ミューズ

第27話 監禁 《sideミシェル》

 ある日の朝、窓の隙間から忍び込んでくる冷気に腕をさすられて目覚めると、お気に入りの小さな腕時計をしたまま眠ってしまっていたことにミシェルは気がついた。


 小さなクローバーがついたかわいい腕時計だ。ルークから去年のクリスマスにプレゼントされたもの。そうだ、もうすぐクリスマスではなかっただろうか? とミシェルは頭を傾けた。それに、これはこの部屋になかった。いったいいつ、腕に付けたのだろうかと頭を巡らせるが思い出すことが出来ない。腕時計を壊してはいけないと思い外した。ベッド脇のサイドテーブルに置いて手首を擦る。手首の包帯に血がついているのを見つけた。手首の縫合跡が裂けて血が出てきたのだろうかと疑う。


 腕時計を外した場所には、四葉のクローバーの形に沿うように包帯に跡が残っている。腕時計の裏側に血がついていたのか、包帯の血は乾いてパリパリになっている。


 シーツにも血の跡がポツリポツリとついている。


 初めて初潮がシーツに赤い花を咲かせていた記憶がぎる。


 おかしい。妊娠してからは生理はきていないのに、血が? これが本当に血なら、赤ちゃんが流れてしまったかもしれないという恐怖が背筋を駆け抜ける。慌てて布団を蹴り飛ばす。自らの股間を見下ろして確認する。だが、濡れてすらいない。ちゃんとパンツも履いたままだ。


 お腹を擦り、安堵のため息を漏らした。


 ミシェルは裸になって鏡の前で全身をチェックする。


 どこも怪我をしている様子はない。


 手首の円形の血だけ。まるで腕時計の裏だけが血の海にあったかのようだ。


 必死で昨日あったことを思い出そうとする。


 では、一体全体、誰の血なのか?


 ルークの血なのだろうか?


 そう、そうだ。記憶が浮上して来る。昨日は薬を吐き出したいのに、ルークがなかなか部屋から出ていこうとしなかったんだ。そのせいで、胃で薬が消化され……眠ってしまった?


 そうとも。ルークが脚をまさぐり、下腹部に触れて……その先が思い出せない。おかしい。いくらなんでも記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。眠ってしまったとは違う違和感。まるで記憶が掻き消えたように思い出すことが出来ない。それよりなにより、あれだけ避けてきた薬による胎児へのダメージが心配になる。思わず涙が溢れそうになるが、瞼を力強く瞑って川を塞き止める。


 窓から外を覗いてルークの車がないことを確認した。駆け下りた先では玄関も裏口もやはり鍵がかかっていた。もちろん窓も開かない。


 うろうろと歩き回るミシェルは書斎の前でぴたりと止まった。絶対にミシェルを入れようとしない書斎。一度、掃除だけでもと入った時は、激昂したほどだった。作家という人種はみんなそうなのだろうか? 自分の創作畑をまるで自らの神聖な神との対話を行う神殿のように扱うのだろうか? と頭をひねる。


 ミシェルはキッチンからフライパンを手に持ち、戻ってきて書斎の前に立った。鍵のかかった書斎のガラス窓目掛けてフライパンを打ち下ろした。ガラスは飛び散って絨毯の上に雨のように降り注ぐ。ガラスのあった隙間から手を差し入れて鍵を外した。


 ルークの書斎は、桜材のデスクが部屋の真ん中に鎮座し、両側の壁には本棚が備え付けられている。それらはルークが“女神ミューズ”を書き上げ、本として売られるようになった時にニコラスとアルマからプレゼントされたものだ。


 この家に越してくるまで、ルークは実家の寝室の片隅で原稿を書いていたことを思い出す。本棚にはたくさんの本が並んでいる。そのどれからも付箋がベロのように飛び出している。(精神心理学、脳障害、薬学と精神、多重人格障害……)本を書くのに必要だからとルークは色々な本を買う。


 探りを入れるミシェルが、そこにあって欲しくないものは何も無かった。ミシェルは安堵した。ルークへの疑いが晴れたのだ。とりあえずはだが。ここには何かとんでもないものがあるのかもしれない気がしていたのだ。それこそがひっくり返るほどのものが。


 ミシェルはデスクの上の書きかけの原稿用紙を手に取った。そこには設定資料らしきものが多数あって、その中でも、いくつか〇で囲ってある。


(解離性同一症、憑依型と非憑依型、 健忘症に伴う記憶の空白期間)


 一際大きく囲ってあるものもある。


『誘導イメージ療法と薬による催眠』


 タイトルらしきそれと、序章の数行ほどしか書かれていない原稿用紙を読んだ。その先には真っ白な紙が何層にも積み上げられているだけだった。


 おかしい……あれほど……二年間も時間をかけてこれだけなのだろうか?


 原稿用紙を元に戻す風圧で、一枚のメモがデスクの隙間から落ちてきた。ミシェルはメモを拾い上げる。その紙は月日を経験し、いくつもの黄昏たそがれを受けたように黄色く変色していた。


……。どんな事をしても』


 ?……聞いた事もない名前だった。少なくとも自分の知り合いにはひとりもいない。


 この女がルークの浮気相手なのだろうか? だが、走り書いたメモの様子はここ最近書かれたようには見えない。ズキンと差し込むような、うなじの痛みに顔をしかめる。


 続いてじりじりと焼け付くように痛むこめかみを揉み、しばらくメモと睨めっこしながら考えて、馬鹿げたひとつの結論に行き当たった。


 まさかとは思うが、最近ニュースでやっている様なことをしているのは、ルークなのではないだろうか?


 ミシェルがしばらく押し込められている部屋にはテレビがない。以前はあったが、撤去されている。二階の踊り場にある古びたパソコンもいつの間にかなくなっていた。ルークがやっていることは、自分のリハビリのためであろうことは明らかで、薬で眠らせる。安静にする。世俗から切り離す。というものだ。今までそうやってきたのだ。それに効果があるかどうかは分からないが。


 だが、ルークには誤算がある。部屋のドアには鍵が掛からない。これはアルマが発見し、直接ミシェル自身が話しをしたのだ。


 あら、大変。鍵が壊れてるわよ。という具合に。


 それでも、念には念を入れられ新たな鍵まで取り付けられていて外にも出られない。ミシェルはただただ、ゴミ箱に捨てられている新聞を読み、ルークが帰ってくるまで、子供が悪さをするかのようにコソコソと冷蔵庫から食料を盗むことだけだった。家の中には刃物という刃物が全てなくなっていて、ミシェルは獣のように歯でハムの包装ごと噛みちぎり、口に運ぶ。これが唯一できる事だし、お腹の子供のためにも栄養は必要だ。ルークの作る少量の料理では足りない。不足がちな栄養も補わなければならない。リスクを犯して軟禁部屋から出るのは価値がある。ゴミ箱に捨てられている新聞から得られる情報というのはもっと価値がある。なにしろ、それだけで金が動くほどだ。


 そして、知ったのだ。最近、この近くで殺人が多発しているのだ。それも“血染め花のマリー”関連で。


 最近、近所で起きていた事件に、ルークは関わっているのではないだろうか? そして、このメモの女が殺人鬼であり、自分のストーカー……そしてルークは共犯者ではないのか? もしかしたら、全てこの“女”が原因なのではないだろうか? ルークをたぶらかし、邪魔な自分を殺そうとしているのではないか?


 ありえない。ありえないし、考えたくもない。だが……ルークが呼びたくない警察に、浮気と女の気配。おまけに今の監禁と監視の状況とで、辻褄は合ってしまう。


 ミシェルは悪い考えを振り払うように頭を振った。


 ぱきっと乾いた音が鳴り、ミシェルはハッとして音のした方へと目を見開いた。ルークが書斎の戸口に立っていたのだ。


 割れたガラス片が足元に散らばっている。先程の音はルークがガラスを踏んだ音なのだと理解する。


 ミシェルはルークのいつもの優しい眼差しとは違う、恐ろしい海の底のような冷たい瞳を見た。


 ――この視線は、うなじに感じていたストーカーのものと酷似してはいないか?


 やっぱり……信じたくないけど、本当にルークが?


 一瞬の同様と間。


 空間が歪むほどの気まずさ。


 ルークは氷の眼差しの下にある口から、ゆっくりと言葉を押し出す。


「ミシェル……何を見た?」


 そう言い、ミシェルの元へと歩みを進めた。


 ミシェルは怖くなった。目の前にいるのが夫のルークではなく、よく似た別の人物に見える。すくむ足を引きずるようにデスクを挟んで対峙した。


 距離をとり、ルークに捕まるまいと身構える。


 車のキーは玄関脇の棚の上にある。鍵入れに使っている青い陶器の上だ。先程帰ってきたばかりのルークが鍵を置いているのがここからでも見て取れた。


 ミシェルはバスケットボールの選手のようにフェイントをかけ、ルークの脇を駆け抜けた。袖を掴もうと伸ばされた手を払い除けて走る。必死の形相で追いかけてくるルークは怪物のように見えた。


「待つんだ! ミシェル!」


 怖い怖い怖い。やはりルークは殺人鬼なのかもしれない。警察に駆け込めるだろうか? いや、やらなければ。


 ミシェルはかすめ取るように鍵を取り、玄関の鍵を次々に解除していく。


 だが、どうしてもこの新参者の鍵が開いてくれない。


 四苦八苦している間に、ミシェルは背中を抱き込まれるように捕まった。力が強い。振り解けない。腕が鉛のように重い。腕にからめとられている肺に酸素を取り込もうと喘いだ。


 必死に抵抗するミシェルとは逆に、覆い被さるように抱き込んでいるルークは震えていた。それに気付いたミシェルは抵抗をやめた。


 ルークがミシェルの背中に顔を埋め、ミシェルは背中に流れる水滴を感じとる。彼は鼻を啜って言った。


「……もう、限界だ」

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