第24話 葬儀の痛み 《sideダイス》

 霧雨の小さな雨粒が風にあちらこちらへと流されている様子を見ていると、海の波に魅了されるように、なにか大きな波に押し流されてしまいそうな妙な気分になる。


 ダイスは少し小高い並木道の丘から、眼下に見える様子を見やる。少し待たなければと思う。


 雨に濡れた長くなってきた黒髪をなでつける。黒い傘をそっと肩に立てかけ空を見上げた。葬儀は否応にもあの日を思い出させる。胸をぎゅっと掴まれるような痛みが蘇ってくる。去年の妻エブリンの葬儀だ。その日もこんな天気だったと思い浮かべ始めた。


 繋いだ手の先で、ウェンディは歯を食いしばって泣かないよう我慢していたが、それも二分程しか保てなかったし、泣くのは必要な事だとダイスは諭した。自身は画面のしていたが、それは“役割”があるからに過ぎない。


 ひとりでジョンが待つ遺体安置所に踏み入れた時、なにかが顎の下をじりじりと焼くような痛みが走るのを覚えている。張り込みの最中、携帯電話にジョンの名前が表示された時の嫌な予感と同じだ。なにかが突然終わったのだと感じた瞬間。それがエブリンの死なんだと分かったのは遺体を見た時だ。白いシーツをめくり、完全に血の気がなくなった顔、ハンドルか、車のどこかでぶつけた額の傷。それが最後に見たエブリンだ。酒に溺れて交通事故で死んでしまったエブリン。


 仕事で何人もの死を見続けてきた。それでもその時は違ったのだ。俯瞰ふかんで見るような感覚にはなれなかった。


 どこか奇妙で、まるで作り物のような現実味のない寝顔に触れるまで、それが死だとは認識出来なかった。


 ジョンが痛みを分かち合おうと肩に手を置いた時、ダイスは手を振り払った。そばにいるジョンに顔を見られたくなかった。その場から逃げ、そのまま遠くの初めて入るバーに入り浸った。気を失うまで飲み、酔って喧嘩をふっかけ、腫れた顔で起きると財布がなくなっていた。


 路地の暗がりでダイスは悲しみに打ちひしがれていた。ウェンディの手を引いたジョンが探し当てるまで、ダイスはその場に何時間もうずくまっていた。後を追って死ぬことすら考えていた。ウェンディがそれを感じ取ったかは定かではないが、どこにも行かないでと何度も胸を殴りつけてきた。抱きしめたウェンディは震えていた。


 それから、酒に依存するようになり、エブリンの生前の顔が光に包まれていくように徐々に思い出せなくなっていった。いつでも思い出すのはエブリンの死に顔と骸骨の顔。それと、フラスクにある写真の中のエブリンの笑顔だけだ。


 ダイスは頬を叩き、集中しろと自分に言い聞かせる。ようやく嗅ぎつけた場所の雰囲気に飲まれそうな心を奮い立たせて“刑事”としてのスイッチをむりやり入れる。


 ダイスは大きな木のそばで黒いスーツに身を包み、寄りかかるようにして“アルマ・アルバラード”の葬儀の様子を見ていた。参列者はわずか三人ほど。そのうちひとりは神父だ。神父が離れていき、さらにふたりほど、アルマの旦那らしき男を残して離れていく。ルーク・アルバラードが黒い傘の中で、妻らしき女性の肩を抱きながら車の方へと歩くのを見ていた。


 なんて偶然だとダイスは思った。このルークとは先週、『セント・ドミニク病院』で会ったばかりで、小説“女神ミューズ”の作者だ。読み終えた本には彼のサインが残っているし、まだベッド横のサイドテーブルにある。鏡の中と現実世界とで愛し合う恋人たち。それぞれの世界で現在の恋人たちを焼き殺していた。この本のテーマは“愛の証明”。


 皮肉なことに彼はこうも言っていた。


(妻とは違う人を愛してしまっている。そして、僕は彼女に会うためなら、。そう、――)と。


 どんな人間にも存在し得る“狂気”の存在を感じ取った瞬間だ。


 ダイスはこちらが見えるようにゆっくり歩み寄り、抑揚のない声をかけた。


「こんにちわ。俺を覚えているかな? 病院で会ったんだが……」


 ルークが憔悴しきったような青白い笑顔を向ける。隣にいる奥さんはもっと酷い顔色だ。


「あなたはたしか……ダイスさん?」


「そう、覚えていてくれたんだね。実は、少し聞きたいことがあってね」


 ルークはひとつ頷き、どこかぼんやりした様子の、白銀色の髪をした妻を車に乗せると、ダイスのそばに戻ってくる。事情聴取される直前、後ろめたい事がある者には特徴がある。警戒して手を握りしめ、強ばりを見せる者、攻撃的になる者、怯えや焦りから、秘密が喉もとまで来るもの、等などとたくさんあるが、これらはどうかと、ちらりと盗み見る。ルークのポケットに入れられた手が膨らみを見せる。恐らく握りしめているのだろう。警戒したようなその素振りは、どこか秘密を内包している。


「と言うと?」


「彼女、“アルマ・アルバラード”さんは生前、どんな方だったんだい?」


「……それは、事情聴取ですか?」


「そうとも言えるね。こちらも仕事なんだ」


「刑事さんでしたか。なるほど、アルマは、彼女は立派な女性で――いや、でした。花が好きで、明るく、誰にでも親切で優しい、そんな方でした」


 ルークが過去形に言葉を変え、その事実を飲み込んだ直後に軽くジャブを放つ。


「そうだ。そんな女性が、なぜ十三年前に遺体安置所に訪れたか想像つくかい?」


 ダイスはルークが驚く表情を細かく分析する。


「遺体安置所に? なぜそんな所へ?」


 目立つ違和感はないが、なにか変だ。これは……怒りだろうかとパズルのピースに変換する。“警戒”、そして“怒り”のピース。当てはまるかは後だ。


「それを調査しているのさ。どうやら、仕事として本人に事情を聞くことは出来なそうだがね。ところで、彼は……その、話しを聞けそうかい?」


 故“アルマ”の夫である“ニコラス・アルバラード”は、泥に塗れた大地に座り込み、小さく丸めた背中が降りしきる雨に濡れ続けるままになっている。“ルーク・アルバラード”はその背中をしばらく見つめて小さく唸る。遠慮してくれと言いたそうに見つめてくる。


「……無理そうなら、日を改めるよ」


 ダイスがそう言うと、ルーク・アルバラードは安堵の吐息を洩らした。疲れた顔で笑顔を作る。警戒が緩んだと見る。“秘密”、“警戒”、“怒り”だ。


 ここからは興味から。


「お手間を取らせたね。じゃあ、また……そうだ、ひとつだけ。刑事の悪いクセなんだが、気になったら聞かずにはいられないんだ。奥さん、病気なのかい? 少し話しはできるかい?」


 ルーク・アルバラードは頭をかき、項垂れながらなにも言わず、少しイラついた様子を見せる。さらなる“怒り”だ。


「そう、子供の頃から精神が弱いところがあるんです。だから……」


 ルーク・アルバラードは両の手のひらをこちらへ向け、拒否を表す。張り付いたような笑顔のままだが、目の奥には静かな闘志が垣間見える。


 もう少しつつきたくなったダイスは、今にも精神ごとくず折れてしまいそうなニコラス・アルバラードの方へと歩み寄って行った。


 その肩に力強く手がかかる。


 ダイスが振り返ると、先程とは打って変わった穏やかそうな笑顔はもうない。食いしばった歯を剥き出し、今にも噛み付いて来そうな怒りに満ちた顔だ。その口からは言葉は発せられなかったが、押し付けるような意思はありありと見える。


 これがこの男の“負”の本性なのだろう。誰しもが持ち得る“裏の顔”と言うやつだ。つまりは“狂気”。腑抜けた笑顔の仮面をつけているよりよっぽど好感がもてる。どうやら、彼の“弱点”は“妻”と“義父”らしい。


「分かった、分かった。悪かったよ。今度こそどこかへ消える」


 ダイスはその通りにした。

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