第3話 荒地の魔女

 休憩から戻ると、店内のカウンター席に一人、お客さんが座っていた。けばけばしい化粧を顔に塗りたくり、カラスの羽を剥いだようなコートを羽織っている。両手には金やエメラルドの指輪を六つ嵌め、右脚にはギプスのような太いゲードルを巻いていた。歳は六十後半から七十代と言ったところだろうか。この辺りでは一番大きな屋敷に住んでいる老婦人だった。

 彼女は、週に一度、平日の午後四時になると来店する常連の一人だ。重層的な人生経験を持ちながら、どこか人を寄り付かせない雰囲気を放っている彼女を、僕たちスタッフは荒地の魔女と呼んでいた。

「ねえ、もしかして私としゃべらないように大将マスターから何か言われてるの?」

 頼まれたハイボールを彼女の席において、立ち去ろうとしたときだった。僕は感染症対策で会話は必要最低限にしており、失礼にならないように、かつ事務的に応対したつもりだった。そもそも、時給九百円の身分で客と実のある会話を強要されるなど、過剰サービス甚だしかった。ここは寿司屋だ。美味しい寿司を何事もなく食べていただく場所だ。そのために職人がおり、僕たちホールスタッフがいる。そういうコミュニケーションサービスを求めるのであれば、ホストか老人ホームに行ってほしかった。

「はぁ」

 僕は思わず聞き返した。

 荒れ地の魔女は僕と大将の顔を交互に見やっている。どうやら機嫌が悪いらしい。いつもなら、ありがとうと興味なさそうに返して来るだけなのだが、今日はやたらとスタッフに絡んでくる。

 僕を詰める言葉を投げつけながら、彼女は憎々しげに何度も手のひらでテーブルを叩く。その度に積み上げた皿が小刻みに揺れた。アルコール三杯、揚げ物三皿、三貫盛り四皿を含めた十八皿のタワーが今にも崩れ落ちそうでヒヤヒヤする。荒れ地の魔女は毎回、平均して五千八百円程度食べる健啖家けんたんかだった。それに、常連ということもあり、無下に扱う事もできない。どうやら、その立場を利用して、スタッフをイビってウサを晴らしているのだろうと思った。お客様は神様ではないが、下手に騒動を起こすと店の印象が悪くなる可能性もあるので、ここは我慢一択である。

 大将に目線をやると、こっちはいいから裏方に戻れとアイコンタクトされた。僕は前職で培った営業スマイルで切り抜け、キッチンに戻った。


「三年前に旦那が亡くなってからおかしくなったんだよ。荒地の魔女」

 僕が戻ると、バックヤードで煙草を吸っていた哲がこともなげにそう言った。

「旦那が大金持ちで、でかい館に住んで、今まで好き勝手させてもらったくせに、旦那が亡くなってからは人が変わったようにおかしくなったんだよな。まあ、遺産もがっぽりもらってるだろうし、生活に不安は無いだろうけど」

「子どもはいないの?」

「いや、聞いたこと無いな」

「なるほどね」

 哲の言葉に頷きつつ、先程の言動から、荒地の魔女は寂しいのだろうと思った。ただ、僕たちには寿司屋としての仕事があるし、彼女以外にも大切にしなければいけないお客さんはいるから、どうしようも無いよなと思った。

「あの人、足も引きずってるのに、よく店に来てくれるよね」

 それこそ、お金があるなら老人ホームにでもいけば、ちゃんと世話をしてくれるプロもいるだろうに、彼女の中の何かがそれをさせないのだろうな。今の生活を捨てて老人ホームに入るということは、彼女の中の何かを変えるということ。それこそ、彼女の中にはまだ、自分を大切にしてくれた旦那さんが生きているのかもしれない。だから、今も寿司屋に来てお金を使って、旦那さんがいた頃の生活を維持しようとしている。彼女の中にいる大切な人を亡くさないために。配偶者とはいえ、彼女にそこまで抱えさせる旦那さんはきっと、彼女にとってあまりにも大きな存在だったのだろう。

 僕は他人にはなれないし、想像でしか推し量れないけれども。彼女は寂しさに耐えるために、主人と享受した贅沢な生活を維持している。ただ、客に不機嫌を押し付けられて終わりではしゃくなので、そう思うことにした。

「そうだとしたら、彼女、すごく、愛されてたんだね」

 僕の言葉に、哲は肩をすくめる。そして、煙草の火を金網に押し付けて、消した。


 煙草休憩を終えた哲が板場に戻ると、大将から会計の呼び出しがあった。荒れ地の魔女のお勘定を終えると、客がいなくなって店が静かになった。彼女は帰る時「大将も、昔はもっと喋れる職人だったのに、あなたも、どうやらダメそうね」と言った。

 僕は差し出された一万円札をレジスターに打ち込み、お釣りの四千二百円とレシートを渡した。

「私、こんなだけど、また来ていいの?」

 去り際に、大将に向かって荒地の魔女は金切り声を上げた。

「来たければ、どうぞ」

 大将がそう言うと、荒地の魔女は観念したように出口に向かった。

 孤独な背中を見送りながら、お金でも、美味しい寿司でも満たせないものは多いのかもしれないと思った。

 荒れ地の魔女が帰ってから、しばらく客が来なかった。暇ができたので、穴が空いて使い物にならなくなった布巾で戸棚の隅に溜まった埃を取りながら、僕は、物思いに耽っていた。暇だと、考えごとが多くなって困る。どうしても、僕の頭に荒地の魔女の悲痛な叫びがこびりついて取れなかった。


 僕には叔母がいる。母の妹だ。今年で五十になる。彼女も昔、仕事で人間トラブルに会い、荒地の魔女のように心に大きなハンデを負ってしまった。病名は統合失調症という。僕がまだ小学生の頃から、夜中に暴れて近所の人に警察を呼ばれ、何度か精神科の病棟で過ごしていた時期もある。叔母は、荒地の魔女とは違い、結婚はしていないので配偶者はいない。そして、僕の家系で残っているのは母と叔母合わせて三人だ。そのため母が亡くなれば、叔母の老後は荒地の魔女と同じように、一人で生きていかなければならない。

 僕は甥なので、法的には扶養義務が発生しない。関わるとしても、金銭的援助だろうが、現状、僕一人の生活費を稼ぐのが精一杯なので、援助自体非現実的だろう。

 扶養に関する慣例を見てみると、甥が叔母の老後の面倒を見るかどうかは人情によるらしい。そのため、僕は彼女を見限ろうと思っている。僕は昔、言葉でも、肉体的にも、彼女から暴力を受けている。そんな彼女を愛することはできない

 そう考えると、これは現代の姨捨山おばすてやまだなと思った。家で腐乱死体になる叔母の姿が脳裏によぎるが、致し方ない。多分、彼女が亡くなったら、異臭で近所の人が通報し、彼女の死体が発見される。もしそれが迷惑だというのであれば、政府が安楽死制度を導入すればいい。孤独を政府公認で切り捨てていけばいい。


 一人で生きることを決めたのは彼女なのだから、そういう結末になるのは当然だった。それに、これまで社会人になって三十年間、努力する機会は幾度となくあったはずだ。僕は、その機会を不意にした挙げ句、ふてぶてしく他人の金で生き続けた叔母を許せないでいる。そもそも、僕の人生が叔母の介護で潰される筋合いはないのではないか。僕に、彼女の人生の責任を押し付けないでほしい。そして、僕は自分の人生を守るために致し方なく悪人になることを決めたのだ。僕を悪人にした叔母には、一人で生きていって欲しい。もし、この考えに異議を唱え、叔母の面倒を見るべきだと仰る方は、僕にお金を恵んで欲しい。それができないのであれば偽善でしか無いし、不愉快極まる。同情するなら金をくれというやつだ。

 ただ、そんなことを叫んでもしょうがないし、社会から白眼視されるだけなので、粛々と、縁を切れるように、彼女からの好意すべてを拒絶し、関係性を漂白に成型していく。

 叔母に会わないように、昼間は外に出て小説を書き、母の金を横流しにしたお小遣いも受け取らない。家にあるトイレットペーパーが少なくなったからとプレゼントされるワンロールも、母に渡して返却してもらう。

 繰り返しの努力によって、次第に叔母との接触は限りなくゼロになっていった。空いた時間は、自分を大切にしてくれる人に注ぎ込む。そうすることで、僕は気持ちよく生きられるようになっていった。

 やはり、嫌な人間関係をシンプルにしていくのは、よりよい人生を実現するために大事なのだなと思った。


 微かに有線から聞こえるBUMP OF CHICKENの“なないろ”の向こうで、哲の「いらっしゃいませ」が聞こえる。どうやら、テイクアウトの寿司を取りに来たお客さんだ。僕は、前掛けの帯を結び直して、レジに向かった。




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