だよと思った。
なんだかどうでも良くなった。テーブルの上には、一合ちょっとのご飯と、ブリカマの煮たのが置いてある。とりあえず、お腹が空いていたので、箸でブリの身をつまんで口に含む。濃い味付けで、甘辛く煮てあった。続いて、ご飯を口に入れる。箸を置いて、咀嚼する。僕は、正座のまま、その場を動けなかった。お盆の上に、涙が落ちた。
僕は、泣きながらまかないを食べた。哲もいないし、紅緒さんも明日でいなくなる。僕の孤独を受け止めてくれる人がどんどんいなくなる。出来て当たり前の仕事が、どんどんできなくなる。そして何より、一年と三ヶ月たった今でも、次の見通しは経っていない。みんな、普通の人生を生きれている。さっき、姉さんに言った限界は、本当の限界だったのだ。普通の人生を生きれない僕には、これ以上やりたいことも、どうする手段もなかった。どこにも行けなかった。
まかないを粗方食べ終えたあたりで、どうしてもやりきれなくなり、僕は、この時の気持を吐き出すため、カバンに入れてあったノートパソコンを開いた。
宛先は、三十歳の僕にすることにした。今の僕にも、昔の僕にも、ましてや他人で頼る人もいなかった。神すら信じれない僕には、比較的近しい未来の自分にしかすがるあてはなかった。
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遺書
拝啓 三十歳の僕へ
元気ですか。というか、生きていますか。
生きていたら早いとこ助けに来てほしいんだけれど……。え、忙しいから無理? 後で殴りに行きます。
今日、職場でお姉さんにこっぴどく怒られて、「限界です」と返しました。折角、懇切丁寧に教えられたことも忘れて、僕はすぐに頓珍漢な事をします。そうすると、お姉さんから「仕事なんやからやらんなん」と返されました。当たり前です。そして例のごとく、泣きました。二十七歳にもなって僕は人前で泣きます。男泣きとは言えないような情けない涙です。おそらく、職場での僕の評価は地に落ちてます。
恥なんてありません。多分、恥があったらこの歳まで生きてこれなかったと思います。
お腹が空いていたり、今まで出来ていたはずのことができなくなると、底辺の底辺にいるような気になります。リンダリンダです。弱いものがさらに弱い僕を叩きに来ます。そうして、社会に使い捨てられて、用済みだと面と向かって言われる恐怖に、心臓がすり潰されそうになります。
そうなる前に、僕の心はこんな仕事辞めてやるとなりますが、実際の僕はどこにもいけないことに気づきます。こうやってパソコンを開いて休憩室で文章を書くことしか出来ないことを思い知らされます。
一浪して、ばあちゃんの遺産をつぎ込んで、母さんに迷惑をかけてやっと大学まで出たのに、今やっていることは、皿洗いとシャリ炊きです。
Facebookを開くと、大学の同期が……、狭山江美里が婚約指輪の影でハートを作っています。
Twitterを開くと、前職の後輩が新しいプロジェクトのリーダーになっています。そして会社は、また新しく支社を作るそうです。
そういう僕はいまだにITベンチャーを辞めたことに未練タラタラですが、もう一度元の鞘に収まれるか考えると、どうにもなりません。そんな自分に、どうしようもないとため息がでます。
そうしてため息を出したとて、僕のことを心配してくれる人はいません。相談できる人もいません。LINEを開いても、みんな忙しそうに感じて、「元気?」の三文字すら打つのが億劫です。
もう投げやりになって、すべてぶち壊してやりたい気持ちにもなりますが、何とかとどまっています。店の棚に差してある柳刃包丁が大変魅力的に映ります。何度も自分に、我慢してくださいとお願いしている毎日です。
もしかすると、そろそろ道を変える必要があるのかも知れません。なんだか、歩く道を間違えたような気もしています。それでも、どの道を歩めばいいのか、僕は一歩を踏み出せずにいます。もはや、笑えません。
そんな僕を、三十歳の僕は許してくれるでしょうか。僕は、そんな弱虫な自分の背を、どうかあなたに押してほしいのです。僕だけ、進めていません。お願いします。あなただけが頼りです。
最後に、今の楽しみを書きます。
今日のまかないはブリカマの煮たのと、例のごとく大盛りご飯です。二合半炊いているのに、兄さんも大将もあんまり食べないから僕が一合強食べてます。おかげで、痩せる気配はありません。
ブリカマも、遠目から見ると筋張って骨ばかりに見えますが、意外とほじくれば身が出てきますし、満足できます。甘辛い醤油で濃い目に煮てあるので、ご飯もよくすすみます。
いかんせん、貧乏ですし。楽しみも少ないです。このまかないだけが、僕の命綱です。
敬具
二○二二年十一月五日 二十七歳の僕より
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ノートパソコンを閉じた。丁度、休憩時間が終わった。足が、痺れていた。
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