第33話 ルークとエルザの初めての出会い 《sideミシェル》

 十二年前の二〇〇七年、夏。ルークは当時十歳で、ミシェルと同じ通りに住んでいた。同じ通りといっても、お互いに家の並びの角と角で、近所の中では一番遠い。遠いようで近い距離。このサンセット・プラザ通りは家々が並ぶ住宅街。住宅街といっても空き家が多くて、住人は半分にも満たない。その住宅街から道路を挟んだ向かい側に公園があって、ミシェルとは歳が同じで、よく遊び、共に育ってきた。それにこの周辺には子供が二人だけだ。


 ブラッドリー公園はその当時から廃れていた。管理する人間が高齢なのもあり、市は委託先を探していた。不思議な事に委託先が見つかると、その人物が失踪するのだ。


 手入れもされていないこの公園は、草も伸び放題で、折れた木は皮一枚残して長い間垂れ下がったままだった。立ち入り禁止の看板も立っている。他所の子供たちは図書館の先にあるもうひとつの公園を好み、人見知りだったルークとミシェルはブラッドリー公園に忍び込むように中に入り、よく探検ごっこをして遊んだ。


 ルークはその日の晩、眠れぬ夜を過ごしていた。前日、父親から身に覚えのない叱咤を受け、僕じゃないと言うと、父親は口答えをした罰だと五回ほどルークを叩いた。酒に酔っている父親はこういうことがよくあった。母はとうに死んでいる。


 腹正しくなったルークは、父親が美味そうに飲むウイスキーを一本くすね、チビチビと燃えるような臭い水を飲んだ。


 なぁに、これは特別な日にしか飲まないんだとルークは鼻を鳴らした。


 当分チェックもしないし気づいた時にはもう遅い。それに密かな憧れも持っていた。テレビの中の男たちも、父親も、誇らしげにこれを飲むのだ。それを飲んだルークも少し大人になったような気がしていた。


 次の日には頭痛と吐き気にしつこく襲われた。昼夜が逆転するほどの目にあっていた。酒をくすねたことはすぐにバレてしまい、今度はベルトの鞭で背中を執拗に叩かれた。それと外出禁止令。うんざりするほど退屈で長い外出禁止令の夜に、ルークは父親の書斎からホラー小説を盗み出して、部屋の窓枠に腰掛けながら読んでいた。時々難しい言葉が出てくるとうやむやにしながら先を読みふけった。


 その目の端で、ひとりの少女を見つけた。日中は暑かったが、夜は寒気を覚えるほどだったが、その少女は裸足で、しかも白いワンピースだけ着て走っていたのだ。その様は夜闇に浮かぶ幽霊のように見えた。今まさに読んでいるホラー小説の中から登場人物が飛び出してきたような感覚に襲われ、ルークは禁止令を破って上着を羽織った。二階の窓枠から脚を伸ばし、雨樋を伝い、庭の木に飛び移りながら地面に降り立った。


 ルークは息を弾ませながら少女の走っていった後を追いかけた。まるでそこから物語が始まるかのような気がしていた。


 サンセット・プラザ通りの端にはブラッドリー公園とを挟むように街灯がひとつあり、その点滅する街灯の灯りの端っこで少女はしゃがみこんでいた。楽しそうに鼻歌を歌いながら、何かを拾い集めているように見える。


 ルークはその少女の背後に立って、話しかける言葉を探していた。この近所では見たことがない。少女は黒く長い髪を鼻歌に合わせて揺らしていた。


 この子は誰だろう? この近所と、学校に通う子たちの事はだいたい覚えているが、黒髪の少女はいなかった。どこかから越してきたばかりの子だろうか? と、ルークがモジモジしている前方で、少女が思案するように頭を傾けるとポキリと骨のなる音がした。肩に乗った黒い髪がさらりと流れ落ち、街灯の光で少女の頭には天使の輪が明滅している。ルークはその姿に見とれ、なんてキレイなんだと思った。


 結局、ルークが悩みに悩んで選んだ言葉は「やあ」だった。


 ルークは言葉にした瞬間、自分が世界一のマヌケになったように感じた。


 振り返った少女の黒い瞳の奥には力強い煌めきが宿っていた。手にはちぎり取ったばかりのような犬の尻尾が血を滴らせている。足元では痙攣を起こし、何か大きな力であべこべに捻れた犬が転がっていた。


「あなたもやる?」


 少女は血の滴る犬の尻尾を振って見せた。ルークに血が飛び、赤い斑点を作って服を濡らした。


 少女は無邪気に微笑み、犬の尻尾を振り回しながら、踊るようにクルクルと回って見せた。興奮し、紅潮した頬を弾ませて。


 ルークはその天使のような笑顔に見とれた。現状はまるで血の惨劇だが、その中心で血にまみれて踊る、赤い姿の天使に強烈に惹かれていた。


 そのルークの背後で、空気を切り裂く音が聞こえ、何かがすぐそばを通り過ぎた。ルークは振り返った。


 ミシェルの父親ニコラスが銃のようなものを構え、母親のアルマがライトを照らしていた。ふたりとは何度も会っていた。ミシェルの家に遊びに行くたびに。公園でミシェルと遊ぶ度に。


 だけど、何故ここにいるのだろう? と、ルークは不思議そうに見ていることしか出来なかった。まるで夢でも見ているようだ。


 ニコラスは奇妙な銃のようなものを持っていた。海賊が持っているような筒状の銃だ。


 少女の腕には小さな赤い羽根のついた注射器のようなものが刺さっていた。これはニコラスの持つ銃のようなものから発射されたのだと理解し、ディスカバリーチャンネルで見るような、動物を捕らえるための麻酔銃なのだと分かった。


 少女は犬の尻尾を握りしめたまま座り込むと、ゆっくり寝転がり眠りに落ちた。少女の髪は明滅し続ける微かな明かりを受けて、黒い宝石のように輝いていたが、ゆっくりとその姿を白銀の川に変えていった。


 そこにはいつも一緒に遊んでいる、見慣れた銀髪の髪をしたミシェルが寝転んでいる。


 ニコラスは腰のホルスターに麻酔銃をしまい、吟味するかのようにルークの目を覗き込んで言った。


「ルーク、家に帰りなさい。そして今夜見たことは忘れるんだ」


 ニコラスはポケットからミシェルに時々与える睡眠薬と精神安定剤入りのキャンディをルークのポケットにねじ込んだ。ルークはそうは教えてもらえなかった。


 アルマは眠っているミシェルを抱き上げて子守唄を歌った。


 ニコラスは白いものが混じってきた髭をジャリジャリと擦りながら、ルークを見ていた。アルマには先に車に行っていろと促すように顎をしゃくって見せた。アルマに抱きかかえられているミシェルを見ながら、ルークは言った。


「ミシェル? 今のはミシェルだったの? ミシェルは病気なの?」


 ルークの頭には不安と好奇心の色が浮かび上がりながらも困惑していた。


 ニコラスは視線を落とし、困ったような笑顔で答えた。


「そう……なのかもしれないな。あの子を助けるために……。あの子の為に今日起きたことは黙っていてくれるか? 頼むよ。苦労をかけるが……」


 ルークが頷くと、ニコラスは涙を流してルークにすがった。


「すまない。すまない。すまない……」


 何度もすまないと繰り返すニコラスの肩にルークは手を置いた。その目には光が宿っていた。


「僕が……ミシェルを守るよ」


 その言葉どおりにルークは十二歳でミシェルと付き合い始め、二十一歳で結婚した。

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