第27話 助けに来たよ
聞き違いかと思った。電話の向こうで、騒がしいディスコティックな音楽が流れ、女と男が戯れている声がする。もしかしたら、哲は僕に聞かれないように、わざと雑音の中で話すことにしたのかもしれない。電話に一番近いはずの哲の声が、やけに遠く聞こえる。そして何より悔しいのは、真剣な話を素面でしてくれない哲に、僕は心底腹が立っていた。
「書類送検って、どういうこと?」
僕の言葉に、電話の向こうの哲は言い淀む。どうやら、語気を強くしすぎたらしい。
「いや、怒ってるわけじゃなくてさ、純粋に事情を知りたくて」
「実は、前に彼女とホテルに行ったときに、彼女の仲介人? っていう男から、彼女が困ってるから堕胎費用を出して欲しいって言われてさ」
なるほど、哲みたいに女遊びが酷いと、そういった厄介事に巻き込まれるんだな。風俗嬢相手だと、仲介人は店の支配人か。富山ではあまり聞かないが、もしかしたら相手は、その筋の人間かもしれない。
「出したがか」
「うん。やけど、避妊もしとったし、向こうも妊娠の証拠出してくれんだし、これはおかしい、やっぱ返してって電話したときに、ちょっと強い口調で言ってしまって……」
哲の言い分としては、相手は詐欺師だそうだ。いわゆるハニートラップ用の女を餌に、被害者から堕胎費用をむしり取るクズ。詐欺師の男とは実際に顔を合わせたことはなく、全て電話でのやり取りらしい。そして、こちらの音声はすべて詐欺師が録音していると。
「で、ごたついたと」
「うん、向こうは脅迫罪で訴えるって……」
脅迫罪で訴えると言っても、相手は明確な詐欺をしているのだから警察には言いにくいだろう。それに、哲がどこまで言ったのかは分からないが、脅迫罪で懲役をくらうなんて事例、聞いたことがなかった。
電話の向こうで、哲が泣きそうな声を出している。哲の後ろでは、こちらの事情をしらない男女が下品な会話を楽しんでいる。
「相手は誰なん? 行きずりの
僕がそう聞くと、哲はさらに声を小さくした。
「前に、結婚するかもって言ってた女おるやろ?」
そういえば、ランチに哲の寿司を食べていた時、二十九歳の彼女と一年後に結婚するって言ってたっけ。決心できてないけど、顔が可愛いからいずれは結婚したいと言っていたあの。
「ああ、新富町のキャバ嬢やっけ……まさか!」
「うん」
どうやら、その、婚約者に裏切られたらしい。惚れた女に裏切られることほど辛いことはないだろう。
「まじか……。哲、大将には相談した?」
「言えるわけないやろ、こんなこと! 好きやった女に騙されたってバレたら恥やぜ! 高校生に相談しても分からんやろうし、この事話したが修二だけやからな!」
哲の言葉には嗚咽が混じっていた。彼の話を聞いていると、なんだか、二日前に死にたいと思っていた自分を見ているようだった。
「修二、俺とはもう会わんほうがいいかもしれん」
「どうしてよ」
やけに弱気になっている哲をなだめつつ、僕は、吐き出したいだけ吐き出せと言った。
「すまん。大将から話は聞いとる。修二、仕事頑張っとるがやって? 俺が抜けた穴を埋めるために……。そんなときにこんな話してごめんな」
別に、そんなことはない。仕事を頑張るのは自分のためだし、頑張ってれば、ちゃんと見てくれる人もいる。頑張っていれば、多少の無理を言っても、周りの人が助けてくれる。僕は、自分への未来への投資のために頑張っているに過ぎないよ。
「実は、店を壊したいって、俺、頭おかしいことしとった」
大丈夫。哲が、店のためを思って動いてくれとるのを僕は知っている。
「俺、前みたいな、みんなで楽しく仕事できる店に戻ってほしかっただけなんや」
そうだよな。僕がバイトを始めた頃から、哲は僕が馴染めるように話しかけてくれたり、歳上の僕に臆せず、仕事をちゃんと教えてくれたり、友達扱いしてくれたよな。
「ちょっと、色々なことが重なって……ストレスで持病のヘルペスも酷いことになるし……」
知ってるよ。看護師してる大黒柱のお母さんが倒れて、それでも弟の学費を稼ぐために文句も言わずに大将と兄さんのシゴキに耐えてること。溜まったストレスを解消したいけれど、激務の間に金を使えるのが飲む打つ買うしかなくて、無駄金使って無理やり自分の身体を動かしていること。そして、それに人一倍罪悪感を感じていること。
哲も、店に来なくなった間にたくさん辛い事があったんだと知ると、彼の背中をなでてやりたい気持ちになった。
「大将は、何も言っとらん?」
「うん、哲が休んでいることについては、何も言っとらんよ」
「そうか」
哲は、少し諦めたようなため息をついた。
「ただ、哲がいつ帰ってきてもいいように、いつも通りに仕事しとる」
僕たちの間に、しばらく、沈黙が流れた。最初に話し始めたのは哲だった。
「俺、酒飲むのが好きやから、夜の仕事しようと思ってて」
どうやらホストになれば、今まで費やしてきた酒代も浮くし、今まで考えてきた飲みのコールを活かせると考えたようだった。
それに、ちゃんと相手に合わせて言葉を使い分けて、なおかつ女を勘違いさせる才能を哲が有していることを鑑みれば、ホストという仕事は哲にとって天職かもしれなかった。
「まあ、仕事変えるのも残るのも、哲の人生やし、なんとも言えんけどな。ホストになるにしたって、ホストなりのしんどさもあるやろうし」
僕は、彼の夢を否定することは出来ない。だって、通信高校卒で取れる手段の少ない彼なりに考えた進路だということは、痛いほどに伝わったから。
「うん」
哲は素直に頷いた。僕は、空き缶に残ったチューハイの雫を啜った。
「でもさ」
それでもやっぱり、哲が寿司職人を辞めるのは違うと思った。辞めてほしくなかった。だけれども、僕は彼に職人を辞めるな。仕事に戻れと言う権利はなかった。だって、哲の人生は哲のものだから。
「哲が帰ってくるにしろ、新しくホストの道に進むにしろ……選択肢がないとあかんやろ? 僕たちが出来ることは、哲が戻ってこれる居場所を守ることだけやから」
選択肢があるのと、ないのとでは、進んだ後の道のりが全く違う。選択肢があり、交渉の余地があるというのは、自分の人生を生きていくために、失ってはいけない権利だと思う。
「後な、言ってなかったけど、俺も最近、昔の女に酷い別れ方されたからな。手切れ金まで投げつけられてよ。童貞の頃、元カノに言った恥ずかしいセリフまでバラされてよ。しかも、東京のお洒落なレストランでやぞ。前職ビルの隣のホテルで思い出のレストランやぞ。新高岡から東京までの新幹線代往復二万六千六百円かけてよ。だから、哲のその失敗は恥やないがやちゃ。ちなみに、この話、哲にしか話しとらんがやぞ」
「そうなん? 修二」
「だからさ、哲」
僕は、布団の裾を握りしめていた。
「戻ってこんがか」
「戻りたいよ」
僕は泣いていた。電話の向こうで、哲も泣いていた。
電話を切って、布団を被って、僕はそのまま眠りについた。
次の日、目を思いっきり腫らした哲が、店に戻ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
僕たちの会話はそれだけだった。大将は休んだことに何も言わず、哲に指示を出していた。兄さんも、いつもより機嫌が良かった。仕事が哲分早く終わって、僕たちに、一息つく余裕が出来ていた。
仕事を終えて帰る時、僕の心の中にあった死にたさは消えていた。別に、三十歳を待たなくても、僕は十分に眼の前の課題を解決できた。
「随分と、早かったな」
誰にも聞こえないようにひとりごちると、安心して涙が出た。二つほど夜が明けただけで、僕は僕を助けに来れた。
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