第18話 ダラぶち

 まさに、青天の霹靂だった。

 今まで大切に保ってきたものが壊れる瞬間というのは、おそらくこんな感触がするのだろうと思う。それはある日、アパートの二階から落ちてきた花瓶が地面に落ちた一瞬のうちに打ち砕かれる刹那の痛みではない。僕たちが守ってきた大事な卵が二度と孵ることなく、知らぬ間に殻の中身がグシャグシャに腐っていくのだと知覚する予感。

 哲の言葉が理解できなかった僕が聴き直すと、彼は今度は居住まいを正し、はっきりと、もう一度その言葉を口にした。

「修二にお願いがあるんだけど、店を壊すのを手伝ってほしいんだ」

 自分の中で、何度反芻しても理解できなかった。従業員として、今まで人間関係の保全に奔走していた哲の口から出る言葉ではない。歳が離れた兄さんや大将とアルバイトの高校生の間に入って、彼らの距離を離さないように相談役として調整してきた哲の努力を水の泡にする発言だった。

「店を壊すって、具体的にはどうすればいいの?」

 いまだによく分からないので、続けて聞いてみる。

「みんなでストライキする」

 余りにもはっきりとした哲の言いように、僕は言葉が出なかった。

「大将と、その家族連中は俺たちの価値を分かっていない。頼めば、奴隷みたいに何でも言うこと聞くと思っている。店長がいなくなってから、コロナも落ち着いてきて店に客も戻り始めてきた。大将は身内採用にこだわって人手の補充も十分じゃない。人手不足でみんな忙しそうにしてる。だから、チャンスなんだ。みんなで休めば、俺たちが重要な働き手だって分かってもらえる」


 哲の言う理屈も、なんとなく分かった。要は、信じられなくなったのだ。彼が今まで信じていた大将の男気に。以前の彼は、大将の養子になりたいと言うくらい彼を信奉していた。

「なんだか労働組合みたいだね」

 僕がそう言うと、彼は的を得たという風に目を輝かせた。

「ウチには労働組合がない。そうだ、労働組合を作るんだよ、修二! 労働運動だよ!」

「よくそんな難しい言葉知ってるね」

 哲は勉強してきたと得意そうだった。確かに、家族経営のこの店は、大将の一族が絶対的な権力を持っていて、労働組織が結成しづらい。もはや言論封殺に近いほどに。

 前職でも、労働者側のトップが会社設立当時からのメンバーだったおかげで全く機能していなかったが、それでもあるのとないのでは全く違う。多かれ少なかれ、不満のはけ口ができる。

 しかし、哲の提案は余りにも無謀すぎた。そもそも、労働組合を作ると組合費もかかるし、組合専従幹部も作れそうもないから本業と兼業だろう。今でも仕事で一杯一杯なのに、金にもならない組合の仕事をするとなると……ひと月しないうちに形骸化するのは目に見えた。そして、構成員の殆どがバイトの高校生と二十歳過ぎの若者である。

「やってくれるよな。よし、みんな」

 僕の了解も取らず、哲は強引に話を進めた。組織を作るかどうかは置いておいて、とりあえずはストライキをしようということらしい。僕以外のみんなが立ち上がった。どうやら、すでに根回し済みだったらしい。年長の僕を仲間に引き入れるために、すでに組織を作っていたようだった。


「ちょっと待って」

 流石に看過できないので、僕は声を上げた。座ったソファがキシリと歪む。

「どうした」

 哲の気持ちも分からなくないが。何か違う気がする。僕が声をあげたことに、哲は不思議そうな顔をする。

「僕はやめとくよ」

 どうやら、反対されるとは思わなかったようだ。哲が僕に詰め寄ってきた。大柄な身体で照明が遮られている。

「おいおい、ノリ悪いな、日和ったか? 修二も、給料出さない大将たちを懲らしめなきゃいけないと思うだろ?」

「……とりあえず、僕は哲の提案には乗らない」

 僕は、ノリという言葉が嫌いだ。ノリって何だよと思う。別に、僕は君たちのノリに付き合うといった覚えはない。

 そして周りを見ると、高校生が僕に対して哲と同じ目を向けている。なんだか自分が今いる空間が、すごく気色悪いなと思った。僕は元々、あなた方の仲間になりたいと思ってここにいるのではなく、僕の人生の糧になればと貴重な時間を賭けたのだから。


 結論として、彼らと関わるのは無駄だと思った。そもそも、歳下たにんに僕の人生を勝手に決められるのが極めて不愉快だった。

「そうか、何か考えがあるんなら言ってくれ。修二の考えは尊重するし……もしかして店に何か弱み握られてるとか?」

 自分の頭に血が登ったのを自戒するように、哲が僕から少し身体を離して丁寧な口調で話した。

 それでも、僕は哲の言葉に首を横に振る。そもそも僕はバイトの立場だし、生活費さえ稼げてればいいので、そこまで店に思い入れがあるわけでもないのだ。

「だったら、俺たちこっち側に来たほうがいいだろ?」

 哲はしつこく食い下がってきた。まるで、自分の意見が善意から来ると思っているかのように。なるほど、善意のおせっかいほど厄介なことはないのだ。

「はっきり言うと、君の提案は無謀だ。僕は哲の提案には乗らないよ。これでいい?」

 そこまで言っても、哲は僕の言葉を解していない。どうやら飲み過ぎらしい。お身体には気をつけて。

「……賭ける? 店が潰れるかどうか。好きでしょ、賭け事」

 どうやら、この一言で僕の皮肉が伝わったらしい。哲はアルコールで赤くなった顔をさらに真赤にした。

「後悔するぞ。俺に歯向かうと」

 哲の拳がプルプルと震える。今にも殴りかかられそうだ。僕は目を閉じる。勝手にしろという思いと、まあ一発くらいはしょうがないという諦めが混在していた。

 しばらく経っても衝撃が来ないので、僕は目を開ける。僕がみんなを見返すと、哲以外は僕から目を背けた。

「分かった」

 哲が、握っていた拳をほどき、椅子にどかっと座った。


 哲が嘆息しているのを横目で見て、少しだけ申し訳なく思った。でも、人生どうしようもないこともある。社会に出て、それが実感できた。誰にだって事情はあるし、動かしがたい実態もある。どうしようもないことで悩んでも、仕方ない。周りに期待せず、騙し騙し生きるのが正解。もし、環境を変えたいのであれば、自分が変わらなくちゃいけない。それができないのであれば言葉ぐち飲み会こうどうもすべて無駄。

 僕はそうやって他人にフィルターをかけてきた。そのせいだろうか、さっきから聞いていた彼らの愚痴は、もうすでに何を言っていたか思い出せなくなっている。

「僕の部屋代だけでいいよね」

 今更、カラオケを楽しむ雰囲気ではないので、僕は帰ることにした。明日も朝からバイトのシフトが入っている。

 料金は部屋代だけだし、三時間で七百円くらいだろうか。僕は少し多めに、千円札をテーブルに置いた。

「用があるから帰る。お疲れ様」

 普通レールから外れることは慣れている。孤独になるのも慣れている。それでもこの仕打は報われなさ過ぎた。口の中に残った後味の悪さを噛みしめる。


 今日、バーベキュー代とカラオケ代になけなしの六千円も払って得られたものは何だ。地元に帰ってきて、寿司屋のみんなと付き合って、僕の人生は良い方に転がっているのか。他人のつまらない揉め事に巻き込まれて。僕は、まだ何かに期待していたのか? 今更、こんな田舎でバイト生活を続けて何になるんだろうか。浮かぶ瀬もないほど落ちぶれたっていうのに。かと言って、やりたいこともないくせに、今の僕に一体何ができるというのだろうか。

 僕は、扉に手をかける。

「おい! 修二! すまんかった、キツイこと言って!」

 扉のロックを下げたとき、背中越しに哲の声がした。

「哲」

 僕に気を使っている哲の方を見た。そこには仕事しがらみに縛られた、青年がいた。疲れ切って、もう何年も歳をとっている。いつもなら百戦錬磨の哲も、このときは女に振られた男のように、酷く哀れに見えた。

「きっと疲れてるんだよ、大将に迷惑かけるって心配だろうけど休みな。多分、これは悪い夢だよ」

 僕はそれだけ言って、部屋を出た。部屋を出て、走って店から出て、背中から脱げかけたリュックサックを担いだ。


 今日は地元に帰ってきて、一番無駄な金を使った日だった。

馬鹿野郎ダラぶち

 僕はそう呟いて、消えかけた電灯の続く帰り道を歩いた。いつもより少しだけ虚しい道のりだった。

 家に帰ると、LINEの履歴から、哲のアカウントが消えていた。

 次の日、バイトに行くと、哲が休んでいた。どうやら持病のヘルペスが再発したらしい。口の中に水疱が出来て喋るのも難しくなったそうだ。

 次の日も、またその次の日も、哲は店に来なかった。

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