第31話 血染め花のマリーの真実 《sideミシェル》
――十三年前。
五十四歳。その頃になると足腰の衰えを感じるようになった。老化というのは止める事が出来ないのだと、最も痛感していた頃だ。
その“特別な”日は、前日に降った大雨とそれに伴う霧の影響で、夏としては少し肌寒いぐらいだった。疲れた様子のアルマはソファーに横になり仮眠をとっている。ふたりの子供たちの相手をする時間、見張る時間が終わったところ。ここからは入れ替わりが終わり、目覚めるまで待っている。それから、アルマを起こして交代だと告げるため、時計とにらめっこ。まるで刑務所の看守のようだ。ニコラスは顔を覆って、手のひらでごしごし擦った。子供というのはあれほど不規則に寝たり起きたりを繰り返すものなのかと訝しがる。ご飯を食べながら眠る時もあるし、遊びながらいつの間にか寝ている時もある。まるで電池が切れたみたいに。それはそれで愛らしいのだろうが、他の子と違うのはここから。この子たちにとって、眠りとは、その都度ミシェルとエルザが“入れ替わる”という事なのだ。
ニコラスは部屋の隅で安楽椅子に座ってテレビをつける。眠らないようにと何杯目か数えるのも馬鹿らしい程のコーヒーを飲んでいた。もう少し待って、アルマを起こして……そう思っていた。連日の疲れが貯まり、小降りの雨が屋根をノックすると、この眠気を誘う音も手伝って吸い込まれるように意識が朦朧としてくる。肘を立てて上に頬を乗せ、うとうとと船を漕ぎ、やがて眠ってしまった。
眠りにつこうとしているミシェルのいる子供部屋に鍵はかけていた。
だが、エルザには用を成さず逃げ出してしまった。その事実に気づいたのは実に五時間後だった。
***
深夜の満月が雲に覆われ、子供が齧ったクッキーのような形をしている。アルマは助手席で、現実から逃げるようにその月を見つめている。車のヘッドライトの光が闇夜を切り裂きながら進んでいく。その歩みは遅かった。薄気味悪い霧が出ていて、他に車両は見当たらない。このジャクソン・ヴィル全体が眠りについているようだった。
ニコラスはぶつぶつと言い訳めいた独り言を言いながら、車のハンドルを右手で握りしめ、左手に握った懐中電灯で車のヘッドライトがカバーしきれない場所を照らした。
最近のエルザの行動は変わっていた。“おかしい”と言った方が正確だろう。まず、ほとんど喋らなくなった。裏庭にある花を全て赤く塗り、次々に引っこ抜いていく。時には拾ってきていた捨て犬の頭を握りつぶし、花瓶代わりに喉深くに花を生けていたりする。対するミシェルは花を育てるのが好きな優しい少女に育っていた。ニコラスとアルマは寝不足で痺れている頭を振り、目を皿のようにしてエルザの行方を探した。車内には保温ポットから濃いコーヒーの匂いが立ち込めて車を満たしていた。
***
――その四時間前。
事が起きる直前、ニコラスたちは警察より早くエルザの元に辿り着いていた。なぜかアルマにはエルザの行き先が分かるようだった。ぼんやりとだが、いつもそうだった。なんの説明もつかない母性本能というやつなのかもしれない。
そこは人里離れていて、小高い丘の上にある赤い屋根の農家らしき家。周りには一件も見当たらない。離れには今では使ってなさそうな納屋が見えるだけだ。遠くに柵だったようなものも見える。もしかしたら、牧場だったのかもしれない。
家の外には黒い箱バンタイプの車が一台停まっていて、何か社名のようなロゴが書かれている。
車から降りたニコラスの耳に、赤い屋根を被った家の中から叫び声が聴こえていた。お化け屋敷で逃げ惑うような、そんな怯えた叫び声だ。慌てて駆け寄ろうとするアルマの頭を、倒れている柵のそばの草むらに押さえつけ、口を塞いだ。それと同時に、筋肉が断裂する時のバツンという音がいくつも聴こえる。大きな風船を叩き割ったような音。そして何かガラスのようなものが砕け散る音だ。
「やめて! やめてくれえぇえ!」
「あ、悪魔だ! 本当に出た!」
「あぐっぅぁぁぁぁぁあっ! 痛いっ! 痛いぃぁぁっ!」
悲鳴はやがて布を引き裂いたような音で終わり、ゴボゴボと詰まった排水溝のような音だけになっていった。
ニコラスたちは外で待った。“早く終わってくれ”と願っていたのだ。震えるアルマをその場に残し、ニコラスは窓から中を覗いた。赤黒い作品がエルザの小さな手でねじ曲げられ、こねくり回され、組み上がっていくところだった。それらは既に人の形を留めてはいなかった。エルザは居間にある花瓶から白い花々を取り出すと、血を振りかけて装飾し、代わりに人体で出来た花瓶に花を生けていく。
その場にひとりの女が出くわした。どこかにいたのか、はたまたこの家の娘なのかは分からないが、ライターの火をつけて歩いていくのがニコラスからははっきりと見えていた。声は出さなかった。女は赤黒い花瓶にぶつかるとそっと触れ、手についた粘液を不思議そうに見た。そして花瓶を見上げた。そこにはまだ人の頭の形をしたものがぶら下がっている。早まっていく呼吸とともに口が大きく開かれていく。血なまぐさい空気がひと息に大きく吸われた時、エルザがその目の前に現われた。真っ赤に染まったエルザは恍惚とした笑みを浮かべていた。これが血に塗れてなければ可愛らしい笑みだが、状況はまるで違う。女は悲鳴をあげた。エルザの手が悲鳴の中心に突っ込まれた瞬間、女の口は大きく引き裂かれた。その時噴き出した血がニコラスの覗いていた窓を赤く染め上げて見えなくなった。
この時ニコラスの心に去来する想いは、嘆きや同情の類ではなかった。“ ああ、ここが人里離れた場所で良かった”と、心底そう思っていた。
恐る恐る手をかける玄関に、鍵はかかっていなかった。ゆっくりと開けた音に導かれるように居間の戸口からエルザが無邪気な顔を出した。大好きな遊びに興じ終わって、すっきりしたような笑みを浮かべ、久方ぶりに声を出した。
「あっ! 父さん!」
赤く濡れた足跡を残して、トテトテと小走りに走ってきたエルザは遊び疲れて満足したような顔で胸に飛び込んできた。
その無惨さを象徴するかのようにエルザは流血に染まっていた。
狂気に囚われている中、いつの間にかまた雨が降り注いでいたことに気がついた。ごろごろと雷鳴が空を走り、やがて目の前が真っ白になるほどの落雷が赤い屋根を突き破ってエルザの作品に直撃した。
燃え盛りながら作品はガラス窓を突き破り、粉々になりながら辺りに火を撒き散らしていた。近くに落ちた落雷の音で起きるひどい耳鳴りの中、エルザはたった一言、残念そうに“あ~あっ”と呟いただけだった。
ニコラスとアルマはエルザを抱くと、車へと小走りに向かった。この家から伸びる道の片側、街のある方角から、光が向かって来るのが見える。手で額の前に傘を作り、目を凝らす。闇を引き裂くようなライトが、この立ち昇っている炎を見て速度をあげていた。車種は分からないが車には間違いない。直感では警察の車のような気がする。
「まずいな……アルマ、車に急ぐんだ」
“白い”フォード・レンジャーに駆け込むと、ニコラスはライトを付けず、夜目に頼ってゆっくりとその場から走り去っていった。“この道の先”に行けば、ジャクソン・ヴィルまではかなり遠回りになる、だが、もう決めたのだ。後戻りは出来ない。他に選択肢はないのだ。わたしたちにも、この“未来”にも。
***
――現在。
「そして、あの赤い屋根の家で惨劇が起きた。四人のバンドマンは連れ去ってきたはずのエルザに、泣き叫びながらおもちゃみたいに引きちぎられ、捻り切られた。その頃からだ、エルザがただ殺すのではなく作品を作るようになったのは。わたしたちは警察より早くエルザの元に辿り着いた。そして、血だらけの殺害現場からエルザを連れ出したんだ。さすがにその時だけはエルザの作品を現場に残してしまった。処分する時間もなかったからな。……その後、捜査を撹乱するために、可哀想なマリーの遺体を安置所から盗み出したのも、わたしとアルマなんだ」
ニコラスは額の汗を拭い、被りを振って言った。
「わたしの店の地下にこっそり作ったコンクリートのプールで、魔法の液体を使って遺体を……“ 使われなかった作品の部品”であるマリーを溶かして闇に葬った。……それが今でも語り継がれる“血染め花のマリー事件”の真相だよ。つまりな、巷で騒がれている“血染め花のマリー”というのは、わたしたちなんだよ」
ニコラスはそこで苦笑した。誰に言うでもなく、自分で自分自身を説得しているかのようだった。
「神様や幽霊なんてこの世にいないさ。そんなものがいるなら真っ先にわたしたちは呪い殺されているだろうな」
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