第19話 あれから

 あれから哲が店に来なくなって、僕たちの間でいくつか変わったことがあった。

 もちろん、哲がいないことで出来た仕事の穴はあったけれど、それは大将と兄さんが巻き取ることで何とかなった。どうしても仕込みが間に合わないときには、二時半から五時まで中休みを取るようになった。

 裏方の仕事も、人手が足りない分は各自シフトを増やすことで何とかなった。姉さんの「手を早く動かさないと間に合わなくなるよ」の叱責が効いたのかもしれない。

 また、山田くんと立山は哲に倣って一日だけ体調不良で休んだ。しかし、次のシフトには出てきてくれていた。彼らの口ぶりから察するに、どうやら哲の考えに追従したというよりも、哲の休みに便乗して休暇を貰っただけみたいだった。いや、それも本心ではないかもしれない。もしかしたら、彼らが一日だけ休みをもらったのは、彼らなりに哲の考えに思うところがあったのかもしれないし、それに哲の顔を立てるためかもしれなかった。


 哲が来なくなってから最初の月曜日、今日も朝の裏方は三人だけだった。月曜日はポイントが二倍になるため、客の入りが多い。しかもこの店は寿司とサラダと茶碗蒸し、そして蟹かあさりの味噌汁がつく平日限定セットなるものがあり、それを出すときに、どうしてもいくつか工程を挟むので、平日は裏方の負担が大きかった。

 ランチタイムも終わり、裏方の後片付けもあらかた終わった頃、僕が休憩に入る時だった。僕と入れ替わりで、学校から帰ってきた山田くんがバイトにやってきた。

「ごめん、山田くん、今日の昼忙しくってジュースの補充やってない。申し訳ないけどやっといてくれると嬉しい」

 僕がそう言うと、山田くんは伏し目がちに「いいっすよ」と応え、黙ってジュースの補充をしてくれた。なんだか、しょぼんとしていたので、僕は声をかけることにした。

「山田くん、元気?」

「ぼちぼちっす」

 僕たちの会話はそれで終わった。あれ、そういえば、僕と山田くん、いつも何の話をしていたっけ? ふと、そんな事を考えた。哲と立山と紅緒さんはエロと仕事しんどい帰りたいと小説のことを話していたはず。しかし、他の人との会話内容は覚えていない。

「そういえば、そろそろテストじゃない?」

「まあ、そうっすね」

 こちらから話題を出しても、どうしたって会話が続かなかった。


 それからだ。僕が、この店の違和感に気づき始めたのは。

 人手の少なさから来る余裕の無さは、徐々に僕たちの無駄口を圧殺していった。そして気がつくと、一週間もしないうちに店の中が静かになっていた。僕たちの間には会話がなくなっていた。

 加えて、ゆあの機嫌があからさまに悪くなった。哲がいなくなったせいもあって、いつも哲に向けられていた熱視線は、今は行き着く場所もなく宙を漂うようになった。もちろん僕との会話も皆無に等しく、彼女の心が段々と店から剥離していくように見えた。哲がいなくなって一週間ほど過ぎた頃、彼女もバイトを休みがちになった。


 ゆあがバイトに来なくなって最初の日曜日だっただろうか。哲がいなくなったおかげで、ランチを大将と兄さんの二人で回すのがやっとになり、僕が昼に半額の寿司を食べることができなくなってしまった。そのため、まかないの出る平日以外は、昼を近くのコンビニで済ませるしかなくなった。

 僕がコンビニへ食べ物を買いに行こうと店を出ようとしたとき、丁度紅緒さんが帰るところだった。

「ごめんなさい、お店が大変なときに申し訳ないのですが……ちょっといいですか」

 紅緒さんは僕を見つけるなり、伏し目がちに口を開いた。非常に嫌な予感がした。

「修二さん、今までお世話になりました。私と今までいっぱいお話してくださりありがとうございます」

 一瞬、何を言っているのかわからなかった。僕が、とんでもない顔をしていたに違いない。紅緒さんは目を細めた。そして僕に向かって、もう一度詳しく事を説明した。

「実は、旦那の転勤で、地元の富山を離れる事になりました。なので、今月いっぱいでこの店を辞める事になりました。今まで、仲良くしてくれてありがとう」

 紅緒さんに、深く頭を下げられた。僕も、こちらこそ。と、頭を下げた。

 どうやら、近々、紅緒さんがこの店を辞めるらしいということだけは分かった。


「お皿数えさせて頂きます」

 その日の夜、常連の守衛しゅえいさんのお会計をした。車屋に勤めている六十代のおじいさんで、店が臨時休業の時以外は、必ず日曜と金曜の客がはけた二時過ぎに来店するお客様だ。それも、店を開いた時からの付き合いらしく、茶碗蒸しとポテト、そして彼しか頼まない鯛の煮つけを守衛三点セットと呼び、彼の車が見え次第、板場の大将からセットを作るように指示される。そして、毎回千五百円前後食べて、職人との会話を楽しんだ後、サラリと席を立ち会計をする。


 富山の寿司屋は結構最先端ハイテクで、皿の数を人間が数えることはない。会計はすべて機械で自動的に行われる。ハンディスキャナーで積み上げた皿の真横をなぞると、皿の底に組み込まれたICチップを読み取って自動で計算をしてくれる。

 そしてハンディスキャナーに登録されたデータをICカードに移し、それを使ってレジで会計をする。

 無機質な機械音を聞いた後、レジにカードを読み込ませる。守衛さんはレシートを受け取らないので、お釣りだけを渡し、深々と頭を下げる。大将と兄さんが、守衛さんに丁寧に挨拶をしている。どうやら、呉羽梨を貰ったらしい。ぼんやりと、もうそんな季節かと思った。


 僕たちの周りが変わってしまった一方で、変わらないものがあった。大将マスター一家の仕事の姿勢と態度である。大将と兄さんは哲の抜けた分まで粛々と仕事を片付け、姉さんの小言はいつもどおりに多かった。

 それが今まで通りだといわんばかりに、何事もない彼らにつられて、僕たちも次第にこの忙しさに慣れていった。

 まるで、哲が元々いなかったように感じられるほどに。そして、大将は哲が店に来ないことについて、何も言わなかった。昔から、哲はヘルペスで店を何度か休んでいたので、今回もいつも通りの症状と捉えているのかもしれない。


 ある日の仕事終わりだった。僕が帰ろうとしたとき、裏口の喫煙所で大将が煙草を吸っていた。

「修二、帰るところすまん」

 大将は僕を見つけると、声をかけてきた。

「ちょっと聞きたいがやけど、ゆあの事、何か知っとることないか」

 最近、休みがちなゆあについてだった。大方、哲がいなくなってバイトのモチベーションが下がったとかだろう。しかし、プライバシーの問題もあるし、話がややこしくなりそうなので黙っていることにした。

「さあ、僕は仕事以外のプライベートは干渉しないので、分からないです。では」

「そういえば話変わるがやけど……修二、車いらんか。中古の軽ながやけど、しっかり乗れるよ。バイトに来るのもずっと歩いてきとるがやろ? 足としていらんか」

 僕が話を切り上げようとすると、大将が唐突にそんな事を言った。確かに、最近遠出をする際に足がほしいなと思ってはいるが、なんだか怪しい。僕に恩を押し付けようとしているのが明らかだ。おそらく、何か厄介なことを頼むつもりなのだろう。

「要りません。車は税金ぜいきんの塊、まさにぜいの極地です。貧乏ぐらしの僕が持てる代物じゃありません」

 厄介事は、押し付けられる前に逃げるが吉だ。


「うーん、そうか……」

 僕が断りを入れても、彼はどうやら諦めていないらしい。大将は少し考えて、新しく提案した。

「だったら、自転車はどうや……丁度兄ちゃんのお古が一台余っとるがやけど」

 自転車。確かにあればめちゃくちゃ便利だ。行動範囲も増える。しかも何より、税金を払わなくてもいいのが素晴らしい。厄介事を引き受けることと天秤をかけると、余りにも魅力的過ぎた。

「欲しいです……!」

 僕は、即答した。

「そうか! それは良かった! 明後日までに持ってくるからな」

 大将は安心したように何度も頷く。

「話は変わるんやけど、ちょっと、修二に頼みたいことがあってな」

 しまった、釣られてしまった。返す刀で、大将が僕になにか頼み込んでくる。

「なんですか?」

 嫌な予感がする。もしかしたらシフト増やしてくれんかとか、正社員にならんかとか、言われるかもしれない。今でも体力仕事でボロボロなのに、そんな事を言われたら死んでしまう。

「ゆあに連絡取ってくれんか」

 意外と、軽い要求だった。

「ああ、それなら何とか」

 僕は、二つ返事で了承した。

「一応、元気かどうか確認するだけでいいから。無理に出てこいとか言わんでいいぞ」

「わかりました。失礼します」

 僕は、裏口の扉に手をかけた。

「あ、そうそう、もしかしたら自転車、中学のときのシール貼ってるから、気になるんやったら新しく防犯登録せんなんかもしれん」

 大将の言葉に、僕は一瞬立ち止まった。自転車に車検はないが、防犯登録があった。どうやら、社会は貧乏人の僕からことごとく金をむしり取ってくるらしい。




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