第8話 テラリウム 《sideミシェル》
八月のうきうきする天気の中、眩しいほどの太陽の光がコーヒーカップに当たり、中の揺らめく黒い液体が光輝いていた。テーブルの上には白い花瓶から綺麗な切り花が顔を覗かせている。半円の球体状のこの店は店名のとおり全面ガラスで、店内には植物が多く飾り付けられている。まるで地上の楽園のよう。夏シーズン真っ只中の今は南国から取り寄せた小ぶりなヤシの木が実を付けていて、これまた小ぶりな黄色い果実が見下ろしている。この店自体が巨大な『テラリウム』なのだ。
このステキな箱庭は、大のお気に入りカフェテリアになっていた。
ミシェルが経営している『フラワー・カラーズ』で育てた花々も、半年ほど前からこの店が買い取って飾ってくれている。裏庭のこじんまりとしたグリーンハウスから、こんな素敵なカフェテリアに並べられる様子を思い浮かべると、今から笑みがこぼれ落ちそうになる。今年の冬にはクリスマスツリーと共に花が飾りつけられるだろう。ここ最近は、そのクリスマス用の花にかかりきりで世話をしていたのだ。ちなみにコンセプトは白。どの花が飾られるかは、まだ検討中。
この店『テラリウム』のオーナー、リー・タナカとは知り合いで、ブラッドリー公園の庭師も兼任しているほど腕がいいのだ。まるでどこかの王子様のように背が高く、長い黒髪を揺らして歩く姿は本当に絵になるほどだ。才色兼備が備わっているとは彼のような人の事を言うのだろう。淡い興味もちょっぴり、微かな期待もちょっぴり。だが、ルークへの愛情はたしかなものであり、揺るがないものだと信じたい。
店内にはコーヒーや紅茶の匂い、そして花々の匂いが溢れている。ここの黒革のソファに腰掛けて陽の光に包まれている瞬間がたまらなく好きだ。
ミシェルにはほとんど友達がいない。人付き合いが苦手で、知り合い程度の友人しかいない。その中でもルークとの共通で唯一の友達は、この店の経営者リー・タナカと、自らが経営する『フラワー・カラーズ』の共同経営者であるアビー・リードだけだった。
ハイスクール時代はほとんど不登校だった自分とは違い、アビーは人付き合いが上手でカーストは中ぐらい。それでも誰からも一目置かれる程。そんな彼女の天真爛漫な生き方に惹かれていた。ある日、彼女が営業まわりをしている時に偶然再会して、育てている花を見た彼女が共同経営を持ちかけてくれたのだ。今では共に仕事をし、経理を一手に引き受けてくれているし、今では大の親友でもある。
当の本人、アビー・リードは栗色の髪をひとつにまとめてソファーにゆったりと座っている。手脚が長く、スリムな彼女はこうしていると、雑誌のモデルのようだ。コーヒーをひと口啜ると、窓越しに見える太陽を眩しそうにちらりと見て言った。
「――そうなんだ。でもさ、そんなに両親がしょっちゅう来たらウザがるのが普通じゃない? ミシェルはいい旦那さまを捕まえたわよねぇ」
実際、両親が干渉しすぎではないかと思うところもあるが、ルークは嫌がる素振りすら見せない。両親のどちらかはひと月に一度は泊まりに来る。むしろ歓迎だと言わんばかりだった。
ルークが両親と仲良くするのは喜ばしいことなのだ。たくさん持っている好きな恋愛小説に出てくる登場人物の中では、ほとんどが嫌味な
ルークの書いた小説“
今の恵まれた状況。これもひとえにルークの人柄の良さなのではないだろうか? ルークの友達だったリー・タナカとも知り合え、アビーとの『フラワー・カラーズ』経営も順調だ。皆がルークを中心に集まっている。自分もルークの底抜けな人柄の良さと深い愛情に惹かれたのだから。
「そう……ね」
ミシェルが物思いにふける横で、アビーはクスクスと悪戯心を顔に浮かべる。
「そんなことよりさ、あっちの方はどうなの?」
「やだなに? 変態みたいよ?」
クスクスとミシェルも応じ、ふたりの笑い声が光刺す店内に陽気に響いた。
***
空には澄み渡った青が広がっていて、頭上の木々の葉が遮って、網状の光を地面へと届けている。ミシェルはルークをランニングに連れ出した。小説の息抜きも兼ねてだ。ルークが渋々了承して現在に至る。
『ブラッドリー公園』の中ほどまで来ると、ルークはすぐに音を上げ始めた。青ざめ、横腹を押さえてひどく咳き込むとベンチに座った。
ミシェルが肩を貸す要領で歩き、何とか公園の外まで出ると、ウーバーアプリでタクシーを呼び出して家に帰っていった。ミシェルは走って帰ると告げてその場に残った。ミシェルはそんなルークを頼りなく思ったが、それでも愛おしい想いが勝っていた。かわいいとさえ思えていた。
ミシェルはひとり汗を流してからシャワーを浴び、裏庭の花の手入れをして、今は陽の射し込むソファーでダージリンティーを飲んでいる。その横で疲れきったルークがソファに倒れ込むように顔を埋めたまま眠っている。しばらくすると、時々悪夢にうなされているように唸り、五時間ほど経過すると、ルークは跳ね上がるように飛び起きた。最悪な夢が最悪なラストでも迎えたのだろうか。走った汗と、ぎとぎとした脂汗が混在していて、起き抜けになにかを探してキョロキョロと辺りを見回す。ミシェルの名を大きな声で呼んだ。キッチンで夕飯の支度に取り掛かろうとしていたミシェルが返事をすると、ルークは胸を撫で下ろして、深い深いため息をついた。身体のあちこちの筋肉が痛いらしく、壊れかけのロボットのように歩きながらシャワールームへと歩いていった。心無しかルークの目の下の
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