第21話 平日の昼間から入るサウナはいつも以上にととのう
朝の八時半からシャリ炊きをして、夜の八時に帰る一日シフトの日は、中休みに四時間休憩をもらえる。それは、大将がくれた僕だけの特権だった。
僕はその休憩時間を利用して、高岡駅で行われる芋煮イベントに参加したり、町中で行われる獅子舞を見たり、近所の銭湯に行って、仕事で染み付いた魚臭とともに人間関係からくるストレスを洗い流していた。
今日は、僕が通い詰めているスーパー銭湯“ヌルマーの湯”にやってきた。入り口で焚かれているお香の甘い香りがすごく落ち着く。この香りは服に染み付いて、銭湯を出た後もしばらくは幸せな匂いに包まれる。
十枚綴で五千四百円。五回使ってすでに折り返しになった回数券を渡して中に入る。明るい施設の中心には食堂スペースがあり、奥には岩盤浴客専用休憩ルームと大浴場の暖簾がかかっている。
無料のWi-fi環境があるこの銭湯は、ワーキングスペースとしても優秀だった。食堂の一番端のテーブル席で僕はノートパソコンを開いてよく小説を書いている。こういった細かなスキマ時間などには、入浴のついでに作業をするのに大変便利だ。幸い、銭湯の従業員は見逃してくれているので、僕は毎回二時間程度、気配を消していそいそと言葉を紡いでいる。
今日も入浴後に少しだけ作業していこう。平日の昼間から生ビールの泡を口につけて蛸わさをちびちび食べているおじさんを横目で見つつ、僕は男湯の青い暖簾をくぐった。
脱衣室に行くと、浴場前のロッカーがほとんど埋まっていた。濡れた身体でも床を比較的濡らさずバスタオルを手早く回収するためのアクセスがよいこの定位置は、人気の場所だ。幸い、一つだけ空いていたロッカーに、脱いだ衣服とリュックサックを詰め込む。
大浴場に入ると、入り口にあるかけ湯で身体をひとしきり濡らした。ここの銭湯は、屋内に白湯、水風呂、サウナ、電気風呂、寝湯、ジャグジー、座湯、高圧噴射泉と、スタンダードなものが揃っている。しかし、今日は外気温に当たりたい気分だった。僕は迷わず外に出る扉を開けた。
屋外には、大風呂、樽風呂、水深の違う寝湯、炭酸泉、サウナ、座椅子、木のベットがあり、僕はこの中でも露天風呂の炭酸泉が特に好きだ。外に出て迷わず、僕は炭酸泉に向かう。いつもは人でごった返している露天風呂が、運良く空いていた。どうやら今日は桃の
平日の昼間から露天風呂に浸かる贅沢は、まさに至福だった。今僕が、風呂を満喫している間にも、サラリーマンは汗水流して奴隷労働に従事している。その事実がより快感を増幅させた。スーツを着て東京で働いていたときなんか、コンビニで買った弁当をデスクに広げて、午後の営業で使う資料を作成しながら補給していたものだから、味なんて分からなかった。その乾ききった日常の対価として、それなりの給金と雇用保険を獲得していた。家賃も月七万円取られていた事を考えると、何をやっていたんだと思う。
風呂は、命の洗濯だ。仕事で流した涙もしがらみも、そういった心の汚れを一気に流してくれる。温かいお湯に浸かりながら悩みを忘れてゆるく生きることが、今の僕にとっては宝物だ。もしかしたら、時間に追い立てられていた昔と比べると、お金はないけれどこうしてゆっくりと自分だけの時間を使えている今は、案外幸せかもしれない。
半身浴で程よく身体を温めた僕は、湯船を出て屋内へ入った。浴場入口付近に備えられた重たい木の扉を開けると、僕の顔に焼けるような風があたった。僕は、銭湯に来ると必ずサウナと水風呂に入る。
この施設のサウナは非常にスタンダードなサウナだった。十五人から二十人入れる四段分の階段状のスペースに、成人男性の胸部ほどの高さの石炭ストーブと五十インチのテレビがついたものだ。
東京ではサウナ代を別料金で取られたが、富山では入湯料五百五十円を払えば追加料金無しで誰でも入れる。富山はサウナフリーな県だった。
サウナの中は、男たちが押し合いへし合い、異常な熱気に包まれていた。収容人数ギリギリの二十人は座っている。どうやら外の湯船が空いていたのも、サウナに男たちが集まっていたかららしい。平日の昼間だというのに、この人達は仕事がないのだろうかと思いつつ、僕は人が比較的いない最前列に座った。ストーブの前だったので、熱気が直に当たる。僕の一番好きな席だった。
席に座って口元をタオルで覆い、呼吸する。テレビでは、湯布院で芸能人がロケをしている。
暑さに耐えるための現実逃避で僕の頭が回り始める。体温が上がるからだろうか、血の巡りも良くなって、頭の回転も早くなるような気がする。解決策は、風呂か、トイレか布団の中で考える。それが僕のライフハックだった。僕は、頭の中にある問題を絞り出していた。
昨日、ゆあとした会話を大将に話したところ、彼に「そうか」とだけ言われて終わった。結局、この機に乗じて話すはずだったゆあが大将とどういう関係かという疑問は聞けずじまいだった。
そしてもう一つ。仕事中、僕の頭を占めていたのは狭山江美里のことだった。彼女が何故電話をかけてきたのかに始まり、彼女が僕を裏切った理由、僕の落ち度、そもそも今更、彼女と会う理由は何なのか僕はずっと考えていた。
「兄ちゃん、隣いいかい?」
僕の思考を遮るように声をかけられた。サウナは譲り合いが基本である。
「どうぞ」
僕は相手を見ずに空返事をした。隣には、五十代と思われる短髪のおじさんが座った。
「なんか、悩み事?」
「え?」
僕の思考が完全に切れた。そして、知らない人にいきなり核心を突かれて面食らい、声が出なかった。
「いや、うつむいて暗い顔してたからさ。今日は休み?」
僕の様子を察して、おじさんがそんな事を言った。アンタには関係ないでしょ、そういうおじさんはどうなのよと言いたくなったが我慢した。
「まあ、そんなところです。ちょっと、元カノから電話があって、久しぶりに会えないかって言われたんですよね」
おじさんを無視することも出来たが、ついつい、自分の事を話してしまった。サウナに入る人に悪い人はいないというのが僕の持論だった。サウナで人と話すと、自然と相手を気遣う余裕が生まれている。お互い、暑さを我慢している者同士、不思議と連帯感が生まれるのかもしれない。
「へぇ、いいじゃない。久しぶりに会って来なよ」
若い僕が悩みを打ち明けてくれて嬉しいのだろうか。おじさんは親指を立ててテンションを上げている。
「でも、昔、色々あった彼女なので、会うかどうか悩むんですよね」
「そう、ま、昔、喧嘩もしただろうけど、会いたい人には会えるうちに会っといたほうがいいよ。特に惚れた女にはね」
先程からやけにテンションの高いおじさんが急にクールダウンしたかのように、落ち着いた声を出す。そして、遠い目をした。
「そうですか」
なんだか言葉に湿り気がある。この人は、昔大事な人をなくした経験でもあるのだろうか。
「俺も、今朝母ちゃんに怒られたよ。仕事休んで家にいたら出てけって言われちゃって。だからサウナに来たの」
僕がおじさんに同情しようとしたところ、彼は、勝手に自分の話を始めた。どうやら、僕に先輩風を吹かせたかっただけみたいだった。
「そうですか……」
だから僕は、それしか言えなかった。どうやらサウナは、男の悲哀が詰まっている場所らしい。
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