第6話 ディオチヂ

 会計を済ませてキッチンに戻ると、ゆあが怠そうな顔で見てきた。休憩時間も後五分で終わる。手持ち無沙汰でスマホを弄ぶ彼女は、画面を見ながら、チラチラと軍艦の受け渡し口から哲を観察しているようだった。

 銀色の洗い場には、僕が食べ終えた皿が無造作に放り投げられている。違うと思いたいが、そんなに、僕の食べた食器を洗いたくないだろうか。もしかしたら、娘を持つお父さんも、こんな気持なのかもしれない。思わぬ収穫だ。彼らがこの痛みを経験しているのかと思うと、頑張れお父さんと応援したくなる。


 ゆあの様子を見ると、どうやら彼女に先程の話は聞かれていないようだった。哲には結婚予定のバツイチ子持ちフィアンセがいる。たとえゆあが哲に好意を持っていたとして、果たして、二人をくっつけていいものかどうか迷うところではある。

 いや、おそらく、ゆあは歳上の頼れるお兄ちゃんとして、哲を慕っているのだろう。振り返ると、ゆあが板場とキッチンの仕切り穴から、熱烈な視線を哲に送っている。なんなら、哲と目が合う度に、満面の笑みを彼に向けている。

 ああ、これは駄目だ。マジなやつだ。ゆあは、どうやら本気で哲に恋をしているようだった。

 いや、今、僕が考えるべきはゆあに仕事の仕方をどう教えるかであって、哲との恋愛事情ではない。しかし、哲一筋の彼女に、どう接したらいいだろうか。しばらく思案してみるが、妙案はついぞ思いつかなかった。


 一応、仕事が残っていることを伝えるために、声をかけてみることにした。

畑中はたなかさん?」

 どうやら、ゆあは哲に夢中なようだ。何度呼んでも、全く反応しない。……しょうがない。

「ゆあ、ゆあ!」

 僕は、彼女の近くに立って、叫んでみた。

「はい!」

 すると、驚いた彼女は、何故か手をピンと伸ばした直立姿勢で僕の方へ身体を向き直した。良かった、ようやく反応してくれた。ともあれ、これだけ警戒されているなら、仕事を指示しても聞いてくれないだろう。こちらに聞こえないと思ったのか、彼女は小さく舌打ちをした。……しょうがない、奥の手だ。

「ゆあ、今度、飯行こう。僕の奢りで」

「はいぃ!?」

 僕にまたうるさいことを言われると思っていた彼女は虚を突かれて素っ頓狂な声を出した。

「え、何でまた」

「哲について、色々教えるから」

 そう言うと、彼女は眉を動かし、興味深そうにこちらを観察し始めた。少しだけ、警戒を解いてくれたのか、先程よりも肩の力が抜けているように見える。

「まあ、いいですけど」

 不承不承といった感じだったが、哲に関する興味は心の奥底に埋まっているようだ。LINEを交換して、僕は、休憩室へと戻った。


 日曜日、ゆあに教えてもらった場所に行くと、制服姿のゆあがいた。高校近くのコンビニに車を停めると、彼女は恐る恐る近づいてきた。

 手を挙げて挨拶すると、ゆあは頭を深く下げてよろしくお願いしますと言った。バイトのときとは違い、常識的な態度をとったので、少し驚いた。

 どうやら、学校の追試テストの勉強を友達とすると親に嘘をついて出てきたらしい。休みなのに制服なのも、そのためだった。

 僕は、税金を払いたくないので車を持っていない。なので、仕事が休みだった母親のデイズを借りた。送迎だけなので、今日中に返せばなんとかなるだろう。アルコールも頼まないし、ゆあも、夜遅くなる前に帰すつもりだから。

 本当は、他の高校生を誘って行こうと思ったが、皆予定が入っていた。もちろん、哲は水曜日以外休みがないので、連れてはいけない。高校が終わってからだと、時間的に遅くなるだろうし、第一母親が仕事で足がなかった。

 ゆあは、中々車に乗り込まずに、車の周りを右往左往している。それもそうだ、大人の男と二人でご飯に行くなんて、不安だろうから。

 僕は彼女を後部座席に座らせて、鍵はちゃんと自分で開けられるかどうか確認してから出発することにした。もちろん、行き先も事前に伝えてあるし、帰りが遅くならないように、集合も少し早めの五時にした。

 もしものときのために防犯ブザーも渡そうかと提案したが、流石に気を使いすぎだと言って笑われた。


 伏木駅前から国分浜に面した通りを走り、海水浴場に続く脇道を入っていくと、ガラス張りの窓から海が見えるイタリア料理屋がある。カジュアルなイタリア料理が自慢のDOCGディオチヂは、僕が小学生の頃、家族でよく食べに来た思い出の店だ。

 金は……、まあバイト代も入ったし大丈夫だろう。雰囲気の良さと料理の美味しさの割には、手頃な価格が嬉しい穴場スポットだった。

「え、ゆあ、制服だけど大丈夫?」

 店に着くなり、ゆあは明らかに動揺しだした。こういうお洒落な店に来た経験も少ないのだろう。僕も、営業で着ていたカラーワイシャツで来たし、片田舎のイタリアンなんてドレスコードがあってないようなものだから。

「まあ、大丈夫やろ。高校生は制服がドレスコードだし。酒も頼まんから。さ、入ろう」

 たじろぐゆあを何とか宥めて、僕たちはアマルフィ海岸の建築物にありそうな瀟洒しょうしゃな階段を登った。


 早く着き過ぎたのか、入り口に立つと、店員が慌ててOPENの看板を出しに来た。午後五時半。開店時間ぴったりだった。すみませんと謝りながら店に入ると、中は木製の家具で統一されており、地中海の港を思わせた。十年前に来たときと同じく、窓際に三席、四人がけのテーブルが配置されている。

 僕たちは、窓際の一番手前の席に通された。店の中心には、天井から吊るされた網の目に、赤や青色の半透明のガラス玉がハマっていた。薄暗い店内の中で、足元に設置された光源の明かりを浴びて、ガラス玉がキラキラ光っている。

 席に座ってメニューを開くと、一組のカップルが入ってきた。僕たちの二つ先のテーブルに案内された彼女たちは、僕たちのことを気にもとめず、楽しそうに会話をしていた。店員も何も言わない。どうやら、僕たちの関係性を怪しむ人はいないようだ。兄妹だと思われているのかもしれない。

「今日はどんな舌? 辛い系? しょっぱい系?」

 ゆあがメニューを眺めながらもじもじしているので、そう聞いてみた。

「哲は海鮮系が好きだな」

 僕の言葉に、彼女は、はっと顔をあげる。

「これ、美味いぞ。哲が好きそうなやつ」

 メニューに載っている渡り蟹のパスタをゆあの前に差し出す。写真からして美味しそうだった。器に盛られたパスタの山に、トマトソースが絡んだカニの爪肉がてらてらと光っている。

「じゃあ、それで」

 ゆあが納得した声をあげる。僕は了承して、メニューの上で指を動かす。

「じゃあ、追加でポテトサラダと、マルゲリータも頼むか。後、シメジとシソの和風醤油パスタ」

「それも、哲さんが好きな食べ物?」

「いや、僕が食べたいやつ。シェアしちゃう?」

「何ですか、それ! シェアします! ゆあもピザ食べたい!」

 ゆあは、そう言って大声で笑った。向こうのテーブルに座ったカップルが、微笑ましそうにこちらを見た。

「良かった。やっと笑ってくれた。緊張してたから、食事を楽しんでくれないんじゃないかと思った」

 ゆあは、申し訳無さそうに、肩をすくめた。先程よりも少しだけ余裕が出てきたようだった。

「お酒は飲めないから、ワイン用ぶどうジュースも頼むかな。ゆあはどうする?」

 ここのぶどうジュースはワインになる前のぶどうの原液をジュースとして出してくれる。そもそも、ワインはぶどうなどの果物に入っている糖分を酵母を通じてアルコールにするため、ワインになる前のジュースは比較的に甘くて濃いものが使われる。

 そのため、甘いものが好きそうなゆあにとって、ワイン用のジュースは気に入ってくれると思ったのだ。

「同じものを、お願いします」

 ゆあの言葉に僕は頷いた。そして、ゆあと決めたメニューを頼んだ。

 十分程して、頼んでいたメニューがテーブルの上に運ばれてきた。

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