第11話 検視官ジョン・スミス 《sideダイス》

「出たか?」


 背後からおもむろにかけられる言葉に、ジョン・スミスが振り返った。髭が濃ゆくなっていて、目が血走っている。熊のような体格が、今はまるで熊そのものに見える。


 鑑識班であるジョン・スミスは数年前から、度々この検視室に缶詰めになっていた。この町には検視官が数年前から不在で、事件が起きることがあっても、“血染め花のマリー”のおかげで遺体に出くわすなんてことは滅多になかった。だから、不在でも問題はなかった。上層部としては代わりにその技術と資格を有している誰かが犠牲になりさえすればいいのだ。それがジョン・スミスだった。過去、軍属の衛生兵だったジョンは、鑑識と検視を兼任する羽目になっていて、今では毎度のように行う検視で、自分の仕事畑がどちらにあるのかほとほと分からなくなっていると酒に酔って話していたことがある。


 顔面を覆う検視用の保護シールドに髭が窮屈そうにもじゃついている。返りついた血を拭いとり、骨を切断する電動ノコギリを置いた。血のついた白いエプロン姿で遺体の乗る検視台に片方の尻を乗せて言った。


「よぉダイス、よく来たな。さてさて、どっちから聞きたい?」


 ジョンが置いた保護シールドがポコンと軽い音を立てるのが聴こえた。静けさにダイスは辺りを見渡した。置いてある器具はどれもよく手入れされているかのように光を反射し、リノリウムの床にも血は落ちてはいない。ジョンは遺体と向き合うために、一日中ここにひとりでいるのかと思い、自分なら外へと飛び出している、それも今すぐに、とダイスは思った。


「いい方か? 悪い方か? ってやつか? そいつはなんとも悩ましいな。ヒントはくれるのか?」


「いいや、ヒントはない。どっちも悪い方だからなぁ」


 ニヤリと喜ぶジョンに、ダイスは呆れたと言わんばかりに手をふにゃりと力なく振った。


 その後ろでロブ・ハーディングが物珍しそうにテーブルに並ぶ道具を眺めているのが目にはいった。その横にしおれたレタスとソーセージが挟んであるかじりかけのサンドイッチが並んでいる。もしかしてここで食べたのだろうか? とロブがいぶかしがるように顎をさするのも見える。


 その通りだぞ、ロブ。こいつはここで食ってるんだ。遺体を解剖した傍でだ。イカれてるだろ?


 物欲しそうにしているロブに気付いたジョンが皮肉を込めて言った。


「食いたいのか? ロブ」


 ロブがまたぞろ、げろげろと吐くのを期待しているのだろうとダイスは思い、若い女がするように目玉をぐるりと回して呆れたと表現する。


「……いえ、けっこうです」


 ダイスは焦れったくなり促すように言った。


「なあ、ジョン、先へ進んでくれ。あのマヌケ野郎の証言は聞いた。あんたの予想通りだった。レイプしようとしてあの場に居合わせた。そんで下半身から、そこのウインナーみたいなもんをぶらぶらさせながら走ってたらしい。あの巨乳の被害者の方は犬の散歩をしてた。犬は薄情なことに飼い主を放ったらかして逃げたそうだ。木の上の遺体を見て腰が抜けたらしい。今は病院のベッドで寝てる。ことが終わってから逃げ帰って来た犬の方は殺処分するんだとさ。……ふぅ、やれやれってな。それで? マヌケ野郎のバタフライナイフの方はどうなったんだ?」


「こっちも予想通りだ。持ち主のマヌケの体液と、レイプされそうになってた被害者の衣服の繊維がポケットから出た。木に干されてた被害者ふたりの血は出なかった」


「体液? 体液ってのはなんだ? まさかアレじゃないよな?」


「ご明察。あのマヌケは自分の股間にナイフを擦りつけていたんだよ。信じられるか? キモい野郎だ」


 想像などしたくはないが、イメージが鮮明に浮かぶ。ダイスは自分の想像力を呪った。見えないハエを追いやるようにイメージをかき消そうと手を振った。


「うぇぇ、ああ、くそっ、次に進んでくれ」


 ジョンは仕方ないなと肩を持ち上げた。そして次に進む過程で検視ファイルを読み上げる。


「そうかい。まずは男の方だ。こっちへ来てくれ。まず背中に大きな衝撃を受けた跡があった。ここだ、ここを中心に背骨と肋骨が折れている。それと、頭蓋の後ろ。ここだな、後頭部も強く打ちつけている。陥没してしまっているよ。知りたいであろう死因は頭ではなく内臓破裂による即死だ」


 早くもここから出たくなってきたダイスは、急ぎ話しをまとめた。


「――つまり、ランニング中に後方から大きな衝撃を受けた。その時にはもう虫の息。もしくは死んでいて、後頭部に鈍器で一撃。とどめをさした。それから木の上にぶら下げられたと考えられるな」


「待て待て、ここの匂いが苦手なのは知ってるがそんなに答えを急ぐな。肺と腸が損傷。後はこっちだ。腰から上が一回転している。つまり、大きな衝撃を受けて木に激突、そんで即死、さらには木にぶら下がっちまった。そう考えるのが妥当じゃないか?」


「ああ、そうだな。そっちで正解だ。あんたの方が刑事に向いてるよ」


「そう褒めるなよ。次に女の方だが、脚と首が折れていた。まあ、死因は言うまでもなく首の骨が折れたことによる窒息死だ。こっちの方が苦しんだろうな」


「なら、防御創はどうだ? マヌケ野郎が楽しんだような形跡はあったか?」


「いいや、それはなかったな。衣服もそのままだった」


「てことは、大きな衝撃を受けたのはふたり同時って事か。振り返る暇ぐらいはあったって事だよな?」


「ああ、そうだな」


「そして木に盛大に叩きつけられた。そんなバカでかい凶器があるのか?」


「さあな。それを見つけるのはお前さんの仕事だ」


「ふん。冷たいな。じゃあ、あんたの初期の推理で大正解って事だな。おめでとう。景品はビール券一枚だ」


 ふたりがよく行く『キング・フィッシュ』では常連客の誕生日が来ると、これが配られる。それも十枚も。賭けるものがドル札より幾分か気持ちがマシなのだ。今からでもなにか奴の推理が砕け散るような証拠がないかと目を走らせる。結局はなにも見つからずジョンの手から愛しのビール券がポケットへと吸い込まれていった。


 ロブ・ハーディングがしげしげと遺体を隅から隅までと見ていく。その様子をダイスは横目でちらり。


 人体を開き、縫合した後だとはいえ、まだ人間ではなく捻れた人形のように見える程だ。しかも見ているのが女の方とくれば色々と心配事が増えていく。


 やがてロブの目が腰の下にある人差し指ほどの小さな傷跡で止まった。


「――これはなんです? 鋭利な刃物で切られたように見えますが?」


 “そして腹部に裂傷”、後に続くはずの言葉をジョンは飲み込んでいた。試すようにジョンが見ていたことにダイスは気付いていた。それでもビール券を取り返すほどのネタでは無い。むしろポケットの口が固くなるだけだ。


「ほう、気付いたか」


 検視室の奥にある衣服や証拠品などが固めてある所へと歩いていき、手のひらサイズの証拠品袋に包まれた黒い金属板を手に戻ってきた。


「そして、これだ」



 ***



 ダイスとロブは辛気臭い検視室を出て、地下からの階段を一段一段上がり、重苦しい扉を抜けた先に広がる世界へと躍り出た。夕暮れ時の太陽が眩しくて顔を顰めた。薄暗い地下室から出たばかりの目はくらんで、しばらく手すりに掴まってなければ、階段を転げ落ちても不思議ではないほどだ。ようやく澄んだ空気を胸いっぱいに吸って、吐いた。そしてまた吸う。身体の中にある消毒臭さと新鮮な空気とを入れ替えられたかと、鼻を啜って確かめる。


 ダイスは口の周りを物欲しそうにかきながら、ロブを鬱陶しそうに横目で見た。上着のポケットのフラスクを撫で、ひとりなら、と思いながらもダイスは仕方なく言った。


「おい、ロブ。昼飯は俺の行きつけでいいか?」


「ええ、ご一緒できるなら光栄ですね。昨日は置いて行かれましたから」


「今日は特別だ」



 ***



 車を走らせ、ふたりはロビンソン・ロードの通りに面するバーに車を横付けた。


『キング・フィッシュ』と銘打ってある下に、準備中と札が下がっているが、ダイスは構わず入っていく。面食らった様子のロブが狼狽えながらも、後についてくる。


 店内には沢山の魚の模型が並び、釣りをしている男の写真が所狭しと飾ってある。黒を基調としたカウンターテーブルと、テーブル席とが並び、明るすぎない電球が落ち着いた雰囲気を醸し出している。家具と店内が見事に調和している。


 一番奥のテーブル席に座り、値段交渉をしている様子の身体のでかい男が若い眼鏡をかけた男と話し込んでいるのが見える。そのでかい男に向かってダイスは手を振って言った。


「やあ、アイヴァン、いつもの――いや、今日はビールを頼むよ」


「……はいよ」


 ダイスは背後にいるロブを見て、今思い出したかのように添えて言った。


「アイヴァン、悪い、こいつのも頼む」


 いついかなる時も道連れは多い方がよい。


 黒髪で白い髭をたくわえた大柄な男は立ち上がり、百八十はある身長のロブを物珍しそうに見下ろしながらカウンター裏に周りこんだ。その正面のカウンター席に座ると、ロブがその横に座った。


「アイヴァン、息子は元気かい?」


「ああ、おかげさんでね」


「何歳になる?」


「十四、今度のクリスマスには十五になる。生意気で嫌になるよ」


 換気扇が回り始める音と、火を使い調理する音がして、立ち上る香りが鼻先をくすぐり始める。


「そうか。息子はあれからどうしてる? もうダウンタウンのギャング気取りの悪ガキどもとは関わってないか?」


「……ああ、おかげさんでね。小さくて状態のいいボートでも買ってやって、釣りでも仕込もうかと思ってるんだ」


「そりゃあいい、スプリング・リッジで今はたくさん釣れるらしいからな。マリファナを吸うよりずっといいさ」


 アイヴァンの表情が一瞬曇った気がして、まだ冗談にするには早すぎたかもしれないと心の中で舌を出した。というのも、スプリング・リッジには屋外ステージが備えられていて、オフシーズンは若者が屋外パーティーを楽しむにはもってこいな場所だ。そして、アイヴァンの息子は、そこで売人である悪ガキ仲間からマリファナの味を覚えさせられ、その直後踏み込んだ警官隊に捕まりそうになっていた。その当時、ここで情報提供者として“活躍”してもらっていたアイヴァンに頼みこまれ、尿検査される前に事情聴取で引っ張った。そこから息子の細っこい身体から悪い成分が抜けるまで怒鳴り散らし――もとい、匿ってやっていたのだ。ちなみにアイヴァン本人には前科があり、その手癖の悪さをいさめて突き出さない代わりに、ここで情報提供を副業している。以前から釣り仲間でもあるが、それからは若干冷えきった夫婦のような付き合いだ。このバーで酒のツマミに強盗の計画でもぽろりとこぼすやつがいれば即座に捕まえられる計算だ。それらはアイヴァンの耳を通してこちらへと筒抜けになっているのだから。


 アイヴァンはカウンターの下からビール瓶と、香ばしいウインナーを挟んだホットドッグをアルミホイルに包んだ状態でテーブルに並べた。


 ダイスは礼を言って受け取ると、ひとつをロブの前にスライドさせる。もうひとつに齧り付いた。ウインナーから燻した香りがする。齧るとパリッとした小気味いい音と芳醇な肉の旨味が溢れてくる。以前、このいい匂いの元は日本の桜の木を使って燻製にしているのだと教えてくれたのだ。細胞単位で身体に残るホルマリン臭さを、ビールを流し込むことで浄化する。今日一番、安堵のため息を漏らす。


 ロブはその様子を見つめて囁くように言った。


「ダイス刑事、職務中の飲酒は……」


 案の定言うと思っていたダイスは食い気味に言った。


「――ロブ、なあ、ロブ。いいか、よく聞くんだ。気負うのは勝手だが、俺まで巻き込むな。俺はひとりでやろうと思えばやれるし、局長が言うから一緒にいるのを我慢しているんだ。お説教はよしてくれ」


 ムッとした顔のロブは、ホットドッグに視線を移し、アルミホイルを剥き始める。


 何事かとダイスは行く末を見守る。


 メインであるはずのウインナーをアルミホイルに残し、ポテトサラダだけのホットドッグを頬張っていく。


「……もしかしてベジタリアンなのか?」


「ええ、以前……子供の頃は食べてましたが、今は肉類はほとんど食べません。それでも筋肉はつくし、活力も出ますよ」


 そう答えるロブを見て、ダイスは呆れたように言った。


「……お前とは食の好みまで合いそうにないな」


 ロブがビール瓶を差し出し、ダイスは自分の瓶を当てて応じた。カチンと軽い音を響かせると、ロブはビールを一口飲み込んだ。職務中にも関わらずだ。


「酒の好みはどうです?」


 ニヤリと笑って、ほんの少し認めてやる。


「まあまあだ」


 これから、また花屋を巡り歩くのかと目を回して思い、ふと聞いてみたくなった。


「アイヴァン、お前さん、花と聞くと何を連想する?」


 アイヴァンは鍛え上げられた体躯同様、プロレスラーのような太い首を傾げて言った。


「そうだな、黄色に赤に白、とにかく色だな」


「色……色か。ふむ。花の種類は? 詳しいか?」


 アイヴァンは腕を組んで少し考えたが、首を振って言った。


「種類までは分からんよ。気にしたことすらない」


「そうだよな。俺も花の種類なんて分からない。酒の種類なら味だけで分かるんだがな」


 そう言って笑うと、ようやくアイヴァンも表情を緩めて笑った。


「ありがとう、アイヴァン。今日も美味かった。勘定はここに置いとくよ」


 ダイスはビール瓶を飲み干すとカウンターにタンッと音を響かせて立ち上がった。


「行こうか、ロブ」


「あ、はい」


 ロブは慌ててポテトサラダだけのホットドッグを口に頬張り、ビールでふやかして飲み込んだ。


 表に停めているクラウン・ヴィクトリアに乗り込み、ダイスはビールでは物足りない気持ちを抑えて言った。


「ロブ、花屋は後回しだ。まずは『ブラッドリー公園』の聴き取り調査をする。あの“木の上の被害者たち”の情報が欲しい」


 ダイスがエンジンをかけると、低い音の振動を足の下から感じ始める。ロブは素直に答えた。


「分かりました」



 ***



 ロビンソン・ロードから南へと流れている車列に加わり、田舎特有ののんびりとしたスピードにアクセルを合わせた。


 ダイスはハンドルに手を乗せ、ロブをちらりと見た。


「ロブ、お前さん趣味はなんだ?」


「ロウソク作りです」


「ロウソクだって? 近所の婆さんがやってるような火をつけるアレか?」


「ええ、そのロウソクですよ。意外と奥が深くて、材料にどんなものを使うかで香り付けまでできるんですよ。今度一緒にどうです?」


「……いや、心の底からありがたいが、心の底から遠慮しておくよ」


 なんとか共通点を見つけようとしたダイスの試みは失敗に終わり、しばらく沈黙が続いた。


 ロビンソン・ロードの車列から抜け出し、進路を南へと向ける。しばらく道なりに走り、サンセット・プラザ通りに面する『ブラッドリー公園』の駐車場へと車を滑り込ませた。


 付近に車は三台ほどしか止まっておらず、そのうち一台はキッチンカーで、ホットドッグを売り出していた。ふたつ目を食べたいとは思わなかったが、カフェインは欲していた。


 ダイスは無言でハンドルを見つめ、視線をロブの真面目くさった髪型と黒い犬のような目を見て言った。


「どうやら、お前さんとは気が合わないようだが、まだ局長に相棒を変更してくれとの意志を示す気にはならないのか?」


 ロブはダイスを見つめ、それが冗談なのか決めかねているように見つめ返した。


「……ええ、今のところは。あそこに見える売店で聞き込みをしてきます。もしかしたら、事件当日にも出店していたかもしれないので。ついでにコーヒーも……飲みますか?」


「ああ、頼む」


 そう言ってロブは場を濁し、車を降りると売店へと歩いていった。


 ダイスはアイロンの行き届いたスーツを着こなすロブの背中を見送り、対してよれよれの上着のポケットからウイスキーの入ったフラスクを取り出した。グイッと一気に煽り、頬に含ませていつでも取り出せるように上着のポケットに押し込んだ。


 携帯電話が空気を切り裂くように鳴り、急激に跳ね上がった心拍を確認するように胸に手を当てた。


 舌の上で転がし尽くしたウイスキーを飲み込んで携帯電話の震える受話器マークをタップする。


「ダイス刑事、鑑識班のレイチェルです。遺体から見つかった黒い金属板ですが、やはり黒く塗り潰されたナンバープレートでした。半分になったナンバープレートの番号は削り取られていましたが、復元できたのは番号の1と8と2あとは、ちぎれた先で無事にやってると思います」


「そうか、分かった」


「――あっ! 待って、切らないで! 登録ナンバーの照会中にヒットした車両があるそうです! 現在逃走している黒のセダン! その車のナンバープレートが破損しているとの情報が入りました! 現在、四九号線を北に逃走中! 『ブラッドリー公園』に向かっている模様!」


「――なにっ!?」

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