第37話 ロブ・ハーディング 《sideダイス》

 ロブ・ハーディングは草陰にじっと潜み、獲物が来るのを待つ。やがて暗闇が訪れ、腹が減るのを感じる。いつまでそうしていたかは分からないが、深く深く、本能的な面で獲物を狙う獣になっていた。


 しばらくすると、被疑対象であるルーク・アルバラードが車で戻ってくるのを確認した。草陰からアルバラードの家の外壁へと移動を開始する。


 いつでも対応できるよう、右手を腰のホルスターの上に軽く置いた。


 車が家の前に止まる。姿を確認することは出来ないが、玄関が開き、閉まる音が聴こえる。裏手に位置するこの場所から見える範囲で、それを証明するかのように、沈んだ陽に合わせて家の中の電気が順についていく。幸運なことに隣家には人気を感じず、今も明かりはつかない。


 やがて動きがあった。


 物音やくぐもった叫び声から、なにやら夫婦喧嘩のような揉め事が起きているのは間違いないだろうと思う。


 だが、まだ踏み込むわけにはいかない。


 確たる証拠を掴まなければ捉えることも、ましてや、“亡霊”の鼻先に銃口を突きつけることも出来ないのだ。待つのだ。決定的瞬間を。


 ふつふつと蘇る死の記憶。



 ***



 ――五年前。


 夕暮れ時、暑さから汗が頬を垂れる、それを袖で拭う。その日はいつもとは違い、警察の犯罪現場を知らしめる黄色いテープが家中を囲っていた。テープを手で押し上げて歩み寄る。なにかに誘われるように実家の茶色い扉に手をかけ、取っ手を捻る。


 後方に控えるふたりの刑事は、疑いを持ったような顔で見つめている。


 中に入った途端に生ゴミをひっくり返して、煮詰めたような臭いが鼻をかすめる。


 開け放った扉の前で冷たい空気と、それらの見えない生暖かい空気が混じり合うのを感じる。


 まだ陽は見えているが室内は暗く、カーテンが引かれていて、光が入らないせいか真っ暗闇で、ポケットから取り出した携帯電話の心もとない光だけが空間を切り取ったように世界を映し出す。


 手探りで電気のスイッチを入れるが、反応がない。


 踏み出した足がガラス片を踏みしだく音が聴こえる。まるで現実世界が砕け散る音のよう。


 数歩先で床板の色が変わる。知る限りではなにもないはずだが、なにか暗い色のものをこぼしたような色だ。この先には居間があり、母親がこだわって買い集めたそれらの家具がある。重厚な厚みのテーブルが鎮座しているはずだが、そこには何もなく、そこにあるはずのテーブルは重力を無視したかのように壁を突き破ったまま刺さっている。


 呼吸がどんどん早まる。垂れる汗が急激に冷えたのか、冷たい汗になって背筋を滑り落ちていく。


 一体なにが起きたのかは分からないが、それらが常軌を逸しているのだけは分かる。心臓が早鐘を打ち始め、頭が呼応してずきずきと痛み始める。


 一歩踏み出した頭に何かが触れ、びくりと身体が仰け反る。それに手を伸ばし思わず手で触れた。携帯電話のライトを向けると、父親のお気に入りの安楽椅子が半分に砕けて天井に突き刺さっている。これに頭が当たったのだと気付いた。


 怖くなって光のあるはずの窓へと走るが、なにかに足が滑って背中を打ち付けた。その衝撃で先程の天井に突き刺さっていた椅子が落ちてきて派手な音を立てる。幸い当たりはしなかったが、静まりかえっていた部屋に音が反響して、あらゆる方向から物音が聴こえる気がする。それがさらに恐怖を駆り立てた。


 震える脚でたどり着いた黒い窓枠がぬるぬると滑る。なにか不快なものを触ってしまった感覚にライトを向ける。


 だ。黒いのではなく、がその窓枠全てを埋めつくしていた。震えにつかれ、力の抜け続ける脚でよろよろと走った。階段をかけ登り、この家の中で一番安心できる場所へと向かって。


 廊下を抜け、自分の部屋のドアを押し開ける。中に入ってドアを閉めると、開かないように背中で蓋をする。


 階下とは違い、窓から射し込む夕陽が手のひらの赤いものを照らし出した。腐臭がその手のひらから臭う。思わず床板に手を擦り付ける。


 ようやく気付いたそれは、手も足も、転んだ時についた背中さえも、赤黒い血に塗れていた。それがなのだと理解すると、ロブは叫び声を聴いた。それが自分の声だと気付くまで、そして気付いてからも叫び声を上げ続けていた。



 ***



 ――現在。


 復讐の憤りから、いつの間にか呼吸が荒くなっていたロブは、落ち着くよう自分に言い聞かせる。見上げると星が消え入りそうな光を投げかけている。風が少し強くなって肌寒くなってきていた。だが、そんなことはどうでもよかった。今は務めて冷静に、復讐に身を浸すこと以外考えられなかった。


 やがて家の中から女の抵抗するような物音と叫び声が聴こえ始める。あの男の妻の声だろうかと推測。


 そうだ。いいぞ。殺せ。僕がその途端、風のように飛んでいって、現行犯で撃ち殺してやる。


 男の叫び声も聴こえる。激しい抵抗にあっているのだろうか? どうせならどうやって殺害し、遺体をどこに隠しているのかも知りたいが……。それは欲張りというもの。この世から“亡霊”を消せるなら、些細なこと。それとは別に、揉み合いになって相手が負傷しているなら好都合だ。生傷を抉り、拷問も視野に入れようかと閃く。室内から続く怒号、そして快楽に狂うような笑い声、あの男のものだろう。


 やがて水を打ったように静まり返る。


 ロブは拳銃の弾丸をいつでも撃てるようにと確認する。辺りの様子も確認。どうやらこの騒ぎを聴きつけたものはいない様子。好都合。


 ロブは家の裏手へと忍び寄った。裏庭の外壁を乗り越えて降り立つと、グリーンハウスの中でたくさんの花々が腐り落ちているのが見える。過去、これらは咲き誇っていたに違いないだろうが、今はその面影だけだ。先程、ロブが踏みつけた土をそっと散らして誤魔化す。


 突如、玄関の方からバンッと強く開ける音が聴こえて警戒し、身を低くする。


 見つかったのかと思い、家の壁に張り付いて警戒するが、しばらくなにも起きなかった。物音もしないし、女の声も男の声も聴こえない。


 それから、救急車が猛スピードでこちらへと向かってくる音だけが聴こえて来る。


 救急車が来ることは想定外だったロブは身を硬くして息を殺した。


 呼んだのか、それとも呼ばれたのかは分からない。くそ、誰か見てやがったのか? どちらにしろ、今、部外者に見つかるわけにはいかないとロブは考えを巡らせる。


 耳をそばだて身を潜めていると、やがて緊迫した声が聴こえて来る。


「妻が! 妻が階段の修理をしている時に転がり落ちたんだ! ネックレスに首の肉が引っかかったまま落ちてしまったんだ! 助けてくれ!」


「あなたは旦那さんですか!?」


「そうだ! 頼む! 急いでくれ!」


 やりとりが聴こえなくなり、救急車がサイレンを響かせて去っていくと、ロブはその場から通りに面する家々を覗き見た。少し離れた家々から救急車のサイレンに惹かれた、物見遊山の人々が何事かと次々に外に出てくる。


 上着の内ポケットからナイロン手袋を取り出すと、手にはめて裏口の取っ手を回した。取っ手は拒絶するようにガチャンと音を立てる。


 どうやら鍵がかかっているようだ。


 裏口の傍にあるガラス窓を肘で叩き割り、割れたガラスを避けて鍵を捻りあげたが、ガツンとなにかがまだ引っかかっている感触が手に伝わった。


 角度を変えて窓枠の観察をすると、釘が打ち付けられ、窓がそれ以上は開かないように細工されているのが見えた。


 割れたガラスの隙間から手を差し入れ、釘を掴んで横に小刻みに乱暴に動かし続けると、やがて緩くなった釘が力なく抜ける。ポケットに釘を入れ、ハンカチを靴底に巻き付け、開くようになった窓を開けて中へと侵入する。


 裏口の扉に目をやると、鍵が五つもかかっているのが見える。ひとつでも防犯の役目は事足りるであろう鍵が五つもある。


 ロブはその様子に、なにか並々ならぬ強迫観念があるのだろうと結論づけた。


 次にロブはキッチンにあるテーブルの前を通り過ぎ、頭の高さにある戸棚を開けた。


 所狭しといくつものコーヒーが立ち並んでいる。異様な光景ではあるが、それだけではなんら証拠にはならない。


 廊下を進み、階段の下まで行くと、争った形跡と、なにかを引きずった血の跡が居間へと向かっているのが見える。


 階段の辺りには血が点々と粒を残しているのが見える。


 本当に転がり落ちただけか? ルーク・アルバラード。


 跡を辿り、居間へと向かう。ソファーの上に大量の血痕が見えた。傍には血がついたペンチが落ちている。それと、血の中に埋もれた、まだ髪の毛がついている肉片と皮膚組織。その中になにか細長い肉片。


 ロブは上着の中からペンを取り出し、つついてみる。


 簡易ながらも、予想だててみる。ここでこのペンチを使い、妻を傷つけた。家庭内暴力にしては血の量が普通では無い。これが“亡霊”の所業なのだろうか? ことの後に、救急車を呼んだのだろうと思う。


 だが、なぜだ? 殺すつもりはなかったと言うことか?


 階段に残る血の跡を踏まないように二階へと登る。通路に寝室と客室がある。反対側はおそらくバスルーム。血の跡を追い、一番奥の客室をそっと開ける。真っ白に塗られた壁紙が眩しい程だ。その四方のどの壁にも血が散発している。それが重力に引かれるように壁を滑り落ちていこうとしていて、足元には工具類が散らばっている。


 状況からして、ここで最初に揉めた。そして争って血が飛び散った。足元には切られたロープが落ちている。


 これで妻をベッドに縛りつけようとしたか、または逆に縛られかけたか。なるほど、と思う。興味深いが、これだけでは証拠足りえない。


 ロブは部屋を出て、二階の廊下を進む。主寝室であろう部屋を眺めて歩く。


 ベッド脇のサイドテーブルの端をそっと撫でると埃が積もっているのが見て取れる。


 どうやら、しばらくこの部屋は使われていないようだと締めくくる。


 ロブは階下へと戻って、居間に面する、書斎らしき部屋のドアを見つけた。ガラス面は割れているが、ガラス片は落ちていない。今ではない時に割られたのだと思う。


 そっと中の様子を伺う。


 人の気配はないように思える。ルーク・アルバラードは付き添って病院へと向かったはずだ。


 泥棒のように辺りを伺う。誰もこの家には居ないはずだが、落ち着かない。見つかれば不法侵入で訴えられるぞと心の声が諭してくる。だから、見つかるわけにはいかない。顔を覆うものも用意すべきだったかとも思うが、今となってはどうしようも無い。


 書斎に入ると、本棚が部屋を囲うようにあって、中央にデスクがある。デスクにはノートパソコンと書類の束。予想通りここは書斎のようだ。


 そういえば、奴は小説家だとダイスさんが言っていたなと考えをまとめる。つまり、ここが普段いる場所。


 それを示すかのようにガラスの額に入った“女神ミューズ”の本、それも直筆のサイン入りと入っていないもの数冊。


 本棚には『解剖学』『心理学』『薬学』『二重人格』特に多いのがに関しての本だ。そして二番目に多いのはに関しての本。


 腕時計を確認。


 そろそろ時間切れだなと舌を打つ。ルークが病院からすぐに戻って来るとは思えないが、すでにかなりの危険を犯してしまっている。帰りを待ち受け、撃ち殺すのは容易だが、証拠たり得るものがない。


 立ち上がろうとしたロブが本に手をかけたまま立ち上がると、なにかがカチンと軽い音を立て、本棚が重力を無視したかのように滑って移動し始める。


 手にしている傾いた本には中身がない。表紙の形をしたプラスチックの容器の奥に、スイッチが見える。


 その表紙には『家庭料理』と書かれている。


 動いていた本棚に手をかけてスライドさせる。どうやら下には見えないレールのようなものがあるのだと理解する。その先には地下に続く闇色の階段が続いているのが見える。


 ロブは腕時計を見て焦りを濃くする。


 だが、ようやく見つけたかもしれない手がかりを前に、二の足を踏んでいる場合ではない。


 携帯電話のライト機能を頼りに階段を降りていくと、すぐになにかの“薬品”の匂いに気がついた。


 降り立った地下は真ん中に一本柱が立っていて、壁際には瓶の並んでいる棚がいくつもある。どこか神殿を思わせるほど、整然としている。


 中央の柱の傍には、約二メートル四方のコンクリートに囲まれたプールが見える。その真上には換気扇。


 階段横の薬品棚に並ぶ瓶類が、当てたライトの明かりで不気味に光っている。隅にはドラム缶が数本。


 壁にかかるゴム製エプロンと長靴。なにかのタンクが二組。


 ロブはそれに興味を惹かれ、タンクに寄っていく。ライトがそのラベルを浮かびあがらせる。物々しい正体がようやく分かる。液化窒素のガスタンクだ。それにガスマスクが三つ。


 一体ここはなんだなんだ、と思いつつ、確実な証拠の予感に口元が綻ぶ。のための手がかりだ。


 携帯電話のカメラ機能を使い、それらを写真フォルダに次々収めていく。


 ロブは地下を見渡す。中央に位置するプールが、なぜか不安を掻き立てる。背筋を冷たい汗が伝う。渇いた喉がごくりと鳴る。


 プールから漂う薬品の匂いに顔を顰めながらも、中をなんとか覗こうとするが、どす黒いタールのような水が並々と漂っているだけだ。底があるのかすら見分けがつかない。


 ロブはプールの縁に立て掛けてある火かき棒を手に取り、プールの中を掬うように泳がせてみる。


 なにかの切れ端が火かき棒にかかる。


 それをプール脇に落とし、更に掬ってみる。


 釣りをしている時のように、先にあるなにかがコツンと手に伝わる。


 先のフックを引っ掛けて持ち上げる。ずしりとした重み。


 見えてきたのは白い物体。照らす携帯電話のライトが心もとない。手元が震えているのが分かる。それでもライトを近づけていくと、それがなんなのか分かった瞬間、驚き、手を離してしまった。白いものは再びプールに沈む。跳ねた水滴が、焦げ臭い匂いを出して上着に穴を開ける。


 先程、一瞬見えたそれは確かに“人間の頭蓋骨”だった。火かき棒の先で引っ掛けていたのは頭蓋骨の窪んだ穴、本来目玉のある場所に棒が引っかかって吊り上げていたのだ。


 証拠はここにあった。それも確たる証拠、遺体の一部だ。


 つまり、“血染め花のマリー”は、遺体を持ち去りここで溶かしていたのだ。もしかすれば、先程あった液化窒素のガスタンク、あれを使って遺体をバラバラにして運んでいたのかもしれないとも思う。


 そして、それらの証拠はすべて“ルーク・アルバラード”の家の地下にあった。


 ここまで証拠があれば警察組織として動かざるを得ないだろう。例え、自身が不法侵入で上司にこっぴどく叱られ、刑事としてのバッジも取り上げられるとしても。そんな事になろうとも迷いはない。“亡霊”を牢にぶち込めるなら。


 ロブは立ち上がり、携帯電話をかけるが、呼び出し音がすぐにぷっつりと途絶えてしまう。何度もかけるが、今度は繋がらなくなった。地下だから電波が届かないのだと気付き、それならばと電子メールを作り上げながら書斎へと駆け上がる。


 見下ろす携帯電話が電波を捉えたかと思った瞬間、画面に影が映る。見上げた先で視界が陰り、続けてなにかが顔目掛けて振り下ろされたのだと分かった。

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