ゆあ

第4話 ゆあ

 接客を終えてキッチンに戻ると、ドンと大きな音がして、裏口の扉が揺れた。

 地震かと思ったが、違うらしい。あのシルエットはバイトの女子高生だ。

 五時からシフトに入っている女子高生が、慌てた様子で店に入ってきた。

 どうやら、学校が終わってすぐに店に来たようだ。額にかいた汗を拭いながら、彼女は「おはようございます」と、ぶっきらぼうに挨拶をする。机一枚離れたところからでも、制汗剤と柔軟剤が混じった甘ったるい匂いがマスク越しに届く。いや、そんな生優しいものではない。彼女から発せられる匂いは、すでにキッチン全体を包んでいた。

 彼女は、壁にかけられた時計で、シフトの五分前入店に気づき、休憩室で急いで着替える。そして、半脱ぎになった靴を何度も地面に叩きつけ、無理やり履いた。

 靴が床に激突する度に、彼女の足元からは威勢のいい音がした。まるで合戦の開始を知らせる銅鑼だ。彼女のくたびれた靴は、かかとの部分を潰した跡がくっきり残っている。

 挨拶を済ませた彼女は流しで手を洗った後、なんとダルそうに軍艦機の上に肘をつき、スマホで写真を眺めはじめた。机の下には、拭かなければならない発泡スチロールの容器パールとタッパーの山が積まれているのにも気づかずに。

 どうやら彼女には、自分の世界以外は見えていないようだった。その様子を見ても、兄さんも姉さんも何も言わない。大将マスターの息子と娘が何も言わないから、彼女はそれが当たり前だと言わんばかりに、堂々としている。


 僕は、気を使って彼女にそれとなく教えてあげることにした。

「ごめん、畑中はたなかさん。洗い物残ってるから、拭いてもらってもいいかな?」

 返事がない。女子高生の畑中ゆあは、僕の声が聞こえないらしかった。もしかしたら、耳が遠い方なのかもしれない。高校生だし、義務教育は済んでいるはずだ。流石に子ども扱いは失礼だろう。バイトに来たのだから、自分のすべきことはスマホをいじることではなく、準備だということは理解しているはずなので、もう一度、声をかけてみる。

、そういうのよく分かんないから」

 怒ったように、そう言われた。低姿勢でもう一度、彼女にお願いすると、ゆあは素知らぬ顔でスマホに目線を落とし、画面のスワイプを再開した。

 まるで、宇宙人と会話しているみたいだ。分からないのはこちらの方だ。僕とゆあのやり取りを横で見ていた男子高校生の山田くんが、溜まった洗い物に気がついて、拭いてくれていた。

 僕は、彼女が苦手だった。女子高生という得体の知れない生き物に、恐怖しているのかもしれない。ともあれ、お客さんがテイクアウトの寿司を取りに来たので、僕は何事もなかったようにレジの方へ接客に向かう。


 僕がお客さんの対応を終えて、キッチンへ戻ると、ゆあがいなかった。どうやら、トイレに行ったらしい。店の奥の冷凍庫の上に、紺色の三角巾と前掛けが無造作に放り投げられている。思わずため息をつくと、洗い場の前で手持ち無沙汰にしている半笑いの山田くんと目が合った。

「修二さん、アイツ何なんですか! 全然仕事しないっすね。あんま可愛くないくせに!」

 山田くんは、砕けた口調で僕を気遣う言葉をかける。弓道部の彼は、よく部活をサボる不良だった。しかしゆあとは違い、不器用ながらも、指示さえすれば仕事をまともに遂行してくれる。僕は、彼の後輩ムーブに思わず笑ってしまいそうになりながらも、味方がいることへのありがたさに感謝し、肘で彼を小突いた。

 ゆあがトイレから戻ってきた。彼女はキッチンに入るなり、お姉さんの横に立って、二人で世間話に興じている。お姉さんは板場からオーダーが入るなり、僕を目で脅し、茶碗蒸しを持っていくよう命令した。二人の方が蒸し器に近いのに、決して動こうとはしない。そして、二人の体が、狭い通路を更に狭くしていたので、僕は肩身の狭さに身を縮こませながら低姿勢に蒸し器へと向かった。

 おそらく、この店のバイトで、若い女の子はゆあしかいないので、より一層大事にされているというのは容易に想像できる。

 ちなみに、仕事をしないゆあと、僕のバイト代は、同一賃金の時給九百円をもらっている。その事実に、心が折られそうになる。


 軍艦機から離れようとしないゆあを観察していると、どうやら板場から注文される軍艦だけは、率先して作っているようだった。

 お姉さんから、軍艦専従で仕事をしろと言われているらしい。僕より一か月後にバイトを始めた彼女は、仕事を覚えるのが遅かった。そもそも、覚えようという気があるのかすら分からない。入ってきた当初はタメ口で、しかも仕事の概念すら理解していなかった。店にいれば、自然とお金がもらえる。そう思っていてもおかしくないような態度だった。そして、面倒な仕事を任せようとすると、事あるごとに「ゆあ、頭が悪いから」と言った。そうなると、結局彼女に任せるはずだった仕事は総て僕のところに回ってきた。断って暇になるのも結構応えるので、忙しさに感謝しつつ、僕は任された仕事を粛々と片付けた。

 耐えきれなくなった僕が、大将に疑義を呈しても、まあ高校生だからと、軽くあしらわれた。

 そしてこの店の女は働かないと哲が言うように、ゆあもまた、半年かけて、姉さんみたいな団子体型と、有閑マダムなを獲得していた。


 僕がシフトを終えて、帰ろうとしたときだった。帰り支度をしていると、裏口に座ってタバコ休憩している大将に呼ばれた。どうやら、今後の仕事についての話らしい。外では叩きつけるような雨が降っている。話は車の中でするということで、帰りは送ってくれる事になった。流石にこの土砂降りの中で、片道三十分の道のりを徒歩で帰るのは厳しい。折角なので、大将の心遣いに甘えることにした。

 大将の車の中には、“田園”がかかっていた。

「玉置浩二ですね」というと、驚かれた。

「俺らの世代やぞ」

「Youtubeでよく聴いていたので」

「今の若いもんは何でもYoutubeやな」

 車を走らせて、二つ信号を進んだところで赤信号に引っかかり、大将は車を停める。そして何の気無しに彼が口を開いた。

「修二、お前、ゆあの教育係になってもらえんか」

 ラジオの音がかき消されるほどの雨の中で、彼の声だけがはっきりと聞こえた。

「冗談ですよね。僕、成人してるし、高校生と恋愛したら法律的にアウトなんじゃないですか」

「ちがわい! 仕事じゃ仕事!」

 僕のボケに、大将は突っ込んでくれた。流石、大阪で十年間修行した店の主は、漫才のイロハも分かっているようだった。

「詳しくは言えないけど、ちょっと、ゆあに問題があってな」

 そう言って、大将は言い淀んだ。

「前に、俺に相談しに来てくれた時あったけど、歳上の修二だったらアイツに常識を教えてくれるんじゃないかと思ってな」

 なるほど。たしかに僕は、以前、大将に畑中ゆあの非常識さを滔々と愚痴ったことがあった。だから、言い出しっぺの僕が教育係になれと大将は言いたいらしい。

「それとも修二、女子高生とスケベな事したいんか?」

 一人で納得していると、間髪入れずに、大将から冷やかされた。暗闇の中でも、大将がにやけているのが分かった。

「するわけないでしょ、失敬な。僕だってそのくらいの分別はあります。馬鹿にしないでください。ところで、哲とか、姉さんに任せたりはしないんですか。哲は歳が近いし、姉さんは同性なのに」

「哲も、ちょっとコレで問題を抱えてて、姉さんは最近おふくろの世話で仕事に来れんことが多くなってきてな。まあ、教育係は短い間になると思うけど」

 そう言って、大将は小指を立てた。やはり哲はモテるらしい。姉さんの方も、大将の奥さんの介護で忙しいようだ。

「なるほど」

「お前は仕事も真面目にやっとるし、信用しとるから頼むんやぞ」

「分かりました」

 車が、僕の家に着いた。大将の車のテールランプが曲がり角に消え、街灯の下は僕一人になった。重く、黒い雨がまだ降っていた。

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