第23話 古巣へ戻る
日曜日、東京の港区にあるホテルのレストランで、僕は
今日の千円ランチは、白身魚の麹焼きだった。僕がナイフを魚に入れると、押し付けた瞬間に、魚が一口大にほろりと崩れる。これはおそらくタラだろう。咀嚼した瞬間になめらかな触感と身の甘さが口の中に広がった。久しぶりに食べたお洒落な味に無言になっていると、江美里が一口頂戴と一欠片奪っていった。
江美里は、パスタを頼んでいた。シソとしめじの和風パスタ。僕が、大学時代によく作ってあげた料理だ。
「懐かしい味がする。何故だろう」
江美里は、それに気づいているのかいないのか、そう呟いた。彼女が食べている姿が美味しそうだったので、僕も、パスタを一巻き貰った。
「えみりん、綺麗になった?」
女医になった江美里は、大学時代の活発さは鳴りをひそめ、まるで同年代とは思えないほど落ち着いていた。誰かからのプレゼントだろうか。首から下げたルビーのペンダントが黒のニットの上に垂れている。
彼女は触覚みたいに垂らした前髪を掻き上げる手を止め、こちらを見る。目があった瞬間、彼女の笑顔が爆発する。
「嬉しい! そんな事言ってくれる人、修子くらいだよ」
どうやら、病院ではよく同僚に目の下のクマを笑われているらしい。
「やっぱ、仕事忙しいの?」
僕はナイフとフォークを置き、口をナプキンで拭う。激務と聞いている割には、彼女の肌は血色が良かった。もしかしたら化粧のせいかもしれないけれど。昨日はいつもより多めに寝たのかもしれない。
「まあね。人の命を預かる仕事だし、そもそも私がやりたい仕事だし。忙しくなるのは当然じゃないかな」
二人とも食べ終わったので、ごちそうさまと手を合わせる。それと同時に、四十代くらいの男性ウエイターが食後のコーヒーを持ってきた。
「修子も、キマってるね。優秀そうな営業マンって感じ」
僕は、前職で着ていたビジネスカジュアルのジャケットとカラーシャツを富山から持ってきていた。ITベンチャーと言うだけあり、営業でも社内でももクロのライブTシャツにクロックスをキメているおじさんもいたが、僕は取引先のカタさに合わせてスーツとジャケットを変えていた。
「まあね。だらしないのは肌に合わないし、ちゃんと誠実さが伝わる振る舞いを心がけてるよ」
僕が、ITベンチャーを辞めたことを、江美里に知られるわけにはいかなかった。バレると、大変面倒くさいことになる。
「流石。修子、あの頃から変わってないね」
「成長してないってこと?」
江美里は僕の言葉に、少し考えるふりをした。
「ううん、ちゃんと社会人にはなってると思うよ。変わってないのは修子らしさ。会った頃と変わらない童貞臭さ」
僕は、コーヒーを気管に入れてしまい、思い切りむせた。
「え、ちゃんと新しい彼女いるんでしょ? まさか今まで付き合った彼女、私だけってことはないよね? え、図星? 怒った?」
そう、僕は知っている。江美里は、昔からこうだった。無駄に察しがよく、痛いところを容赦なく突いてくる。それが、彼女なりのおせっかいと愛情の裏返しだということも。
「いや、怒ってない。完璧な君に怒ることなんて出来ないよ。むしろ僕のほうが怒られて……それに、頼りっぱなしだった」
「私、完璧じゃないんだけどな~」
謙遜のように見えて、彼女は全く謙遜していない。彼女自身、夢を叶えて研修医になった今でも、自分はまだまだ成長しなければいけないと思っている。どこまでも自分を律し続けるその姿勢は、向上心が強すぎる完璧主義由来だろう。僕はずっとそう思っていた。
「なんなら、他の男とご飯食べに行ってきたときとか普通に送り出したじゃん」
「だって、君にも大切にしたい友達くらいいると思って」
「引き止めなよ。彼女でしょ」
僕は、彼女であっても他人だから、自分のものとして束縛するのはなんか違うと思っていた。嫉妬して、他人から奪うような輩を見て、鼻白む思いだった。事実、僕自信も他人に僕の人生をどうこう言われるのは癪だ。
「ごめんね。ダメダメで」
「私は、修子がどれだけダメダメでも、良かったのに」
「全部が全部駄目だったような」
彼女と過ごした三年間。思い出すだけでも、枕に顔を埋めて叫びたくなる思い出が山ほどある。
彼女は思い悩む僕を見てなにか察したのだろう。もしかしたら、昔のことを思い出したのかもしれない。彼女の目が細くなり、広角が上がる。嫌な予感がした。
「大天使江美里エル、あなた様の手の甲に誓って口づけ」
思い出したくない記憶トップスリーに入る言葉を彼女は口にした。体中の血液が一瞬で全身を巡り、意識が飛びそうになった。
「わ゛ーっ! わ゛ーっ! わ゛ーっ!」
僕は、喉が割れんばかりに叫んだ。
「……これじゃあ、彼女じゃなくて教祖じゃん。って、ちょっと修子、静かに。こんなおしゃれな店で失礼でしょ?」
「黒歴史……」
僕の絶叫に、何事かとウエイターが壁から顔をのぞかせる。知り合いに合わないようにランチの時間を少し遅らせていたおかげで、僕たち以外の客がいないのが救いだった。
「なんでこんなセリフ言ってくれたの?」
「大切なものに対する礼儀がだね……」
「礼儀かどうかはともかく、度を過ぎるとよくないんだからね。まあ、いい思い出だけれども」
「はい」
やってしまった五年前の僕を殴りに行きたくなった。三年の夏、サークルのみんなで青森に行った二泊三日のキャンプ。それは、嫌味なほど星のきれいな夜だった。酒を飲んで二人きりになったとき、僕は彼女の手の甲に傅いてキスをした。もしかしたら、男は女よりもロマンチックなところがあるのかもしれない。当時の僕は、浮かれていたし、その行為が愛の全てだと信じて疑わなかった。
「後はねぇ……」
これに比べれば女子高生ヌレヌレなんか屁でもなかった。寿司屋のみんなにバレないように、この話題だけは厳重に黙秘しなければ。
……江美里の方を見ると、どうやらまだ言うことがあるらしい。僕の目をしっかりと見据えている。
「ねえ修子。私はあなたのことを思って言うけど、もし新しい彼女が出来ても、尻に敷いてください。なんていうお願いをしちゃ駄目だよ。毅然とした態度で男らしくいなさい。ギャップ受けをねらうのもいいけど、やりすぎないこと。私だったから良かったけど、女の子、泣いちゃうからね?」
「はい」
掘れば掘るほど思い出が出てくる。そして何より、一番厄介なことはそれが事実だということだ。どうやら江美里は僕を死体蹴りしたいらしい。久しぶりに会ったのだから、少しくらい手心を加えてくれないだろうか。
「小さいときに心臓を患っていたとは思えない。手術して、心臓に植毛でもしたの?」
あまりにも無慈悲な黒歴史絨毯爆撃に思っていたことを口にしてしまった。瞬時に思い返される記憶。もし、江美里と喧嘩をしても、言い返してはいけない。なぜなら、言い返された時の彼女ほど、感情が苛烈になる人間もそうそういないのだから。
「まだ言おうか、修子のあんなことやこんな事。初めてのセックスのとき――」
「ごめんなさい」
「よろしい」
どうやら、僕は一生江美里にかなわないみたいだ。
「この、レストラン、実は僕のお気に入りなんだ」
話題を変えるために、僕はそう言った。
レストランが、ホテルのエントランスの一角に設置されている関係上、人通りもちらほらある。今こうして話しているうちにも、窓ガラス越しに植林されて自然豊かな遊歩道を歩くスーツ姿のサラリーマンを見るたびにドキッとする。前職の同僚じゃないだろうなと思いながら、僕は、冷めたコーヒーをすすった。流石に、日曜日だから彼らがここに食べに来ることはめったにないだろうけれども。
「へぇ、じゃあ良く来てるんだ。確かにお洒落でいいところだね」
「うん、実はこのホテルの隣、前の職場だからね」
「前の職場?」
「あ」
僕は口を滑らせた。途端に、江美里の目が好奇心色に染まる。
これは、まずいことになった。
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