第9話 命の濁流
服から立ち上る蒸気がどことなく潮臭い。ただでさえ汗かきなのに、磯臭さが不快感を増幅している。ネバネバして気持ち悪いので、途中で銭湯にでも寄ってこればよかったと後悔した。
「ただいま」
車を裏口に停め、家の扉を開けると、中から母さんが出てきた。
半乾きで海水がまとわりついた服で母さんに車の鍵を返すと「あんたどこ行ってきたの?」と、笑われた。
「海水浴」というと、クラゲに刺されなかった? と、さらに笑われた。そうか、さっきから足が痛痒いのは、クラゲに刺されたからかもしれない。足を押さえると、母さんが心配そうな顔をした。これでもつけときなさいと、母さんからムヒをもらった。
僕は、おじいちゃん家だった空き家を寝床にしている。母さんとは別居状態だ。いい大人なので、一人暮らしをしないといけないという思いがあった。家賃もかからないし、自尊心も保てる。一石二鳥だった。
空き家に着くと、LINEには、ゆあからのメッセージが入っていた。
「今日はありがとう」
可愛くない熊のスタンプとともに書かれた文面に、僕は「楽しんでくれたなら何より」と返した。これで、明日からコミュニケーションが取りやすくなればいいけど。少しだけ、女子高生のことが分かった気がして、達成感があった。
濡れた服を洗濯機に入れ、身体をお湯で濡らしたタオルで拭いた。
布団に入ると、気疲れからか、すぐに微睡みに落ちていった。
次の日も、朝の八時から仕事だった。
シャリを三本炊き上げて、酢合わせ機の後始末をしていた時だった。作業服姿の男が、大きなビニール袋を抱えて慌てて入ってきた。
裏口の物音に気づいて、
男は何度も頭を下げた。大将は、笑って彼を労っていた。これでようやく、今日の寿司ネタが揃ったらしい。すぐさま、仕込みに入るために、真鯛は兄さんが受け取った。
兄さんの手に渡った真鯛は、まな板の上で出刃包丁を入れられ、締められた。
活きの良い真鯛の最期は、あっけなかった。作業台の上で何度も大きくのたうち回り、必死の抵抗を続けた。しかし、兄さんに腹を抑えられると、観念したように、抵抗をやめた。そして、エラの真ん中に刃を入れられ、脳天を三度小突かれると、そのまま動かなくなった。締められた真鯛は、血抜きの後に、ひとまず冷凍庫に保管された。
うちの店には生け簀がない。ほとんどが、業者から買い入れる処理済みの魚だ。バイトを始めてから、寿司屋に持ち込まれるのは殆どが加工された魚で、間近で活け締めをする瞬間を見たことはなかった。しかし、そこには、長い間忘れていた命のやり取りがあった。そもそも寿司屋は、締められた素材としての魚を扱うとばかり思っていた。
ただ淡々と作業をこなしていると、分からなくなるものがあると思った。
「臨機応変に」
よく、兄さんに叱られる時に言われた言葉だが、単なる教育の放棄としか思っていなかった。臨機応変とは、要するに、上の人の気分に合わせた行動を取りなさいだと。そう思っていた。
しかし、僕の考えは違った。仕込みのやり方はあるが、判断は兄さんがしていた。
何事もなく真鯛の処理を行う兄さんの目には、ただの作業だとは思っていないようだった。そこには、仕事として、一つの命を奪う責任を負った職人の姿があった。
今日も、朝から
今日も、お昼の営業は人がいっぱい来た。上手に動けなくて、周りに迷惑をかけた。しんどかった。
パートのお母さん方が帰って、職人が全員休憩に入り、裏方は僕だけになった。人手がないので、午後二時から五時までの間は中休みをとっているが、その間も電話対応や準備中と看板が出ているのにもかかわらず、間違って入ってきたお客さんを追い返す役割があるので、一人は常駐していなければならない。
高校生組は暇があればバイト中でもスマホをいじっているが、僕は申し訳なくてできないので、自分の世界に入っていた。すると、入り口の扉が乱暴に開けられる音がした。入店のベルが鳴る。薄暗い店内が途端に騒がしくなった。
「いらっしゃいませ。申し訳ありません。今、お店は準備中でして……」
僕が表に出ると、そこにはマスクをした茶髪の女性が立っていた。小綺麗な服装で、白いTシャツにショールを羽織っている。チノパンを履いた足は、スラリと伸びて長かった。年齢からして三十代の若いママといったところだった。
「ゆあは!?」
ママは、ゆあの母親だった。鋭い目だけで、必死だとわかった。ゆあは、この後の五時からシフトに入っている。僕が首をふると、僕を認めた彼女はこちらに詰め寄ってきた。
「修二さんはいる?」
「僕ですけど」
そう言い終えないうちに、彼女は僕の富山湾Tシャツを引っ張り、口からツバを飛ばす勢いで叫んだ。幸いツバはマスクで塞がれたが、大事な制服が伸びていた。
「お前ぇぇ! 私の娘に何をしたぁぁ!」
ゆあの母親の叫び声で、ボックス席の椅子で寝ていた兄さんが飛び起き、休憩室で丼をかきこんでいた大将が飛んできた。
「一緒にご飯に行っただけですけど」
「嘘つけぇ! 高校生を門限越えて帰らせて、それに何で制服ぐしょぐしょになっとるんやぁぁ! 女子高生をヌレヌレにして、大の大人が何やっとるんやぁぁ!」
何故、ここまで怒られているのかわからなかったのと、ゆあの母親の言い回しが独特だったので、思わず吹き出してしまった。しかし、吹き出したことで彼女に火をつけてしまったのか、さらに僕の服を締め上げる力が強くなった。
「申し訳ありません」
どうやら話を聞く限り、僕がゆあを家まで送った後、びしょ濡れになった彼女を見て、ゆあの母親は仰天したらしい。そして、その理由を問いただしたところ、親に干渉されたくなかったゆあと言い合いになったそうだ。そして訳も分からず、ゆあは一人で家を飛び出したらしい。
ここで、やっと彼女が僕に対して怒っている理由が理解できた。そりゃそうだ。友達の家に勉強に行くと嘘をついて出かけた娘が、門限を過ぎて男と一緒に帰ってきて、さらに制服を濡らして来たんだから。そして、その娘が今は行方不明と来ている。
「私の娘を返せぇぇ!」
どうやら、ゆあとの喧嘩の最中、僕とゆあのLINEを見たらしい。そこで、自分の娘を誘拐したのは、バイト先の若い男ということがわかったようだ。
「修二、ゆあについて何か知らんか」
見かねた大将が、僕たちの間を取り持ってくれた。
「はい。ゆあとご飯に行って、帰りに海に寄って、浜辺で滑って転んだ時に濡れました」
ゆあとご飯に行くことは、予め大将に伝えてある。大将も、この事態を想定できていなかったようで、少し慌てていた。
「だ、そうです。奥さん」
「断じて、やましいことはしてません」
ゆあの母親は、声にならない声をあげた。人間ってこんな声を出せるんだと感心していると、彼女は僕を突き飛ばした。どうやら大将が宥めても、彼女は話を聞ける状態にはなかった。
「修二、こっちは大丈夫だから、今日は帰れ」
どうやら、僕がいることで場がさらに混乱すると大将は判断したらしい。
「お前! 警察に通報して誘拐の罪で刑務所にぶち込んでやるからなぁ!?」
「すみません、大将。失礼します」
未成年誘拐という言葉が頭をよぎった。何がなんだか分からなかったが、僕は、事件の渦中に飲み込まれてしまったのだと思った。
何故こうなった。ただ生きてきただけなのに。何もしていなくても、いつ平穏が破られるのかわからないんだなと、ひどく冷静に考えていた。
「まるで、今朝、兄さんに締められた真鯛だな」
そして、暫くの間、僕の店でのあだ名は“女子高生ヌレヌレ”になった。
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