第30話 アマンダ・ホープ

 ――アマンダ・ホープ、十三年前。


 アマンダがまだ二十九歳の頃――。


 アマンダ・ホープはその日、息子ジェイソンと買い物へと出かけていた。食料品店『Nsエヌ・ズマート』の駐車場に車を停め、心もとない財布の中身を数えて当時を思い返す。早い反抗期のせいなのかは分からないが、ジェイソンの尽きないわがままに心も身体もほとほと疲れ果てていた。


 父親は去年――ジェイソンが五歳の誕生日の年の夏に家を出ていった。元々働かない自堕落な男だったのもあるが、ジェイソンが産まれてからは多少マシになっていたのだ。ジェイソンのことも可愛がっていた。それでも性格の根本的な部分は変わらなかった。仕事にありついてもすぐに辞めてしまう。案の定、父親は働きもせず酒に逃げるようになった。そんな父親でも家にいる間、ジェイソンは父親が大好きらしく、よく懐いていた。


 一方でアマンダは、そんな息子が疎ましく思えていた。愛しているが、何をしてもダメな父親の面影が日に日に濃くなっていくのだ。あの目、あの口元……。


 ジェイソンの父親が出ていく前から鬱病の症状は出始めていて、処方された薬をしばらく飲んでいなかったアマンダは、ウェイトレスの仕事を休みがちになり、貯金も底をついてきていた。アマンダはジェイソンの手を引きながら食料品店『N’sエヌ・ズマート』の入口をくぐって行く。


 アマンダはそこにマリファナの売人がいるのを知っていた。やせ細った男であり、この店の店長でもあり、以前付き合っていた男。アマンダは鬱病の薬の代わりに、質の悪いマリファナの虜になっていた。初めのうちは昔付き合っていたこともあって、安く手に入り、尚且つ恐ろしくスッキリする。今のアマンダにとって、これ程都合のいいものはなかったのだ。


 アマンダは『N’sエヌ・ズマート』のトイレでマリファナを受け取ると、さっそく火をつけて片手で吸い、もう片手で男の股をまさぐっていた。足りない代価、そのついでに自らの快楽にも身悶えていた。


 だが、その依存性が表面化すると、マリファナを手に入れるために簡単に昔の男に身体を許すようになっていった。快楽と欲望と、一時の育児から解放されたいが為に。


 ――アマンダの身体を弄び、快楽を味わい尽くした男は、薄汚れた便座に座って幻覚の中に逃避しているアマンダのバッグから車の鍵を盗み取った。アマンダの車に乗って、行く先々で友人たちを誘い遊びに行った。どうせ、いつものようにしばらくは現実世界に戻っては来ないのだからバレっこない。知らぬはアマンダ自身のみ。



 ***



 ――ジェイソン・ホープ、生前の足取り、十三年前。


 ジェイソンは店内をひとり歩き回り、母親を探していた。『N’sエヌ・ズマート』に来るとすぐに居なくなる母親。ジェイソンも初めは隠れんぼを楽しんでいた。いつも店内で居なくなり、上機嫌で突然現れて驚かし、優しく抱きしめて安心させてくれていたのだ。しかし、この日は違った。いつまで経っても母親が見つからない。もう降参だよと呼びかけても棚の陰から出てきてはくれない。


 やがて不安から涙を浮かべ、店内を半狂乱になりながら探し回った。その様子を見ていた誰もが助けてはくれなかった。やがてジェイソンは外を探すようになった。


 きっと、お母さんは僕のことなんて忘れて帰っちゃったんだ。停めたはずの所にお母さんの白い車も見当たらないし。買い物が終わってそのまま家に帰っちゃったんだと結論づけた。あら大変、ジェイソンと卵のパックを忘れちゃったわ、という具合に。そう自分を納得させ、ジェイソンは自分の家に向けてその足を進めた。


 太陽が色を変え、その身を山々に沈めていこうとしていた。喉が乾き、横腹がずきずき痛む。歩き疲れたジェイソンは泣きべそをかきながらガソリンスタンドの店内を覗いていた。すぐ手の届く所に大好きなコミックブックやジュースが並んでいる。よく来るこのガソリンスタンドの店主は恐ろしく怖い顔をしていた。友達のお母さんたちが言っていたとおりなら、イラクへの派兵で片目と片腕を失ったらしい。それを裏付けるかのように海賊のような黒い眼帯と輪っかの付いた義手をつけていたが、その大きな傷は額から顎にかけて伸びていて、眼帯ではほとんど隠しきれていなかった。本人は気にすらしていない様子だ。子供たちからすればピーターパンの絵本に出てくる海賊そのものだった。


 ガラス窓の向こうにいる“海賊”と目が合ったジェイソンは、頭を隠し様子を伺った。もう一度中を覗くと、“海賊”は新聞を広げて、視界に入る鬱陶しいものを追い立てるように新聞を引っ張ってパンッと音を立てた。まるで、“そこにいろ、中に入って来たらワニの餌にしてやるぞ”とでも言っているようだ。


 うっすら空に星が見えるようになり始めると、ジェイソンのすぐ側を黒い大きな車がタイヤをキュキュッと擦りながらガソリンスタンドに入ってきた。


 黒い大きな車の真横には“デビル・ジョロキア”と緑と赤のペンキで大きく書かれていた。車内では爆音で激しい音楽がかかり、黒いレザージャケットを着て、化粧を施した男が四人乗っていた。中のひとりがジェイソンを品定めするように熱く見つめてくる。その様子を見て、ジェイソンは生唾を飲み込み、“怖いもの”がいない家に早く帰ろうとまた歩き始めた。


 それを遮るように車からひとりの男が降りてきて、見た目とは違う、人懐っこい笑顔でジェイソンに話しかけてきた。


「よぉっ、どうした? お前ひとりか? 母ちゃんか、父ちゃんはどうした?」


 ジェイソンは躊躇いがちに言った。


「スーパーマーケットではぐれちゃって……母さんが僕の事を忘れて帰っちゃったんだ。だからここまで歩いてきた」


 男は車内の男たちとなにやら目配せをして頷きあって言った。


「なぁ、俺たち“デビル・ジョロキア”ってバンドやってんだ。知ってるか?」


 ジェイソンが首を横に振ると、車内で顔を覗かせていた男たちはまだまだだなと笑い声を上げた。


「そうだ、これから面白い実験するんだ。お前もついてこいよ。それが終わってからでいいなら、家まで送ってってやる」


「いや、でも……」


 そう言い戸惑うジェイソンに、男はいい事を思いついたように言った。


「それじゃあ、男同士の交渉といこうか。実験に付き合ってくれるなら、ここで最新のコミックブックとジュースも買ってやる。それから、ちょちょっと手伝ってくれるだけでいい。男同士の約束だ。どうだ? 魅力的な提案だろう?」


 ジェイソンはズボンの裾を握っていた手を緩め、店内にあるコーラとコミックブックを代わりに指さした。そして言った。


「交渉成立だね」


 ジェイソンはコミックブックとコーラ片手に、乗ったこともないような黒い大きな車に乗り込んだ。中にいる他の三人のバンドマンによろしくと言った。


「やぁ、僕はジェイソン、ジェイソン・ホープ」


 運転手の男が車を発進させようとした瞬間に急ブレーキを踏んだ。車内にいた全員がつんのめり、なんだなんだと騒ぎだす。


「おいっ! 危ないだろ? そんな所につっ立ってやがって!」


 黒い大きな車の前では、黒髪の少女が裸足でつっ立っていた。もしかしなくても、もう少しでこの女の子は轢かれるところだったのではないかとジェイソンは思う。手に持つコーラが少しこぼれていた。次にこぼす前にと渇いた喉を潤すことにした。


 運転手の男は気を落ち着けたようで、再度話しかけた。


「どうした? お前も迷子なのか? 今日はそういう“クソッタレ”な催し物でもありやがるのか?」


 少女は何も答えず、風に揺られる稲穂のようにフラフラと身体を左右に揺らすだけだった。埒が明かないと、運転手の男は車を降りた。車のスライドドアが開くと、運転手の男は、何も答えない少女を中に乗るように促す。腰まで届く黒い髪をした少女は、ジェイソンの隣りに座った。どこかぼんやりとしていて、ジェイソンはテレビ番組で見た催眠術にかかった人を連想した。ジェイソンは本当に綺麗な子だと思った。どこかのテレビドラマの番組から出てきたような美しさだ。どこに住んでいるんだい? そう聞いたジェイソンも、ほかの男たち同様相手にされていないようでなにも答えてはもらえない。ジェイソンは手にしたコミックブックの表紙をめくった。ふたりが黒い車に揺られながら去っていくのをガソリンスタンドのカメラは見送った。



 ***



 ガソリンスタンドの“海賊”こと、レオ・フレデリックは新聞を読み終わると畳み、化粧をしたホモ野郎にコミックブックとコーラを売ってやった。ガラス窓の外にいたクソガキがどこかへ行ったのを確認して、鼻で笑って、うたた寝を始めた。


 子供たちが連れて行かれる一部始終をガソリンスタンドのカメラのレンズは見ていたが、その防犯カメラはダミーだと街のみんなが知っている。金がもったいないと、バーで酒が入る度にレオ・フレデリック自らが口走り、そして戦場での作り物の英雄譚をさえずるのを街の大半の人間が知っている。


 あのカメラは作り物で、たったの三ドルで買った、中身が空っぽのプラスチックだと言ったのだ。


 実際、後に警官はそう証言するのを聞く羽目になった。

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