疑念

第10話 木の上の恋人たち 《sideダイス》

「ダイスさん! ダイスさん!」


 微睡む悪夢の中で、なんとか安らぎを得ようと模索している中、また光の粒が話しかけてきた。


 目を覚ましたダイスの目の前に映ったのは、捜査資料の一部で、過去に惨殺された遺体の解剖記録が顔に当たっていたのだと理解した。悪夢を見る原因になっているのは、この捜査資料で顔を覆う行為のせいなのかもしれない。


 椅子に腰掛けて眠っていたせいか身体が固まったように重い。リストに起こした花屋の数件を回った後、仮眠をとっていた所を起こされ、酷く機嫌が悪く感じた。余程の事がない限り、眠りの邪魔をせぬよう言いつけておかなければと誓う。


「ぅうっ腰いてぇ……はぁっ、まったく、今度はなんだ?」


 ダイスは腕を擦り、軽く伸びをした。古びてしまった腕時計を見ると十八時を指している。


 喋りかけようとするロブ・ハーディングを飼い犬にするように人差し指一本で制した。『待て』だ。慌てて家に電話をかける。呼び出し音と共に上昇していく心拍数がうるさいぐらいだ。


 やがて誰かが呼び出しに応答した。


「はい! こちらウェンディ!」


「ウェンディ! やあ、ウェンディ! 良かった、迎えはどうした? 電話に出るって事は家にいるんだよな?」


「パパ? どうしたの? 今日は送迎バスが迎えに来る日よ? ちゃんと乗って帰ってきたわ」


「そうか……うん、そうか。良かった。いや、ちょっと急にウェンディの声が聴きたくなったのさ」


 ウェンディは笑ってくれた。それだけで幸せだと感じる。


「変なパパ。ねね、今日は隣のマデリーヌおばさんがパパの大好きなポークチョップ作ってくれたのよ! 早く帰って来て? 一緒に食べよう?」


「パパは……いや、これから捜査なんだ。すまないが先に食べて寝ててくれるか?」


「えーっ? また? パパ帰って来ないの? 今日は帰って来るって昨日言ったわ」


「うん……ごめんな、ウェンディ。戸締まりはきちんとするようにな」


「……はいパパ。愛してるわ」


「パパも愛してるよ」


 ぷつりと受話器が通信の終わりを告げた。


 ダイスは携帯電話を捜査ファイルだらけのテーブルの上に置いた。そのどれもが“血染め花のマリー”絡みだ。


 頭を抱えている向かい側に座り、ロブが捜査資料片手に、その一部始終を見て言った。


「お子さん……ですか?」


「……ああ、今日も約束破りをした出来の悪い父親さ」


 ダイスは未解決ファイル保管室にある、安物で旨みなどありもしないコーヒーにありつきたいとすら思った。見つめる先、壁一面に貼り付けてあるのは行方不明者の紙の束で、そのどれもが“血染め花のマリー”の“被害者と思われる者たち”だ。


 遺体のほんの一部が見つかっただけの者たち。生きているのか死んでいるのかさえ分からない。だが、“致死量以上”の血溜まりからは生死は明らか。故に“行方不明”、“身元不明の遺体の一部”として処理されてきている。それと、放火も度々起きていて、このジャクソン・ヴィルの犯罪発生率は十三年前からずっと右肩上がりだ。警察組織が“無能”呼ばわりされるわけだとも思う。


 ロブが項垂れた背中を見つめながら歩いてくるのを感じる。テーブルに差し出されたまずいコーヒーを手に持ち、待望の一口を啜り、回り始めるであろう脳に期待して言った。


「――なんだ?」


「え……?」


「さっきだ。何を言いかけていた?」


「ええ、それじゃ言います。『ブラッドリー公園』で事件が起きたようですよ」


 またここに行方不明者リストが増え、証拠の一つも残されていないのだろうかと、ダイスは額を手のひらで擦った。そしてため息ひとつ。


「そうか……。知らないみたいだから言うが、ここは警官のたまり場。事件が起きて動くのが当たり前なんだ。分かったか? アカデミーで習わなかったのか? 上の階にいる刑事連中が動くさ。俺たちじゃなくな……」


「ダメですよ、ダイスさん。あなたの事はだんだん分かってきました。なので、もう向かうと伝えてあります。それに現場には血溜まりが残されているんです。きっと“血染め花のマリー”絡み、つまりは“亡霊”の仕業ですよ。我々の仕事なんです。行きましょう!」


 不自然に生き生きと、どこか面白がっている様子のロブに苛立ちながらも、ダイスはうまくもないコーヒーを飲み干した。



 ***



 星降る暗闇の中、『ブラッドリー公園』の駐車場へと現着。しばらく現場まで歩くと、問題の周辺を封鎖している警官が野次馬を落ち着くようにと諭している。ついでに苛立った様子で離れてくれとも頼んでいる。その脇を抜けていく。手をかざして規制線を張る警官に挨拶を交わして名乗った。


「ダイス・カルホーン刑事だ。この事件の担当なんだ。よろしく頼むよ」


 規制線の中からひとりメモを持った警官が歩み寄って来ると、ダイスは早くも胸元のウイスキーで喉を潤したいという思いが強くなってくる。それか肺を潤してくれる煙草。


「お待ちしていました。目撃者はふたり、この公園でランニングしていた女性です。今はあちらに」


 警官が指さす先で、救急車の後部に腰掛けている女性がひとり見える。服の大きな胸元が破れているせいか、そっちに目がいってしまう。女性警官に渡された毛布で大事な所は辛うじて隠れている。浅黒い肌の女性警官が応対しているようだ。


 目撃者がいるのなら“血染め花のマリー”では無いのではないか、といぶかるようにダイスは唸った。


 警官の言葉を待ったが、続きは聴こえて来ない。ダイスはたまらず言った。


「……もうひとりってのは?」


「逃げ出したところを警官に取り押さえられました。今は護送中です」


 これまた変わった奴だと怪訝そうな顔を警官に向けた。彼はダイスを先へと促して話しを続けた。気持ちと共に重くなってくる足を右、左と踏み出す。


「まずはあちらへ、説明は後の方が良いでしょう」


「……分かった。先に現場を見せてくれ」


 ダイスは芝生の中に踏み入っていった。やがて腰の高さに来る黄色い封鎖線を跨いで避ける。


 眼下に広がる芝生の中に真っ赤に染まった異質な空間があり、その脇で鑑識班の大きな体躯が見える。ジョン・スミスがその場で腕を組んで眺めているようだ。


 ダイスは九年来の友人でもある、見間違えようのないジョンの背中に声をかけた。


「やぁジョン、あんたの顔は見飽きたよ」


「俺もだ。整形は後で考えるとして、現状はさっき聞いたがどうなってる? 犯人が捕まったと聞いたか?」


「ああ、聞いた。なにが起きてる?」


「どうもこうもないさ。ダイス。なあ、そこに居る目撃者の女は見たか? デカパイらしいぞ」


「見た。もう少し小さい胸のほうがいいね。それよりなんだ? 今回は生存者がいるのか? “亡霊”絡みの事件で初めての生存者じゃないのか? もう解決しちまったってのか?」


 ダイスは足元の血溜まりから視線を移し、また現場を汚されては敵わんとロブを睨めつけた。ロブは青い顔でボンヤリと鳥でも眺めるように空を見上げていた。現場はすぐ“下”にあるというのにだ。腹は立つがあの様子なら汚されずに済むかもしれない。


 ジョンは煙草吸いたさに唇をなでなで弄っている。現場保存をするという警察の基本を守るために我慢している事が見て取れる。ジョンは言った。


「いいや、ダイス。生存者はどこにもいないよ」


「はあ? なんだと?」


 ダイスは先程からジョンとの会話に違和感を覚えていた。なにか大事な事を言わずに、間抜けな魚のように泳がされているような気分になった。


「まだ……気付かないのか? ダイス」


「ちっ、なんだよ? 悪いが、ハッキリと言ってくれ、散々な日でイラついてきているんだ」


「“上”だよ」


 まだイラつかせる遊びをするつもりなのかとジョンを睨み上げた。


「なに?」


「“上”だ。ダイス、“上”を見ろ」


 ダイスの視界の端で、何かが真下に向かって通り過ぎた。


 ――雨? かとも思ったが違う。見上げた先には、大きな木から伸びる枝葉が生い茂っている。さらにその上には問題の“それ”があった。


「な、なんだこれは?」


 ダイスは思わず身構えた。ロブ・ハーディングが“空”でもなく、“鳥”でもない、“これ”を見ていた事にようやく気がついた。


 まさに今それと


 そこには、青と白のランニングシャツを着た男と女が雑巾でも絞るかのように前後がめちゃくちゃに絡まり合い、木の太い枝の上にも絡みついている。顔面の穴という穴から血を滴らせ、目玉には血が溜まり充血していて、熟れたトマトのように真っ赤だ。先程ダイスはこの遺体たちと視線を合わせていた。


 まず、遺体は背骨が確実に折れているであろう事が見て取れる。力づくでねじられでもしたのか、糞尿が腸ごと尻や口から飛び出している。流れ落ちる血がなくなるまでこの場に血溜まりを作り続けることだろう。


 ダイスは面食らってジョンを見た。


「……うっ……くそっ、写真は? 写真は撮り終えたか?」


「ああ、早く降ろしてやりたいがハシゴ車がまだだ。俺たちだけじゃ地面に降っことしちまう。そしたら、裂傷や打撲跡を追加しちまうからな。だから、何もせず、待ってる」


「そうか」


「あの目撃者の証言なんだが、もし、全部信じるならば、簡潔に言えば不運な事故だろうな」


 ジョンが目配せをすると、ここへと案内してきた警官が補足するかのように身振り手振りで説明を始めた。なるほどと思う。この変なやつだと思っていた、この警官が内容を言わなかったのはジョンの仕業だったのだと分かる。


 ダイスは警官の言葉を聞き、当時の現場をイメージし始めた。


 ――女はこの公園をランニングしていた。花の咲き乱れるこの時期は特にランニング人口が多い。その後ろを影がひとつ。男はバタフライナイフを服の中に隠し持っていて、自分好みの赤毛の女に狙いをつけた。後ろからナイフを突きつけ木陰に引っ張りこんだ。この場所で前回のレイプと同じ興奮を味わおうと、顔に下卑た笑みを浮かべていた。騒ぐと刺すぞと脅しを添えて。


 がたがたと震える女の服を切り刻み始めた男は、ある異変に気付いた。


 女が恐怖の対象である自分を見ていない。どこか頭上の何か“もっと恐ろしいもの”を見ている事に気がついた男は、その視線の先にあるものを見た。男になぶられることより恐ろしいそれは、だ。


 ダイスはイメージと一緒に大きく息を吐きだす。


 その場から離れたジョンが、我慢出来なくなったストレスから煙草に火をつける。規律という鎖を破りながら後を引き取るように言った。


「そして、ナイフを持ったまま下半身丸出しで走って逃げているマヌケを捕まえましたとさ。めでたしめでたしって訳だ。今、その証拠のバタフライナイフにルミノール反応があるか見てるが、……どうせ、ここの血とは一致しないだろうな。どう見ても死因はバタフライナイフじゃない」


 ジョンは煙草の煙をくゆらせた。それはこの血と糞尿にまみれた世界を押し包むように戯れて、死者を追悼し、天へと送り届けるように散っていった。

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