第8話 ゆあは頭が悪いから。

 DOCGディオチヂの駐車場に車を止めて、石垣の上を歩いていくと、一分も経たずに砂浜に着いた。バイトを始める前の無職時代、富山に帰ってきてから、僕がよく現実逃避のために来た場所だ。

 大学時代から会社員時代まで、海とは縁遠い生活を送ってきた。青森も東京も海と隣接しているのだが、殆どが自宅から大学や会社を往復するだけの無機質な日常だったので、とんと海に来る機会がなかった。だから、久しぶりに富山に帰ってきて海を見たときは感動した。こうして波打ち際で海風にあたることは、有機質な実感が伴う、一種の清涼剤として効用した。通勤電車や雑踏で流れる人工的な情報のノイズとは違い、波が少しずつ世界を削っていく、地球が織りなす一定のリズムが心地よかった。


 しかし、そんな事を知る由もないゆあは、砂原にローファーを脱ぎ捨てて、揺れる波間に素足を晒している。暗闇の中、虚空に向かって声をあげる女子高生は、悩みなんて何にも無いようにおどけていた。濡れてもいいように、車からバスタオルを二枚持って来たので、今は自由に遊べばいい。そう思いながら、僕は遠くに明滅する灯台の光と、雨晴あまはらしトンネルに消える氷見線の下り列車を目で追う。そうして闇の中で踊る彼女の波音を、僕は自分だけの閉じた世界で聴いていた。

 しばらくして満足したのか、ゆあが砂浜に向かって歩いてきた。僕は、落ちたローファーを拾うゆあに、バスタオルを渡した。彼女は素直にお礼を言って、代わりにローファーを寄越してきた。なんだか、映画のワンシーンみたいだった。


 彼女が靴を履いた後、僕たちは立入禁止の柵を越えて、堤防に登ってみた。夜更けに、いい大人と女子高生の二人で悪いことをしている感がやけに爽快だった。

「最近、バイトで困ってることとかない?」

「特に……」

 ゆあがぶっきらぼうにそう言った。

「仕事しにくいとか、周りの人の目が気になるとか……」

 僕の言葉に、ゆあは大きなため息をついた。そしてしばらく黙っていた。やがて意を決したのか、ようやく口を開いた。

「修二も、ゆあのこと仕事しないって思ってる?」

 いきなり、図星を突かれてしまい、冷や汗が出た。

 男たちの間で、畑中ゆあは仕事をしないと噂になっていた。軍艦だけ作っていて、他の仕事が手についていない。暇な時間があれば、お姉さんと喋っているか、スマホをいじっている。しかも、ゆあに対するお咎めはなく、あまつさえお兄さんはゆあに対して餌付けをしている。同じ給料をもらっているスタッフは、自分とゆあの待遇の差に不公平を感じ、怒りを覚えている。中には、完全なアンチもおり、ゆあを省いて男だけで何度かご飯に行ったりカラオケに行っている。もしかしたら、ゆあもそれを感づいているのかもしれない。

 ちなみに、ゆあをよく思っていないグループの中に、哲もいる。


「いや、純粋に、何か仕事しにくい環境なのかなって思って。僕が前勤めていた会社でも、人事のお姉さんがよく相談にのってくれていたから。ゆあも、働きやすい環境で働けていたらいいかなと思って」

 もし、哲がゆあを嫌っていることを知れば、彼女が傷つくだけではなく、店を辞めることも十分に考えられた。人手不足の中、それだけはあってはならないことだった。僕は、彼女に弁明するようにそう言った。


 すると、彼女は信じてくれたのか、納得したように少し考えた。

「ゆあはちゃんと仕事してるよ。お姉さんが軍艦だけしてればいいってゆった。ゆあは悪くない」

「自分は悪くない」大将マスターの娘であるお姉さんの口癖だった。もしかしたら、ゆあが自由に働けていないのも、あの人の影響かもしれない。

「お姉さんが、軍艦だけ作っててって言ったんだね? そうか、ゆあは、お姉さんの指示をちゃんと守っているだけだもんね?」

 ゆあが頷く。なるほど、お姉さんはゆあを甘やかしたのだろう。

 そういえば大将も、女子高生だから、あまりきつく言うと、辞めるかもしれないから優しくなと言っていた。責任を取りたがらないお姉さんのことだから、大将の言葉通り受け取り、ゆあを優しく教育した。軍艦だけに専念させたのも、マルチタスクが苦手なゆあを思って、一つだけ得意なことをさせて自信をつけさせるためだったと考えれば納得できる。

 で、結果的に一年経っても軍艦を作る以外出来ないバイトが誕生したと。

「でも、ゆあ、頭悪いから、軍艦しか任せてもらえないのかな」

 僕の目の前には、周囲と比べて底知れない無力感を感じて悩んでいる一人の女子高生がいた。僕には、何故彼女が悩まなければいけないのか分からなかった。もしかしたら、彼女が仕事で頑張れないのは彼女の自助努力が足りていないせいではなく、侮っていた僕たちが悪いかもしれないのに。

 ゆあはつま先で消波ブロックに蹴りを入れている。岩肌にこびり付いたフジツボがゴリゴリと削れた。


 息を吸い込むと、夜の潮臭い吸気が肺に入る。

「ゆあは、頭悪くない。悪いのは周りの大人たちだ」

 穏やかなリズムを刻む暗闇に向かって、僕は、断定する。声を張り上げたせいか、ゆあがびっくりしてこちらを見た。

「仕事出来ないがなんぼのもんじゃい! 勉強出来ないがなんぼのもんじゃい! こちとら心を病んで仕事を辞めて、勉強出来んで浪人したんじゃーい!」

 僕の叫びは、ゆあに向かって何も伝えていなかった。むしろ自分に向かってやけくそに言い聞かせていた。問題は解決しなかったが、久しぶりに思いっきり叫んで、スッキリした。何故、ゆあの悩みを解決する立場の僕が、自己完結でスッキリしているのか意味がわからず驚いていた。

「ゆあ、覚えといて。僕みたいに、どうしようもない大人なんて、世の中にいっぱいいる。そんなどうしようもない大人の言葉を真に受けて、無理に悩まなくてもいい。頭が悪いは結構! ろくでなしでも生きていける。学校いかんでも、バイトとか、頑張りたいところで頑張ればいいよ」

 暗くて、ゆあの表情は分からなかったが、どうやら言葉を失っているようだ。

「でも、哲のことが好きなんやろ? 折角、哲が前出て頑張ってるんやから、裏方として、周りの人が困ってたら助けてやりな。新人も来て、ゆあも先輩になるんやから、頭が悪くても、ゆあが頑張ろうとしているのは何とか伝わって来るから、大丈夫やちゃ。多分、それが哲にとって一番嬉しいことだと思う。文句言いつつも、若手なりに店のこと考えとるから。哲」

「修二」

 暗闇に、鈴の音のような声が響いた。

「何?」

「頭悪いって言いすぎ」

「ごめんね?」

「うん」

 初めて、を聴いたような気がした。なんだか嬉しくなった。


「よぉしっ!」

 僕は、堤防の上で助走をつけて、

「どりゃぁっ!」

 飛んだ。僕は、五メートル下に見事な着水を決めた。

「何やってんの! 馬鹿じゃないの?」

「あっはっは! 皆こんなもんだよ。大人もこんなもん。頭悪いのがなんぼのもんじゃい! 貧乏がなんぼのもんじゃい!」

 堤防から声を張り上げるゆあに向かって、僕は叫んだ。大学時代に近所のプールで行われた体験教室で着衣泳法をマスターしていて助かった。服が重いが、立ち泳ぎで、何とか生き延びられている。

「何でいきなり海に飛び込むことになるの?」

 ゆあは、僕が突然海に飛び込んだので、あたふたしている。夜の海で僕が溺れ死ぬと思っているらしい。どう助けようか考えて混乱している彼女の姿を見ると、どうしようもなく面白く、たまらなかった。

「皆が、自分の気持ちに正直に生きてるってちょっとわかったから、僕も自分の気持ちに従って行動してみた」

「わけわからない……」

 口の中に入った海水を吐き出しながら、僕は高校生の頃を思い出していた。

 周りの話に興味が持てなくて、誰とも関われず、ずっと教室の机の上で突っ伏して寝ていたあの日。青春をドブに捨てた僕は、こんな地獄が永遠に続くのかと絶望していた。

 土砂降りの放課後、迎えに来てくれた母さんに、帰りの車の助手席で「死にたい」とぼやいた僕。普段は温厚な母さんが、その時初めて見せた顔。彼女は舌打ち一つして、川沿いの道を土手に向かってハンドルを切り、車が土手の下に転がり落ちる寸前で、もう一度ハンドルを戻した。そして「殺すぞ」と、僕を脅す。

 その時、僕は何だか救われたような気分だった。今になって分かった。絶望は永遠には続かない。人はいずれ死ぬ。それも、ひどくあっさりと。母さんは、僕にそれを教えてくれようとしたのかもしれない。

 浜辺に向かって泳ぐと、ゆあが僕を待っていた。足が着くところまで来ると、気が抜けて上手く泳げなくなった。ゆあに手を引いて貰い、何とか砂浜に足をつけることが出来た。

 彼女にバスタオルを貰い、体を拭いた。構わずに海水に浸かったゆあも、制服を濡らしていた。


 ゆあの家の前に着くと、門限の八時をとうに過ぎていた。

「ママ、帰ってきてる」

 家から明かりが漏れており、窓からは微かにお湯の匂いがした。

「……じゃあ、このあたりで降ろすぞ」

「うん」

 僕は、ゆあを降ろすと、窓ガラスを少し開けた。開けた窓から、ゆあが顔を突っ込んでくる。

「また誘ってくれる?」

「いいのか? 哲が嫉妬しちゃうぞ」

「うるせー!」

 ゆあは鞄で僕を殴り、踵を返した。

 濡れた髪を振りながら、彼女が家の中に入っていくのを見送った。

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