第9話 怪物 《sideミシェル》

 ミシェルはアビーとの買い物が長引いていた。下着コーナーで赤を取るか、青を取るかでアビーが悩み抜いた末の結果だった。赤はたしかにセクシーで彼女の栗色の髪によく似合っている。青は彼女のデートサービス相手が青い瞳が好きだからと言う理由でカラーコンタクトをつけているし、たしかに脱いだ時にはそれが一層映えるだろう。こちらとしては赤がいいと言っているが、彼女は青だと主張する。それならば好きな方を選ぶといいと言っているのに、何度も胸元に当てて確認し、終いにはどちらがいいかとまた聞いてくる。優柔不断というやつなのだろう。彼女にはこういうことだけ決断力がないのだろうが、こちらにもそれほどある訳でもない。


 結局は夕方になり、ハッピーな気分も下がっていく。くたくたになりながら帰り着いた後、ランニングに出かける準備をした。いつもより遅い時間だが、ペースを上げて走れば、太陽が完全に沈むまでにまだ間に合うと思っていた。だが実際は良くない天気も手伝って、すでに雲が太陽のほとんどを隠してしまっている。高い木もある『ブラッドリー公園』内は、暗闇に包まれてしまっていた。少し先が見える程度だが、幸い、抜けるまでは一本道だ。腕を大きく振り、早いペースで公園の中を走った。


 不意に、ミシェルは視線を感じて立ち止まる。誰かが自分を見ている感覚。辺りの暗闇が先ほどまでとは打って変わったように感じて、途端に怖くなった。息詰まるような寒気に身を震わせ、次第に激しくなっていく呼吸に胸を押さえた。


 今までにないほどの強烈な視線。まるでうなじに、氷のような冷たく、それでいて鉄すら溶かすような熱い焼きごてを当てられている様だった。


 すぐ背後に誰かがいて、その吐息が首筋にかかっているように感じる。振り返れない。怖い。再び生暖かい吐息が首筋に触れる。熱い舌先がゆっくりとうなじを舐め、耳へと向かう。かと思えば、冷たいなにかが胸、太ももへと移動する。ミシェルは手脚が麻痺したように硬直し、悲鳴すらあげることが出来ない。ぎゅっと目を瞑る事でしか抗えない。自らの身体が恐怖に塗り固められた蝋人形になってしまったみたいだ。


 ミシェルは膝の力が抜け、その場で泣き崩れた。終わったと思っていたのだ。毎日寝る前に、欠かさず飲んでいる薬のおかげで治ったんだと思っていた。


 過去にもあったように、悪寒がするほどの嫌な視線。それが舐めまわすようにねっとりと自分を見つめてくるのだ。ほんの数ミリ先に誰かが居るような感覚。治ってなどいなかった。また苦しめられるという事なのだ。永遠に。


 あまりの恐怖に意識が遠のいていく。



 ***



 次に目を覚ました時、ミシェルはひとりで地面に横たわっていた。公園内を見渡してみると、辺りはすっかり深く暗い森の中のようになっていて、取り戻した意識と共に恐怖が蘇る。


 周辺の四角くカットされた庭木が何ヶ所もなぎ倒され、根元からぽっきりと折れてしまっている。


 花々も何者かに踏みしだかれ、地面に押しつぶされたみたいに散ってしまっている。


 なにか大きな、恐ろしいものが寸前まで迫り、突如として方向を変えたように思えた。


 いったいなにがあったのかは分からないが、なにか良くないことが起きたのは確かだった。


 よく見えない数メートル先の木のそばで男女の怯えきった悲鳴が聴こえる。


 辺りを包むひんやりとした空気が、今では違和感の塊のようにミシェルの身体を撫で回しながら過ぎ去って行く。その風に弾かれるように立ち上がり、全速力で走った。


 ミシェルはたどり着いた玄関に勢いよく飛びつき、五つの鍵を大急ぎで開けた。


 身体を中に滑り込ませ、勢いよく鍵を全て閉めていく。ミシェルは後ずさりしながら玄関に向かって叫んだ。


「警察を呼ぶわよ! もう二度と追いかけて来ないで! もうほっといて! 私は……私はぁ……」


 その場にへたり込みミシェルは泣いた。


 激しく玄関の閉まる音。ミシェルの怒鳴り声に驚いたルークが、書斎から出てきてゆっくりと歩み寄り、ミシェルの横に膝をつき、様子を伺うように覗き込んでいる。そっと触れられた背中が、生暖かい。じっとりと妙に冷たく湿っていたのだと今になって分かる。まるで、ミシェルが雨の中を走ってきたかのように思えたことだろう。ここ、二、三日は雨など降っていないのに。


 ルークが背中をさする。ガクガクとひとりでに震える口元が、ようやく言葉をつむぎ出す。


「“アレ”が……“アレ”がまた追いかけて来るの」


 ミシェルの声が詰まり、子供の頃のようにしゃくりあげながら言った。ミシェルは自分でも分かっていた。幼き頃より感じる“アイツ”には実態らしきものがないことは。姿がないのだ。分かっていたが、抗えない。どうしようもなかった。ミシェルの心の中の怪物なのだ。クローゼットの中やベッドの下に潜む、存在しない怪物。たぶんそうなのだ。


「“アイツ”は、まだ死んでなんかいなかった。最近の……最近この町で起きていた事件はあいつの仕業だったのよ」


 ルークが目を大きく見開いてミシェルを見つめた。その目を見ていると酷く自分が情けない事をしているような気分になる。実際そうだ。間抜けな言い訳をしているように感じるが、だが、それにすがりつく事でしか自分を保てない。


 ミシェルはキッチンの棚に飛びつき、中から事件の切り抜きを貼り付けたスクラップブックを取り出し、困惑した表情のルークの目の前に叩きつけた。


 ミシェルは鬱積していたもの全てをルークにぶつけた。事件の切り抜きを見て固まっているルークを見て、ミシェルの胸に罪悪感が去来していたが、自分の感情が抑えられなかった。ルークはただただ黙って受け止めていた。


 そこには“血染め花のマリー”事件の新聞の切り抜きが貼り付けてあった。一三年前のものから、最近のものまですべて。警察は未だに犯人の手がかりすら掴めていない。


 ミシェルは一時、“血染め花のマリー事件”に取り憑かれていて、犯人が――殺人鬼が自分をストーカーのように狙い、自分を見ているのを感じるのだと告白した。あいつに捕まれば、きっと自分は殺され、血の海の一部にされてしまうのだと。


 始め、それを打ち明けたのはルークとの結婚前夜だった。なにかに追われ続けていると。そのため、父ニコラスの薬局から処方される精神安定剤と睡眠薬の世話にならなければならないのだと。幼少の頃からそうなのだ。その事実が元で、離れていくかもしれない。破綻するかもしれないと不安に駆られていたが、それでも、事実を許容し、ルークは自分が必ず守ると約束し結婚してくれた。


 精神安定剤と睡眠薬は欠かせなかった。そのため、ルークは出来るだけ事件や事故のニュース、それに、新聞などは見せないようにしていたのだ。だが、最近の安定している心のミシェルに油断してしまっていた。自身もそうだ。治ったと思い込んでいた。


 ミシェルは行きつけのカフェや、アビーの家に遊びに行っていた時などに新聞を見たり、集めたりしていた。ルークの目の前で半狂乱になりながらパラパラめくっているのはその切り抜き。そして、ルークがこっそりとそそのかされるように見ていたテレビでのニュースや事件を、覗くように見ていたせいもあるかもしれない。知りたかった。怖かったが、興味をそそられたのだ。まるで、アダムとイブをそそのかした蛇が自身に囁いているかのように。


 罪悪感はその都度膨らんでいた。だが、省みることはしなかった。一気に症状が悪化した原因はそこなのかもしれない事に思い当たる。だが、楽園に潜む“興味”という“蛇”には抗いきれなかった。


 ミシェルは切り抜きを全て見せ終え、スクラップブックを叩き言った。


「本当にそこにいたの! すぐ傍に立っていた! 息がうなじにかかるぐらい近くに! あいつの指が……手が……肌に触れたのよ!」


 黙って聞いていたルークは決心したように大きく頷き、膝を叩いて立ち上がった。


「分かった。警察に電話しよう。もう心配はいらないよ」



 ***



 ミシェルは毛布に包まり、子供のようにソファーで丸くなっていた。身体が小刻みに震えている。寒さに震えているのではなく、恐怖と怒りに震えているのだと理解する。


 玄関先ではルークがふたりの警官に状況を説明していた。警官たちは背が高く、鍛え抜かれた屈強な肉体が制服を破り裂きそうなほど膨張させていた。まるでボディビルダーだ。


 この人達なら殺人犯のストーカー野郎をコテンパンにしてくれるに違いないわ、とミシェルは思った。


 ふたりの警官は黒人と白人のふたり組で、その前に立つ細身だが百八十センチ近いルークが小さく見えるほどだった。

 

 ルークが警官たちに説明し終え、玄関から見送った。


 ミシェルの元へゆっくりとした足取りで様子を見に戻ってくる。毛布の中で小さくなっているミシェルは、ベッドの下やクローゼットの中のお化けを怖がって眠れない子供のように思えている事だろう。その隣に腰掛けたルークはミシェルを抱き寄せてくれた。ミシェルも応じてルークの肩に頭を乗せて身体を擦り寄せた。


 ルークは眉間に寄った皺を伸ばすように擦りながら言った。


「警察が何とかしてくれるよ。もう心配ないから」


 ミシェルが見上げると、疲れた表情で笑顔を浮かべていた。ルークはいつも目の下にくまができている。執筆のしすぎなのだ。疲れているのに精一杯安心させようとしてくれているのが分かる。ミシェルはその笑顔を、目の端にできた皺を見て、下腹部からせり上がってくる自らの欲望に身を任せた。ルークもそれに応じて唇を重ね、肉欲に身を重ねた。



 ***



 ルークはいつも大丈夫だと言う。愛し合って乱れたシーツに包まれたまま寝ているルーク。伸びてきた髪の毛をくるくると指先に絡ませ、その頬にキスをした。ルークはふと目を開け、眠そうに目をこすって天井を見つめた。自分が何をしていたかを思い出そうとしているようにも見える。


 ミシェルが深く緑色がかった瞳を覗き込むと、ルークは疲れた顔で微笑んだ。ミシェルは心配だった。ルークがいなくなってしまったら私はどうなってしまうのだろう? ルークの額にかかる髪の毛を横に流し、寒気を感じる腕を抱えて言った。


「私、怖い。あいつが追いかけてくる。いつも見張られている気がするわ。どうしよう……」


「僕が何とかする、心配ないよ。……それにさっ! あの警官たちのバカでかい肉体を見たか? まるでターミネーターだ。あいつらなら何とかしてくれるさ。アイル・ビー・バック! ってね」


 ルークは息を大きく吸い、大胸筋を膨らませ、親指を立てて映画の中の俳優を真似た。お世辞にも上手いと言えないが、それがことさらおかしく思えて笑った。ミシェルが笑うのを見て安心したようにルークも笑った。


 夕食時、コメディアンが喋っているなか、番組が代わり、テレビではニュースが流れ始めた。ルークが慌ててチャンネルを変えようとしたが、見たいと言って制した。先程ミシェルが追いかけられていた『ブラッドリー公園』の中で殺人事件が起きたのだ。明滅する青と赤のライトに照らされた公園が、別世界のように画面の中では映っている。“血染め花のマリー事件”を追っている刑事が現場入りしていることから、関連のある可能性もあるとレポーターが言っている。犯人は依然不明のままだとニュースが報じていた。


 ミシェルはテレビの前で見下ろすように見ていたが、後ずさりして踵がぶつかると、すとんとソファに尻を沈めた。手を伸ばして探っていた指先にクッションが当たると顎の下に挟み、膝とクッションを抱え上げる。


 その様子を見ていたルークも、戸惑いながら、テレビから視線を外せないまま言った。


「警察が捕まえてくれるさ……きっと」


 その声はとても弱々しかったが、ミシェルの肩をギュッと抱きしめてくれた。それに応じて身体を預けた。


 ミシェルは不安だったが、ルークの温もりが不安をほんの少しだけ和らげてくれた。

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