第21話 借り 《sideダイス》

 ダイスは陰気臭い死人の寝床へと足を運ぶ。出来ればここには来たくないし、来るとしたら一日のうちに一度だけにしたい。それも五分以内で。身体に染み付く臭いがなんともたまらん。だが、現実問題そんなことは言ってられない。


 十三年前にこの遺体安置所で起きた事で、当時の検視官が辞めている。しかも、“ジェイソン・ホープ”の検視直後に。アマンダ・ホープが言うには、その脇には“彼岸花”が供えてあった。つついてみる材料としては充分だろう。


 背後で開く、錆びた鉄扉の音にジョン・スミスは振り返った。手入れしていた骨切りノコギリを数ある道具と共に横たえる。


「よお、ダイス。謹慎処分らしいが、どうだ? 羽根は伸ばせてるのか?」


「……ジョン、そんな事より、前任の“マイケル・マコーマック”がどこにいるか調べられるか?」


 ジョンが親のような顔でジロジロと見てくる。ジョンの事は嫌いじゃないが、こういう年上特有の、まるで近所の子供を諭すようなモードに入っている時だけは嫌いになる。


「……お前、まさかひとりで犯人を追ってるわけじゃないだろうな? 謹慎はどうした?」


「ジョン、俺には休みは必要ないんだ。タフだからな」


「いいや、あるね。大アリだ。自分の顔見てないのか? 脂汗が出てる。顔色が悪い。過労のサインだ。寝てないんじゃないのか?」


 ダイスは答える代わりに検視台の上に片尻を乗せて、その間に手を挟んでぶらつかせた。


 ジョンがふんと鼻息を鳴らす。手身近にあったタオルを濡らし、電子レンジに入れた。しばらく電磁波のブーンという音だけが沈黙の中にあり、止まると中から湯気の上がるタオルを放って寄越してきたので、それで顔を拭いた。


 温かなタオルが、顔に浮かぶ脂汗を拭う。温かな安らぎをひと時もたらす。一瞬寝たような気がする。しばしそのまま浸して、やがて顔を上げると言った。


「眠れないさ……これが終わるまではな」


「そうかい。ウェンディの事も考えてるのか? ん? 考えてなかっただろう? そんなんで犯人が捕まえられるもんかよ。相手はかの有名な“亡霊”なんだぞ」


「ウェンディ……、そうだな。分かったよ、ジョン。負けたよ。“マイケル・マコーマック”の件を調べたら、ウェンディと遊園地にでも行くさ。マディソン郡にサーカスも来てる。そこに行くよ。約束する」


「本当か?」


「ああ、どっちみち、まだまだ謹慎処分という名の休暇はたっぷりあるんだ」


 未だに疑うような表情で眼を覗き込み、腹のうちを見透かそうとするのが伺える。じつに嫌な奴に見える。取り調べされる側はこんな気分なのかとふと思う。


「ロブのモヤシ野郎はどうした? 相棒は解消か?」


「ヤツは旅行にでもと誘ってくれた。十中八九、俺を見張るためだろう。見え見えだがね。局長の差し金か、もしくは本当の善意からなのかは分からないが」


「そうかい……まあ、ヤツなりに気をつかったんだろうと俺は思うけどな」


 ジョンがそう言うと、奥の事務所へと歩きながら、ぶっきらぼうに手を招いた。ダイスがついて行くと、資料棚の一番下にある段ボール箱を漁り、資料ファイルをパラパラとめくって確かめた。


 事務所の電話が鳴り、ジョンはダイスの手にファイルを放る。一瞥するだけで何も言わなかった。けたたましい音で着信を報せる受話器をジョンは引っ掴んだ。


 ジョンの使っているデスクに並ぶ書類や、飲みかけのコーヒーの山を避け、隅っこにスペースを設けて資料を開いた。


 しばらく空気にすら触れていなさそうな、薄汚れてほこり臭いファイルをパラパラとめくる。そこには黒人で痩せ型、眼鏡をかけた男が写っていて、ファイルの隅には住所が書かれている。彼がここでの仕事を辞めるまでに解剖を担当した記録が簡潔にまとめられている。自分のメモを取り出して住所を書き留める。


 ジョンがいつの間にか事務所の入口に寄りかかっているのに気がつく。


「ロブの野郎は、いち早く現場復帰させられてたそうだ。今、電車事故で遺体と一緒にここに来るらしい」


 ダイスは書き留める手を止め、力任せに住所の下に線を引いた。歯噛みしながらメモをポケットに押し込んで身を翻すと出口へと向かった。


 背中に声がかかる。


「なあ、おい、無茶だけはするなよ。まだ“借り”を返してもらってないからな。死なれちゃ困る」


「……“借り”だって?」


 ダイスは出口の手すりに手をかけて振り返り、頭を巡らせた。寝不足のせいか処理能力が落ちてきていると実感する。


「……そんなものあったか?」


「いいや、これから作るのさ。ウェンディは俺が迎えに行って一時的に預かってやるよ。アリスも喜ぶし、メアリも張り切って料理するだろう。そしたら俺もそこにありつけられるからな」


 ジョンのデスクにある家族写真をちらりと見やる。そこには娘のアリスと妻のメアリの肩を抱くジョンが満面の笑顔で写っている。次は腕時計を見ながら頭を抱えた。


「もうこんな時間なのか……くそっ! いや、悪い。ウェンディには連絡しておく。この“借り”は、今度ビールで返すよ」


「ああ、大ジョッキ三杯と、次のパーティーには必ず来ること。それで手を打とう。待ってるぞ。だから、無茶せず必ず帰って来るんだ。帰るべき場所にな」


 大ジョッキとパーティーの部分で顔を顰めた。どうやら“お節介な世話焼き”からは逃れられないらしい。たぶん、パーティーというのはレイチェルとの事だろう。レイチェルがいい子なのは分かっている。くっつけようとしているのはうざったいが、ウェンディに対しての気持ちは本当にありがたく感じている。同時にウェンディに悪く思えた。


 遺体安置所の重苦しく冷たい二重扉を開け、五段ほどある階段を降りると、正面に停めてあるクラウン・ヴィクトリアに乗り込んだ。


 ジャケットの内ポケットからフラスクを取り出す。活力の源であるウイスキーを一口飲み込むと、入れ物をしばらく見つめ、ウインドウガラスを引き下ろし、中身を外の排水溝へと垂れ流した。


 空っぽになったフラスクをグローブボックスに入れ、妻のエブリンが使っていたフラスクの隣に並べた。


 妻がアルコール依存症になった時、泣き叫ぶエブリンから酒を取り上げ、断酒会を勧めていれば、何かが変わっていただろうか? 今もウェンディと一緒に買い物に行き、酒を求めて喘ぎながらでも楽しく笑いあっていたかもしれないのだ。エブリンの問題から目を背けてしまった為に、あの交通事故は起きたのでは? その二日後に相棒のウェイドも死んだ。疲れていた。その頃、本当に疲れていたんだ。今でもあの日々の事を考えない日はない。それが抑圧となって骸骨になったエブリンが幻となって現れることも分かっている。


 ダイスは携帯電話を取り出し、ウェンディにかけるとワンコール目で通話状態になった。つまり、のだ。携帯電話の前で腕を組み、怒りを称えて。


「ウ、ウェンディ。今日はパパはお仕事で遅くなりそうなんだ」


 いつもよりトーンの低い、機嫌の悪そうな声が返ってくる。


「それでな、ジョンおじさんが代わりに迎えに来てくれるそうだ。週末はそこに泊まるといい。アリスが楽しみにしてる。メアリおばさんも喜んでいるみたいなんだ」


「そう、分かった。……ねえ、パパ? もし……もし、ママの事で悩んでるなら、私が話しを聞くからね」


 ダイスは面食らったように顔を覆った。日頃、悟られまいと作る笑顔もジョンにはすぐに見破られていた。今度は娘のウェンディにまで見透かされていたのだと思うと、顔を覆うほかなかった。


「ウェンディ、パパは……いや、帰ったら、パパが抱えてる問題を必ず話すよ」


「絶対だよ! パパ、愛してる」


「ああ、パパも愛してる」


 ダイスは流れる涙を拭い、グローブボックスのフラスクを取り出した。先程、空にしたのとは違い、こちらにはまだたっぷりと入っている。こちらを捨てる気にはならない。この事件が終わったらエブリンの墓に捧げてやろうと思う。裏返したそこには、写真が貼り付けてある。生前のエブリンと、まだ幼い頃のウェンディが無邪気に笑っている。その傍でダイスは間抜けにも口を尖らせた瞬間で写っている。この頃のウェンディはまだ四歳で、前歯の乳歯が抜けた為にぽっかり穴が開いていて、あどけなく笑っている。エブリンとダイスはこの写真が気に入っていて、自分のは財布に挟んである。


 ダイスは、グローブボックスに妻エブリンの持っていたフラスクを大事そうに戻すと、車のエンジンをかけた。

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