第32話 沈みゆく心 《sideミシェル》

 はるか遠く、過去の世界まで意識は飛んで、ニコラスは走馬灯を仰ぎ見ていた。一瞬の事だが、まるで魂だけ過去に飛んでいたようにも思える。薄れた魂がようやく元に戻ると、ニコラスはミシェルを、そしてミシェルを通してエルザを見た。


「いいか? 今度から寝る時は必ず、ルークに強力な鎮静作用のある薬をもらって飲むんだ。そうしなければ、“惨劇”は何度でも起きる」


 あまりにも鮮烈で、残酷な真実に打ちのめされているミシェルに向かって、まるで時間がないことが分かっているかのようにニコラスは言った。


「お前が昔から感じている頭痛はエルザの胎動で、寝返り。それが強くなってきている。最近、意識を失いやすくなっているとルークから聞いている。精神が不安定になるのはエルザの覚醒時間が長くなっているせいなんだ。“視線”を感じるのもな。お前がストーカーだと思っている人間はいない。その中にいる“エルザ”がミシェル、お前を見ているんだ」


 ニコラスが咳き込むと、ルークが心配そうにそばに寄って背中をさする。その手をニコラスは握りしめた。


「ルーク、分かっているだろうが、くれぐれもわたしの調合した鎮静剤を忘れるな。アレで抑えられる。もし覚醒しても鎮静作用が効いている間は怪力はある程度抑えられる。エルザは起きていてはダメな存在なんだ。そして、そしてな――ミシェル、お前が……お前の中に閉じ込めておくしかないんだ。エルザは人の手には負えないんだ。すまない……それでも、それでも、わたしは……わたしたちはお前たちを愛しているよ」


 椅子の上で力なくミシェルが座っていた場所は、失禁したことと嘔吐したことで濡れていた。ルークが出してくれたタオルは、床でもう水分を吸いきれなくなっている。頬の涙はとめどなく溢れ出ていた。


 もうやめて……もういや……もう何も聞きたくないのよ。父さん。


 ミシェルは実の父親の言っていることが、愛している父親の言うことでさえ、半分も信じられなかった。“頭”を疑ってすらいた。ミシェルは震える声を絞り出すように言った。


「本当に……私が? でも……でも、私にはそんな覚えなんて全然ないのよ? 信じられないわ」


 ミシェルは震える腕で自分を抱きしめる。身体全体が震えている。今すぐにでも叫びそうになる衝動を、手の爪に噛み付くことで押さえつけていると、ルークはミシェルの前に片膝をついて、震える肩を掴んで言った。


「つまりだ、君が眠っている間、その身体を妹のエルザが……別人格が使っているんだ。その身体が血に塗れた時は、君が眠っている間にその血を拭き取っている。君がベッドで見つけたのはその拭き残した血なんだ。不安にさせてごめんよ。もっときちんと見るべきだった」


 ミシェルはそれでも否定しようとしたが、なんと言っていいか分からず、言葉になって口から出てくることはなかった。ただ青ざめた顔を伏せただけだった。


 今すぐ走ってこの場から逃げ帰りたかった。羞恥心と怒りでどうにかなりそうだった。自らの身体が勝手にやった事に対して失望し、どうしようもないのだと思い知らされたのだ。足腰に力が入らなかった。まるで感覚がなくなったようだ。


 ミシェルを支えるように立ち上がらせ、失禁していたことを思い出したルークは部屋から出て、看護師にタオルを一枚もらい、ミシェルの腰に巻いて外へと促していく。看護師は部屋に入ってニコラスを寝姿勢に戻し、点滴に薬を入れた。続いて部屋の隅にある椅子に異臭のする水溜まりを見つけると若い看護師に掃除するよう耳打ちするのが見えた。



 ***



 チューブを伝って薬が体内に流れこもうとしているのをニコラスはじっと見ていた。薬の投与で意識が朦朧としてきていたニコラスは当時を振り返った。


 十二年前、“血染め花のマリー事件”の一年後だ。エルザがドアノブを面白がって握りつぶす度に買い換えたが、四度目で諦めた。ニコラスは自分の店の、文字通り売るほどある薬剤を使うことを思いついた。幸い、薬学の知識もある。


 ミシェルがまだ遊び足りなそうな顔で、アルマの子守唄を聴いていた。


 ニコラスは部屋の外で、調合した薬を用意しながら息を潜めていた。その重たそうな瞼を擦りながらミシェルが眠りにつくと、ニコラスはそっと部屋に入り込み、アルマと共にミシェルの寝顔を見つめた。


 その髪が白銀の稲穂から漆黒の闇に染まり始めると、ニコラスはエルザへと変化し続ける娘の、小さなかわいらしい鼻をつまみ、睡眠薬と精神安定剤を粉末にし、溶いたものを口の中に垂らしていった。


 その試みは功を奏した。主人格であるミシェルが眠るタイミングで、危険な別人格のエルザも眠りにつかせたのだ。疎ましく、そして恐ろしく感じるようになったエルザを覆い隠すようになっていった。その当時は正しい事だと思っていたのだ。


 ニコラスとアルマは幾年ぶりかにゆっくりと眠ることが出来た。エルザには悪いと思っていたが、それ以上にまともに睡眠を取れない苦しさから逃れようとふたりは決断したのだ。それに、異常な怪力をもつエルザに抱きしめられただけで身体がへし折れたり、潰れたりしてもおかしくないのだ。“作品”たちのように。


 それでも時々、精神安定剤と睡眠薬の調節が難しく、エルザが夜中に覚醒して逃げ出してしまうこともあった。


 ニコラスは安楽椅子で眠るようになり、ミシェルとエルザの部屋には窓と扉に鈴をつけた。朝になって見つけたミシェルはかわいいと喜んだが、時々表に出してやっていたエルザは嫌がった。それからはミシェルが明るい日中に目覚め、覆い隠したいエルザは夜に覚醒するようになった。“光と闇”だ。


 それから夜中に鈴が鳴り響くようになると、ニコラスは逃げ出したエルザを追うようになった。エルザが何か生き物を、または“誰か”をおもちゃのように握りつぶし、粘土でもこねるように引きちぎったりして殺す度に、ニコラスとアルマはその片付けに追われた。その“肉”を、その“血の残骸”を、まるで子供が散らかした“玩具”を片付ける親のように。


 ただひとつだけ良かったのは、人間の骨がこれ以上ないほど砕かれていて、血と肉を処理するだけで良かったことだ。それこそ、キッチンのディスポーザーにでも食事の残り物と一緒に、細かく切り刻んだ肉片と一緒に流し込むだけでよかったのだ。それを嫌がったアルマの為に、ドラッグストアの地下に運び、大きなミキサーを用意し、コンクリートのプールで溶かすようになった。


 ルークと結婚してからは同じものをルークたちの新居の地下に作った。


 簡単だった。こんなに簡単に死体処理が出来るのに、どうして世の中の殺人鬼共は捕まるのだろうと、ミキサーで遺体を粉砕しながら考えていた。ニコラスはその考えに至った時、気が触れそうになった。それを防いだのは皮肉にもミシェルとエルザに飲ませていた大量の精神安定剤だった。ニコラスは嗚咽でひきつく口元に精神安定剤を運んだ。ニコラスは再度ミキサーのスイッチを入れた。



 ***



 次の日の朝も、ふたりはニコラスの病室に訪れた。ミシェルは一睡も出来ていない。恐ろしくて眠る事が出来ないとルークに言うと、ルークは薬を差し出してきたが、ミシェルはお腹の子のためにとは言わぬまま、薬は嫌だと執拗に断った。ルークは一日中ミシェルに寄り添ってくれた。いつ眠りに落ちてもいいように。


 ここに来るまでの車内で、ルークが言っていた。ニコラスも、それこそ一睡も出来ないらしいのだ。長年、睡眠薬と精神安定剤に頼り、不規則に使っていたため効きにくくなっていて、今では象を眠らせるほどの強い薬じゃないと眠れないらしい。本当に動物に使用するようなものを使っているのか定かではないが、もちろん副作用はとてつもなく強い。


 高齢のため、薬なしでも眠れるようにしなければならない。ただし薬なしでは夜中に何度も叫び声をあげて起きるのだという。夜驚症だ。


 ニコラスは急激にやつれて別人のようになっていた。頬はこけていて頬骨が浮いている。着ている入院着がぶかぶかで、より小さく見える。髪は点々と残っているだけで、後は全て抜け落ちていた。ミシェルはゆくゆくは自分もこうなるのだろうかと震えた。


 ニコラスは枕をふたつ、背中とベッドの間に入れて座ったまま、病室の外の景色を見ている。外は雨で、ガラスに当たる雨粒を数えているようにも見える。


 何度かミシェルたちが話しかけた後、病室にやってきたミシェルたちにようやく気がつく。こちらを向いたニコラスは、大きく目を見開いて息を止めた。


 まるで死神でも見たかのような反応だった。


 繋がれた計器の心拍数が急上昇し、容態が急変した。


 慌ててミシェルが駆け寄ると、ニコラスはミシェルの腕を掴んで喘いだ。苦しみに悶えた。身体と顔を引き攣らせて、悪魔に取り憑かれたように身体を仰け反らせる。


「あの“針”だ、あの“針”さえなければ……あの“針”が全てを狂わせたんだ」


 そう何度も訴え、やがてなにかが抜け落ちたかのように力なくベッドに沈みこんだ。


 その様子を見ていたミシェルには、自分がもうすぐ死んでしまう父の事を嘆き悲しんでいるのか分からなかった。自分のこれからの行く末を案じ、たった今、未来の自分を見ているのではないかと思っていた。ニコラスに掴まれた腕に爪がくい込み、痣ができるほど強く掴まれた痛みさえ、自分のものではないかのように感じていた。


 ニコラスのその後の検査の結果で、頭の腫瘍が急激に肥大しているのだと伝えられた。もって数日だとも。


 全てが鉛のように重く感じられた。深く深く沈み込み、二度と上がっては来れないように思えた。

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