紅緒さん

第26話 恋の桜はいつも、グラタンのパセリくらい散る

 寿司屋の近くのコンビニで、僕は手のひら大のノートを開く。死ぬ前にやることリストの三ページ目に記載された、“好きな人に気持ちを伝える”を目でなぞり、そっとノートを閉じた。

 A6のノートに箇条書きされた項目は、大学一年生の時から書き始めて、少しずつ増え、今では八十七個になった。

 今日は、紅緒さんの最終出勤日だ。

 ――人生は一回きりなんだよ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがいいでしょ!

 東京で投げつけられた江美里の言葉が、僕の心に刺さっている。

 ふらふらと当て所なく彷徨う僕の心は、江美里の婚約を期に、そろそろ落ち着ける場所を求めていた。


 僕が休憩を終えて店に戻ると、僕との交代で半日上がりの紅緒さんが帰り支度を始めていた。

「戻りました」

「おかえりなさい」

 いつもと変わらない挨拶を交わして、僕は彼女が残したタスクを引き継ぐ。ランチが混んだときによく残されがちな醤油や箸などの補充は、今日はすべて完遂されていた。大将たち職人は、中休みの間の運営は、僕たちバイトに任せて事務室のベンチで寝ている。どうやら、彼らは僕が戻る前に、すでに紅緒さんとの別れの挨拶を済ませたようだった。

 今、店で起きているのは、僕と、紅緒さんの二人しかいない。


 紅緒さんが荷物をまとめて帰ろうとしたときだった。僕は、裏口に出て扉を閉めようとした紅緒さんを呼び止めた。

「紅緒さん、ちょっといいですか」

「何でしょうか」

 紅緒さんは急に呼び止められて、キョトンとした顔でこちらに振り向いた。

「最後に、……いきなりで申し訳ないんですけど、伝えたいことがあって、一つだけいいですか」

「はい、いいですよ」

「もし僕が、紅緒さんのこと、好きだったって言ったら怒りますか」

 紅緒さんは僕の言葉に呆けた顔で応える。

「えっ」

 彼女の驚いた声が心に刺さり、いたたまれなくなった。

「ごめんなさい」

 どうやら彼女を困らせてしまったようだ。僕は、頭を深々と下げる。言ってしまった。多分、江美里に初めて好きだと伝えたときよりも緊張する。怖くて、頭を上げれない。

 そもそも、紅緒さんは人妻なのだから、今僕がやっているのは、不倫というやつだ。


 暫くの間、沈黙が続く。先に声を出したのは紅緒さんだった。

「いえ、違くて……。あっ、はい。嬉しいです」

 頭の上から、慈愛に満ちた言葉が降りかかる。顔をあげると、紅緒さんは顔に手を当てて笑っていた。頬がほんのりと赤く染まっている。しかし、どう考えても、そのは、小さい子が憧れのお姉さんに「結婚してください」と言ったときの反応と同じだった。どうやら良くも悪くも、僕の言葉を本気の言葉とは認識してくれなかったらしい。いつも、彼女にする笑い話の延長線上。最後の土産話として解釈されてしまった。まあ、そんなもんだよなと、訂正はせず、僕は、おどけた風を装って大げさに笑って見せる。

「修二さんって、彼女いないの?」

 そんな僕に、紅緒さんはお姉さんとして言葉をくれた。

「残念ながら……」

 僕がそう返すと、紅緒さんは少し笑って、分かった。と言った。僕はそれ以上、会話を続けられなかった。

「またね。あっちに行っても、修二さんの事、応援してるから」

 紅緒さんはそう言って、店を出ていった。


 紅緒さんが出ていって、店には僕一人だけになった。中休みの間は、電話対応と間違って店に入ってきたお客さんを追い返すだけなので、特にやることもない。

 そのため、僕は使い古した布巾で、店中の棚を拭き掃除することにした。

 失恋した後だと、妙な達成感も相まって、目立たないところにある汚れを拭う手にも力が入る。

「よし!」

 錆びついた食器棚を拭きながら、改めて気合を入れる。僕以外誰もいない裏方には、僕の咆哮が響き渡った。ここまで、あっさりと断られると、もはや爽やかさすら覚える。とりあえずこれで、一区切りついたのだから、良しとしよう。

 五時になって中休みが終わり、戻ってきた大将に「店が新品になったぜ」と褒められた。


 八時にバイトが終わって、家でゴロゴロしているときだった。

 僕は、紅緒さんロスで缶チューハイを一本飲みきってほろ酔い気分になっていた。いわゆるやけ酒というやつだ。枕に顔を埋めて絶叫しそうになる感情の高ぶりを何とか鎮めようと、僕は半裸でヤケクソの腹筋をしていると、知らない電話番号から着信があった。また延滞の督促電話か、ソフトバンクの営業かと身構えたが、どうやら違うらしい。十コール鳴っても止む気配がなかったので、僕は素直に電話に出ることにした。

「よう、俺やけど……」

 電話の向こうには、やけに陽気なクラブミュージックと、女性の高笑いが聞こえた。LINEのアカウントが消えた後、こいつには僕の電話番号を教えていなかったはず。そう思ったが、おそらく大将から聞き出したのだろう。

 休職中の彼は、何故か飲み屋にいるらしかった。

「おう、哲……」

 哲が休んでから、すでに一ヶ月近くが経とうとしていた。

「修二、最近仕事頑張ってくれとるらしいな。店はどうけ」

 やけに他人事なのが気に障った。店はどうけとは、店を壊すと豪語した人間のセリフとしては随分な言い草だ。

「前と変わらんよ。中休み取ったり、哲の仕事を大将と兄さんが巻き取ったりして、なんとかやりくりしとる」

 少し腹に据え兼ねたので、僕はちょっとだけ意地悪をすることにした。悪意に対して一番効果的な返しは、何でもない風に装うことだった。

 僕がそう言うと、哲は特に驚いた様子もなく、そうけ。とだけ返した。


 ともあれ哲が仕事をボイコットしたとして、僕は彼の計画を聞いたときから彼の破綻は目に見えていたし、大将の柔軟な対応もあって、哲が抜けた際の周りの負荷は、比較的緩めに抑えられていた。

 そして他の従業員はともかく、僕はそこまで哲を非難する気にはなれなかった。そもそも、第一、現在人生の休憩を取っている僕からすれば、過酷な飲食で職人として仕事をする哲が一ヶ月程度休んだところで、別にバチは当たらないだろうと思った。仕事をするのに十分な休息が必要不可欠である。それが、前職の上司が僕に教えてくれたことだった。


「今日、紅緒さんの最終日でさ」

 久しぶりに哲が電話をかけてくれたことに対して、僕は心底嬉しかった。

「おー、修二と仲良かったもんな」

 それから十分くらいは他愛もない世間話が続いた。

「うん。だから、好きでしたって告白したわ」

「は? え? 告白したの? 人妻に?」

「うん、案の定……振られたわ!」

「当たり前やろー! わはは!」

 哲は僕のトンチキな話にもいつも店で接する時のように返してくれた。


 どうやら、話すにつれ、哲の方も興が乗ってきたらしい。いつものように下ネタの混じった男子高校生みたいな会話をしこたま楽しんだ後、今更になって気になることを聞いてみた。

「そういえば、哲の後ろ、楽しそうな声聞こえとるやん。飲んどるがけ?」

「うん、飲み屋にいる」

 哲はそう言って、しばらく会話が途切れた。どうやら酒を煽っているらしい。

 そして、大きなゲップをしたあとに、意を決したように話し始めた。

 何があったのだろうか。電話越しの声が震えている。

「なあ、修二、これは誰にも言わんでほしいがやけど……」

 僕は、電話越しに頷いた。

「ごめん、俺、書類送検されるかもしれん」

 僕は、言葉を失った。明らかに、いつもの冗談ではなさそうだった。

「うん」

 僕は、やっと、それだけ口に出せた。哲は、今とんでもないことに巻き込まれている。それだけははっきり理解できた。

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