第22話 泥濘 《sideミシェル》
ミシェルの母、アルマ・アルバラードの葬儀は絶えず降り注ぐ霧雨の日に行われた。墓地は一昨日から続く雨で一帯がぬかるんでいて、歩くたびに腐乱したかのような泥が絡みつくように押し戻ってくる。
ミシェルとルークは黒い服に身を包み、傘をさしたまま静かに寄り添っていた。他に参列者は誰ひとりいない。
神父が安らかな死を願う祈りを捧げ、ニコラスの肩に手を置いて最後の別れの言葉をそっと促した。
一歩前に歩み出る。地面深く埋められた棺を見下ろすニコラスは何も言えなかった。固く引き結ばれた口元が微かに
ようやく絞り出した言葉は皺枯れた声で、少しひとりにしてくれと言っただけだった。神父はニコラスの肩に再び手を置いて去っていった。
ミシェルは先程神父が手を置いていた位置に手を這わせ、ニコラスの肩をさすった。ニコラスは疲れ切った顔で眉根を寄せて、寄り添ってくるミシェルの手を撫でた。次にルークと目を合わせた時、見上げたミシェルには不思議と瞳に火が灯ったように見えた。心無しか怒っているようにも見える。
ルークはそのニコラスの目をじっと見つめ返して何事か言いたそうにしたが、目を逸らしてミシェルのやせ細った腰に手を当てて先を促した。
車へと戻る途中、ルークは歩み寄ってきた誰かに呼び止められた。ミシェルは車で待ってると言った。今はミシェルは誰とも話しをする気分ではない。お悔やみを言われる気分でもない。ひとり車の助手席にいると、車を打つ雨の音が心地いい。心の痛みから逃れるために、不幸な一報を聞いてからは薬を服用していて、ふわふわした心地でいる。それでも、虚無感は拭えず、胸の痛みは増すばかりだ。心の痛みにも効く薬があればいいのにと想う。
降る雨は風に後押しされて右へ左へと向きを変え、形を変える。雨粒のスクリーンからアルマとの思い出が、映写機で映し出されたかのように蘇っていく。
アルマの包み込むような笑顔が鮮明に浮かび上がり、暖かな手を差し伸べている。ミシェルは何度も手を伸ばしたが、雨に濡れるだけで終ぞつかむことは叶わなかった。自身を抱きしめるように骨の浮いた肩を掴んだ。嗚咽をもらし、声を上げて泣いた。
どうかそのまま悲しみを押し流してと乞い願う。
傘も差ささずにニコラスは棺を見下ろしていた。ニコラスの灰色の瞳は、雨に打たれる棺の中のアルマを透かして見ているようだ。アルマだとはとても思えないような赤黒く炭化した遺体だった。事故だった。もっと早く気付くべきだった。アルマには車の運転はもう危険なのだと。ニコラスはその事を終始悔いていたし、アルマの様子にも気付かなかった。なぜあの日出かけたのか、アルマはなにも言わなかったと、その時は眠っていたのだと悔やんでいた。燃え残った枯れ木のような指に残る結婚指輪だけがアルマ本人だと主張していた。
電車とアルマの車が衝突した後、警察が駆けつけた時には赤錆だらけのフォード・レンジャーは、そのままアルマの最初の棺に変わり果てていた。ご丁寧に焼却炉にまでなっていたのだ。
アルマは共に長い年月を過ごした愛車と共にこの世から消え去ってしまった。
ニコラスは老化のため少し曲がってきた背中をもっとまるめ、どろどろになった地面に座り込んでアルマの棺を見下ろしている。その背中を見ていると涙が止まらない。小さく丸めた背中はまるで子供が泣いているように見える。かわいそうでかわいそうで、胸を何度も引き裂かれるようだ。
ミシェルは助手席のドアにもたれかかり、雨に濡れるのも構わず想う。アルマの……母の魂は今もここにいるのだろうか? すぐそばにいて、見守ってくれているのだろうか? 優しい母は笑いかけてくれているだろうか? あの太陽のように暖かい笑顔で。この、頭のおかしくなってしまった娘に、今でも変わらぬ愛を向けてくれているだろうか?
***
次の日の朝、ミシェルは髪にクシも通さぬまま、赤く腫れた目で母の死亡記事を見ていた。新聞の片隅にちんまりと収まった母の死。申し訳ないほど小さく書かれた短い文章。それがアルマがこの世に最後に残したもの。ミシェルはなんとも言えない
ミシェルのその瞳は、新聞を通して遠くを見つめていた。ボードゲームをして笑う母、結婚した時にレシピを書いた手帳をプレゼントしてくれた母、いつも暖かい笑顔を向けてくれていた。アルマの暖かく二回ずつ抱きしめてくれる手にはもう二度と触れられない。もうミシェルは日課のランニングすらもしなくなっていた。手入れしていた裏庭の花々も枯れ落ちて、雑草の中に埋もれている。アビーとふたりで作り上げた店の権利もほとんどが彼女の物になってしまっている。つまり愛想を尽かされてしまったのだろう。
ミシェルはもうひとつの趣味であるろくろを、グリーンハウス横にある小さな簡易倉庫から引っ張り出した。以前は陶芸教室に通っていたが、今ではほとんどやっていない。少しでも気持ちが楽になれればと思ったのだ。土を練り、水を加えて粘土になるまでこねる。ろくろの上に置いて、脇にあるスタートボタンを押した。くるくるとろくろが回り、手を優しく滑らせて形作っていく。心を落ち着かせていないと、力が入り、瞬く間に捻れた粘土の塊になってしまう。粘土がみるみる花瓶の形になっていくと、ミシェルはろくろを止めた。まだ粘土のままの花瓶に“白い彼岸花”を生けて、その上で手のひらに包丁を当てる。切りつけた場所から血が垂れ落ち、“彼岸花”を赤く染めていく。ミシェルは時おりこの儀式をせずにはいられなかった。ルークもこのことは知らない。これをすると心が落ち着くような気がするのだ。何年も抑えられていたが、今回の事があって我慢出来なくなっていた。ミシェルは作り上げた作品を握り潰した。血のせいで赤い粘土になったものは、古いエプロンに包み捨てた。
ミシェルはソファーに座り、悲しみに打ちひしがれていた。ミシェルの隣でソファーに腰掛けている、茫然自失なニコラスは、無気力に水の入ったコップを見つめ続けていた。アルマの死を受けて、自らを責め、その胸を痛め続けている。ニコラスはそのまま日に日に弱り果てていった。
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