第15話 お兄さんとお姉さん

 人生、楽しいことの後にはわりとしんどいことが来るもので。

 今日も、僕は朝から一緒のシフトに入った姉さんにしごかれていた。

 バーベキューが翌日に迫った火曜日。朝のシフトは、僕とゆあ、そして問題の姉さんが入っていた。ゆあは、学校をサボってバイトに来たらしい。平日の朝から彼女の声が聞こえたので、空いた口が塞がらなかった。

 開店準備を終えると、ちょうどお客さんが入ってきた。作業着を着たお一人様と、老年の夫婦。後は、いつもいつも朝から飲みに来る常連のおじさん。店は珍しく、客もまばらで裏方の仕事が少ない。板場では、大将が黙々と寿司を握り、裏では兄さんと哲が午後の営業のために、フクラギとアジを捌いていた。


 僕のことを親の仇とでも思っているのだろうか。それとも、昨夜、旦那と喧嘩して機嫌でも悪いのだろうか。今日の姉さんは事ある毎に、僕の仕事にケチをつけてきた。三十代後半の巨女である鍋のような形状の彼女は、体格に見合わないほどに細かく、僕の一挙一足に口を出してくる。

 彼女はメッシュの入った茶髪から覗く細い瞳を更に細くし、僕の心を蹂躙するかのように無遠慮に睥睨へいげいする。

 職場には、どうしたって憎まれ役というのが発生する。店の決まりをこちらに押し付け、どうでもいいことを細かく強要してくる人種だ。そして回転寿司富山湾うちのみせでは、大将の息子と娘。お兄さんとお姉さんが憎まれ役だった。


 板場から注文が入ったので、ゆあがいくらとネギトロを作り、前に流した。軍艦を作る作業台には、海苔のカスと、落ちたネギトロが、半円の軌跡を描いている。どうやらゆあは作業台の汚れに気づかないらしい。軍艦を作り終えると、自分の役目を終えたとでも言うように、満足して軍艦機から離れていった。衛生を考え、常日頃から清潔に保っておくのが飲食業の正しい姿勢である。僕は、作業台の汚れを布巾で拭いて、綺麗に置いて畳む。すると、すかさず横から姉さんが布巾をつまみ上げて、机の上に投げ捨ててみせる。

「修二、布巾の向きが違う」

 姑かよ。箪笥たんすの上を指でなぞり、ふうと息をかけて埃を飛ばす姑が僕の頭によぎった。

「分かりました。ありがとうございます」

 僕は心で舌打ちし、布巾についた黒丸を外側に直して畳む。どうですかと僕が顔を向けたところで、姉さんは興味がなさそうに後ろの作業台でスマホをいじっているゆあの元に歩いていった。

 ゆあは、仕事もせず、黙って横目で哲を観察していたが、姉さんが来ると急に水を得た魚のように喋りだした。

「お姉ちゃん、この服可愛くない?」

 ゆあが、スマホを見せている。どうやら液晶越しのウインドウショッピングをしていたらしい。手すきの姉さんも、目尻を下げて、まるで女子高生になったようにはしゃいでいる。姉さん、頼むから、ゆあのこと少しは窘めてくださいよ。僕がそう思った瞬間。

「私はこっちのほうが好みだな」

 おい。

 姉さんが、ゆあの会話に参加しだした。途端に会話が弾みだす彼女たちを横目に、僕は天を仰いだ。

 なるほど。僕は諦めて、ネタケースの前に積まれていたおぼんを拭いた。そして、前に持っていこうとした。

 すると、いつの間に移動していたのか、姉さんが僕の先回りをして醤油差しを押し付けてきた。

「おぼんを前に戻しにいくときは醤油も一緒に持っていく。二度手間やろ」

 忍者かよ。写輪眼のカカシ先生でもここまで細かくないでしょ。

「分かりました。ありがとうございます」

 ありがとうは魔法の言葉だ。これは、前職の上司に教えてもらった教訓で、僕を何度も救ってくれたお守りになっている。人に、何か指示をされたらありがとうございますという。これで場は丸く収まるし、反発したときと比べて結果的には損をしないのだ。


 僕が醤油差しを受け取るのと同時に、姉さんはまたもや興味を削がれたかのようにゆあの方へと戻っていく。

「お姉ちゃん、学校マジダルい」

 学校をサボってまで寿司屋にいるゆあの言葉には、確かな説得力があった。

「まあ、ちゃんとバイトしてるんだしいいんじゃない?」

 してないだろ。ゆあ、仕事しろ。姉さんの僕への態度をアジシオだとすると、ゆあへの対応は砂糖だ。もしかして二人でケーキを作ってるんじゃないかと思う程甘い。

 そして、彼女たちが仕事をしないからと言って、仕事がないわけではない。

 流しには、溜まった食器が山のように積まれている。僕は言いようもないいらだちを覚えた。嫌気が差し、僕が無言で彼女たちを見つめると、姉さんは眉尻を挙げて僕を目で脅してくる。まるで、仕事が残っているのに何休んでんだとでも言っているかのようだ。なるほど。僕は渋々食器を洗った。

 スポンジに洗剤を塗りたくりながら、ひょっとして僕の苦労は報われないのではないかと思った。そう思うと、お金をかけてゆあに美味しいご飯を食べさせ、親身になって関わってきたこちらが馬鹿みたいだった。現に、僕の前では多少なりとも仕事をするゆあも、お姉さんの前ではサボり魔と化している。

 気がつくと、僕は爪が食い込むほど拳を握っていた。

 まあ、いい。落ち着け、冷静になれ。僕は、深呼吸をする。

 この店の主である大将及びその家族は、いわば絶対権力なので、姉さんに歯向かうことは出来ない。そのため、外様バイトの僕から言えることは何もなかった。

 僕は、会話に興じる姉さんたちから目をそらし、目の前のランチ桶に目を落とす。そして、同じ給料もらっているくせして仕事量明らかに違うじゃないですかという言葉を胸にそっと押し込め、食洗機を起動した。


 幸い、シャリ炊きのことはお姉さんの管轄外らしい。僕には、誰にも指示されず、無心で作業ができる時間がいくつかあった。そのため、僅かではあるが自由にのびのびと仕事できる分、まだましだった。しかし、正社員の哲はそうはいかない。僕は、哲を横目で見る。

「哲、このサバ、午前中までに片付けといてくれ」

 哲の目の前に、兄さんが金属のトレイ一杯のサバを置いた。哲は、ボウルからはみ出すくらいに盛られたバイ貝を剥いている最中だった。

 姉さんが横に大きいとすると、兄さんは縦にデカかった。大将だけではなく、この店のスタッフ全員と比べても、明らかに縮尺が違う。まるで、ワンピースの世界から出てきたのではないかと思わせるような巨人だった。

「分かりました、兄さん。やっときます」

「これ、終わったらサーモンもよろしくな。早く手動かさんと、追いつかなくなるぞ」

「はい」

 兄さんが哲に仕込みを押し付けると、丁度家族連れの団体客が二組入ってきた。大将が、助けを呼んでいる。それを聞いて、兄さんが返事をした。

「俺、中行ってくるわ。腹減っとるから言うて、食べたら駄目ながやぞ」

 そしてお兄さんは、笑いながら哲をいじって、板場に戻っていった。

「哲、ザスカジキ取って!」

「分かりました!」

 兄さんが板場に入るのと同時に、大将が、中から切れたネタを持ってくるよう命令した。哲は、仕込みの手を止めて、そちらにも気を配らないといけなかった。


 姉さんが休憩室で煙草を。ゆあが、客がいるのにトイレ休憩に入ったおかげで、裏方は、僕と哲の二人だけになった。

「本当に、人使い荒いわ、この店」

 哲が、板場の大将と兄さんに聞かれないようにぼやいている。

「それに、アイツら店長辞めて人が減ってから俺の仕事増えてんのに、給料上げてくれんがいぜ」

 僕は、ウンウンと、頷くしか出来なかった。

 大将は、バイトにはそこそこ優しいが、哲には厳しくしている。そのせいか、哲は、お兄さんとお姉さん、そして大将を心底憎んでいた。

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