第5話 紅緒さん

 僕は、朝から入るシフトのほうが好きだ。二時から休憩に入ると、丁度ランチタイムの時間と被るので、無料で海老頭の入った味噌汁が飲めるからだ。しかも、スタッフは寿司を半額で食べられるので、千円も払えば育ち盛りの若い男の腹も満たせてしまう。更に、お値打ち品で、サーモンマヨやアジがプライスダウンしている日は、狙い目だった。僕は朝入りの半日シフトの日はいつも、一番安い緑皿に二番目に安い数枚の青皿を混ぜて十八皿食べていた。安月給で不安定な分、心理的安定を帳尻合わせするために、そうやって有閑を気取るのが好きだった。


 そして、ランチタイムの終わりにはあきらが握りを担当する。他の職人は裏方で休憩するので、大将たちに表立って言えない仕事の話も自由にできた。だから、哲との会話も楽しみにしていた。

「お待たせしました、フライドポテトです」

 パートの紅緒べにおさんが恭しく僕の前に陶器の皿をコトリと置いた。彼女は、僕が朝から働く原動力の一人だった。

修二しゅうじさん、新しく書かれたお話、良かったですよ」

 紅緒さんは、僕の小説の読者だった。小動物のような顔立ちに、小柄な痩躯でキビキビと働いている三十過ぎのお母さんだ。どうやら小さい子どもがいるらしく、転勤族の旦那がいるらしい。今は実家のある富山に住んでいるらしく、生活が逼迫しているわけではなさそうだが、家計の補助ためにパートに出ていた。富山の女は働き者と聞くが、まさしく、彼女も富山の女なんだなと思った。

「特に、紀行文なんかは、人間描写が巧みで、少し手直しすれば賞を獲りそうだなって思いました」

 先日書いた青森旅行記は、自分ではいい出来だと思っていたが、あまり読者受けする内容ではなかったらしく、知り合いが数名読んでくれたのみで、誰にも気づかれずにWebの海を遭難していた。しかし、彼女が読んでくれることで、自分の書いたものが生きた人間に届いたんだという実感が持て、確実に僕の一歩を自覚させる一助となっている。

 やはり生身の人間とネット上の交友では、得るものが違う気がしている。

「紅緒さん、セットのサラダ作っといてください」

「あっ、すみません。あっ、すぐに作ります! はい」

 キッチンからお姉さんが紅緒さんに指示した。紅緒さんは僕に頭を下げてすぐに裏に引っ込んでいってしまった。僕以外お客さんはいないので、時間はたっぷりとあるし、仕事を残しても僕が後で片付けておくのに、律儀な方だと思った。彼女は、いつも慌てる必要も無いのに慌てている。そして、誰かに声をかけられると、事あるごとに、あっ、あっ。と喘ぐような声を出しているので、とても可愛らしい。もしかしたら夜もそんな感じなのかもしれないと失礼な事を考えてしまう。

 下世話な話で申し訳ないと思いつつ、旦那さんが羨ましかった。ああいう素敵な女性はすぐに相手を見つけてしまうんだろうなと少し悲しい気持ちになる。もし、来世で結ばれるなら、紅緒さんと結ばれたい。


「哲、人妻っていいよな。僕、結婚するならお尻が大きい女性ひとがいい」

 僕は緑皿に乗ったコハダをつまんで口に運ぶ。コハダも、ブリと同じくコノシロの幼名で出世魚の一つだった。ニシンの仲間らしく、安く食べられる光り物ということで、僕はいつも三皿食べる。ちょっとシャリを大きめに握ってもらった寿司は、食べごたえがあって順調に僕の腹を満たしていった。

「人妻ね。修二……」

 哲が含みのある言い方をした。また、いつもの下ネタトークをするのだろう。わかったわかった。ちょっとアガリで口を濯ぐから聞いてやる。

「俺、結婚するかも」

 咀嚼して砕かれた米粒がお茶と一緒に鼻から吹き出した。半固形が混じった液体が気管に入って、激しくむせた。僕のせいでテーブルが米浸しになっている。哲の目は明らかに動揺していた。大丈夫だと手で制し、テーブルをおてふきで拭いながら、僕は視線を哲に向ける。

「かっぱ巻一つ」

 僕がそう言うと、哲は何度か頷き、巻きすにシャリを塗りたくり始めた。締めで頼むと、何故か僕のかっぱ巻だけ、わさびがアホみたいに入っている。下手するとメインのきゅうりと同じくらい入っている。後から聞くと、大将も哲も悪びれずに入れていると白状した。二人とも、僕がわさびで苦しむのを見て楽しみたいのだろう。悔しいので、何事もないように口に運び、咀嚼する。


「で、誰と結婚するの」

 話が戻ってきたので、哲が喜々としてスマホの画面を見せてきた。画面には、上目遣いでソファに座った金髪の女性がいた。タレ眉と赤い口紅、そして韓流スターを意識した顎を細く見せる加工、綺羅びやかなドレスと両手の指にはめられた指輪の数からして、接客業をしている人だと思った。

「可愛くない?」

「夜の女って感じがするね」

 哲は得意げに頭を何度も振った。どうやらキャバ嬢らしい。富山の新富町で働いているそうだ。

「アフターもついてきてくれて、何回かホテルに行った」

「完全にそっちの人なのね。結婚はどっちから切り出したの?」

 十中八九キャバ嬢の方からだと思いつつ聞いてみる。

「あっちから。ホテルに行って八回目だったかな。私とはセックスだけの関係なのって聞かれたら、うんって言えないじゃんね」

 そうだね、セックスだけの関係だろうにね。

「何歳」

「二十九歳」

 僕より歳上だった。

「しかも一歳の子持ち」

「だったら、経済的に安定してる人が横にいて欲しいってのが本音やろ。父親おらんなんて可愛そうやし。そりゃ、再婚に必死になるわ」

 まあ、父親がいなくても大学出て生きている人間がここにいるが。まともかはわからんけども。

「で、どうすんの」

「一年待ってほしいて言ってある。一年待ってもらって、気が変わらんだら本物やろうし」

 中々面白い言いのがれだと思った。哲はこのまま一年待って霧隠れするつもりかもしれない。まあ、男なんてそんなもんだよ。気持ちいいことやれればいいし、やることやった後の責任なんて、女に言われてから気づくんだから。

「でもさ、こんな俺が家族守れんのかなって思って」

 ほらな。

「まだ、二十三やもんね、哲」

 こちらは、まだまだ遊び足りないから家庭なんて重いものを背負う気概なんて持ち合わせていないだろうという皮肉を込めて言ったつもりだったが、哲はそこまで頭が回っていないのだろう。テレビのニュースに目線を移した。

 そもそも、哲に数百万円の借金があることを、お相手のキャバ嬢は知っているのだろうか。それとも、知っていて、なお男への安心感を求めているのだろうか。

 愛のなさそうな二人を見ていると、結婚ってなんだろうなと鼻白む思いがする。


「そういえば修二、ゆあの教育係になったんやって?」

 哲が思い出したようにそう言った。どうすればいい? と、哲に聞いても、曖昧な返事をされるだけだった。

「うん。何で哲じゃなくて俺なんやろ」

 動揺で、哲の一人称が移った。

「俺は、まあ、こんなんやし」

 哲が首をすくめる。まあ、さっきの話を聞く限り、ひと悶着ありそうな哲より、今まで無難に人間関係を構築してきた僕の方に白羽の矢が立つのが妥当なのかもなと思った。

「おはようございます!」

 今日も、裏口のドアが重たい衝撃を受けて震えた。そちらの方に目を向けると、ゆあが僕を無視して哲の方に走ってきた。そして、コンビニの袋からリアルゴールドを取り出し、彼に渡した。

 ゆあは笑顔で哲を数秒見つめた後、着替えのために休憩室へと走っていった。

「頼んだの?」

「いや、勝手に買ってくる」

「あっそう、お会計」

 ゆあが哲を見る目は、どことなく女の顔だった。僕は、笑いをこらえていた。

 恋愛は素晴らしいと説く人種がいるが、僕にとっては他人の恋愛など、犬の交尾と大差なかった。

 本当に、何で、哲じゃないんだよ。

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