第2話 無敵の人
先日、某県で演説していた元首相が銃殺された。
事件が起こってからあっという間に二週間が経った。世間では元首相の国葬をすべきかどうかで賛否両論盛り上がり、結果として国葬は行うことになった。
SNSでは何度か首相退陣がトレンドに上がった。
そして、テレビの話題は容疑者家族の某宗教入信と、元首相と某宗教の関連性の追求に変わった。新聞やテレビでは日本に根深く張っている宗教問題について侃々諤々の議論が巻き起こっている。
それは、ぬらりとした分かりやすい黒い質感に民衆が飛びつき、本来、問題の根本にあるはずの社会の弱い部分から目をそらしているようにも思えた。
午後二時。お昼のピークタイムも過ぎ、アイドルタイムになった。
テレビのチャンネルを変えるように哲に頼まれて、リモコンを手に取ると、丁度元首相銃殺事件について、コメンテーターが某宗教と元首相の関連性を解説していた。
そこには元派遣社員として倉庫でフォークリフトを運転していた、無職の容疑者はいなかった。何故、彼が蚊帳の外にいるのだろう。事件の当事者なのに。僕には理解できなかった。どうやら容疑者はあくまで某宗教の話題を立ち上げるためのダシになったようだ。彼の母親が某宗教に入信していたらしい。専門家は、母親の金銭トラブルが原因で、生活基盤を失った容疑者が今回の事件を起こしたらしいと語った。神妙な顔をしたコメンテーターが無職の男に憤っていた。僕の目には、容疑者が被害者のように映った。
もちろん、他人の人生を脅かすのはよくないことだけれども、家族のせいで何もかもを失った結果、人の命を絶った彼に残されていたものは何だったのか。考えるだけで忍びなかった。
僕がニュースに食い入っていると、しびれを切らした哲はチャンネルを変えろといった。僕は、素直にチャンネルを変えた。
テレビの向こうでは、競馬レースが始まるところだった。パドックではこれから始まる戦いに向けて、歴戦の名馬たちが鼻息荒く
鼻息が荒いのは馬だけではない。有り金全部を注いだ哲は目を血走らせ、黒い馬体の屈強そうな牡馬を注視している。
「賭けない人生なんてつまらない」が信条の彼らしい生き方だと思った。僕はギャンブルが弱いので賭けないが、哲はギャンブルのし過ぎで僕の四倍は稼いでいるのに数百万の借金がある。
人の好みにとやかく言う気はないが、ギャンブルが趣味の人生は、波乱万丈で僕には真似できない生き方だと思う。ちなみに負けると、給料日まではもやし生活らしいので、ぜひ頑張ってもらいたいところだ。運要素しか無いギャンブルで何を頑張るのかはわからないけれども。
テレビから聞こえるファンファーレに歓声を上げる哲を横目に、僕は心の中にある黒い塊を感じていた。最近、小説が書けていないのがその理由だった。僕にとっては小説を書くことだけが生きる理由だった。正社員を辞めて、
同期は三十万円近くの給料をもらっているのに、僕はどれだけ頑張っても月収十万円に届かない。結婚して、子どもが生まれた知り合いもいるのに、僕は彼女もいない。この先の展望も無ければ、国民健康保険料も払えていない。たまに来る年金や公共料金の未払い通知に怯える毎日を過ごしている。その事実から逃れるための避難場所が小説のはずだった。しかし、それさえ書けずにただ無為に時間が過ぎていくと、ダイレクトに孤独という名の寒風に身を晒される羽目になる。
一週間前、しんどさに耐えられなくて、熊に食われようと夜中に近くの山に登った。そして一昨日も、海開き前の波間に身体を委ねてみたが、ちょっと身体を冷やしただけで存外丈夫な僕の身体は何事もなかった。
一体、何をしているんだろう。非正規で何も持ち合わせていないという意味では、僕は某首相を銃殺した容疑者と変わらないように思えた。なんだか僕と彼を隔てているのが、薄皮一枚のような気がする。その一枚が何なのか。もしそれが小説だとして、書けていない僕は誰かを殺してしまうのではないだろうか。時折、無性に強い怒りが起こり、衝動的に何か殴りたくなるが、僕の理性はそれを押し留め、一時的な身体の震えに転化してくれている。ネットでは、彼や僕のような人間を無敵の人と呼んでいた。何も持っていないので失うものが無いから無敵ということらしい。
確かに、今の僕は無敵なのかもしれない。
今の境遇を考えると、なるほど。腑に落ちた。しかし、今まで自分に期待してくれていた人に申し訳なくて、情けなくて、悔しくて涙が出そうだった。高い授業料を払って、国立大学も出たのに。
「修二、休憩! 点検しといて!」
哲との入れ替わりで板場に入ってきた大将が僕を見つけて叫んだ。彼の言葉で、ようやく思考の海から引き上げられた思いがした。時計を見ると早くも三時だった。大将は、俯いていた二十六歳を気にもとめず、笑顔で僕を促した。
レジに入り、三時までの売上が印刷されたレシートを出し、大将に渡す。
「休憩頂きます」
休憩は、三時から四時の一時間もらえた。平日にだけ食べられるまかないだけが僕の唯一の楽しみだった。キッチンの戸棚に置いてある丼を大将に渡すと、山盛りの酢飯を詰めてくれた。今日のまかないは海鮮丼らしい。酢飯をもらって、
「修二、これ食べな。サーモン好きやろ?」
キッチンに戻って煙草休憩に入ろうとしていた哲が、サーモンの切れ端を山盛り僕の丼に乗せた。どうやら、先程の賭けに勝ったらしい。ほくほく顔で、三万円儲けたと自慢してきた。哲は、さらに先ほど切っていた穴子の余りも追加で乗せ、バーナーで丼の上から炙ってくれた。穴子の上からは甘ダレがこれでもかとかけられる。豪華サーモン穴子炙り丼の完成だ。わかめとお麩の味噌汁も添えて、丼をお盆に乗せる。
「贅沢やね」
思わず顔がほころぶ。哲の行ってらっしゃいを背中に受け、僕は休憩室に入った。
休憩室は、エアコンが効いて涼しかった。
眼の前のサーモン穴子炙り丼に手を合わせ、早速箸を丼に差し込む。
甘ダレがかかった穴子と、焦げ目の付いたご飯を口に運ぶと、香ばしい香りとともに、油の甘みが口の中に広がった。
「美味しい」
空きっ腹が満たされていく。思わず涙が出た。
続いて、好物のサーモンにわさびと醤油をたっぷりとかけ、ご飯と一緒に口にほおりこんだ。
「幸せ」
箸を動かす手が止まらない。食べ進めるにつれ、荒んだ心が豊かになっていく。
「ごちそうさまでした」
ものの五分で完食する。氷を入れてキンキンに冷やしたアガリを飲み干し、ため息をつくと、いつの間にか心の中にあった心の中の黒い塊は消え去っていた。そして、心の底から笑いがこみ上げてきた。ああ、大丈夫だった。今日も僕は生きている。
ここにいれば、貧乏でも寿司が食べられる。
もしかしたら、僕が色々なものを失っても、皮一枚繋げてまともに生きていけるのは、一杯の美味しいご飯が食べられるからかもしれないと思った。
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