第39話 “白と赤” 《最終話》

 バタンと勢いよく両開きの扉が開けられ、壁に取り付けてあるストッパーが派手な音で受け止める。


 病院独特の消毒液臭さを突っ切るようにミシェルは運び込まれた。アルミ製のストレッチャーに乗せられ、白い壁、何かの染みで汚れた白い天井。それらが飛ぶように上から下へと去っていく。白く揃った衣服でストレッチャーと並走しながら見下ろしている見知らぬ人々。


 なにかをミシェルに向かって喋っているが、くぐもっていてよく聞こえない。まるで海の中で、痛みと苦しみの波に揺られているようだ。


 その中でも、やはりくぐもっているが低く抑揚の効いた声が聴き取れる。まるで警官のように何かを制している声。


「これ以上は入れません! 落ち着いて! あなたも治療が必要なんですよ!」


 見下ろした太ももには相変わらずが突き刺さったままだ。その向こう、踵が向いている後方から、血の滴り落ちる耳を押さえたままのルークが、心配そうに後からついてきているのに気がついた。大柄な黒人の警備員が、身体全体を使って、半ば無理やり引き止めていた。


 ミシェルの意識はまだ辛うじて残っていた。細く消え入りそうな意識が漂い、皮肉にも身体中のその痛みが、現実世界と魂にくさびを打ち付けているかのようだ。


 だがこれもいずれは消えていくのだとミシェルは実感していた。最後の痛み。エルザの後頭部に刺さった、たった一本の針から生まれた人格。本来、存在し得なかったはずの自分。胎児の頃にエルザに吸収され、死んでいた意識。


 もう何も考えられない。


 ズクンズクンと後頭部が疼くたびに保っていた自我も、どこかへと意識が溶けて消えていくのが分かる。


 自分が消え、やがてエルザになるのだ。“血染め花のマリー”という名を冠した殺人鬼へと。


 光り輝く手術台の上で、取り付けられたばかりの人工呼吸器が酸素を提供してくる。それを最後の力を振り絞って無理やり押しのけ、ミシェルは絶え絶えの息で言葉を絞り出した。


「わた……し……を……ころし……て」


 光の中の医者はミシェルの手から呼吸器を取り上げ、口元に戻しながら言った。


「まだ諦めちゃダメだ。絶対に助けるから、いいね?」



 ***



 ただただ真っ白な景色だった。


 白い、雪原のような大地に立っている。光り輝くような空、どこまでも伸びる地平線、どれも真っ白だ。いつの間にか、子供の頃にお気に入りだった白いワンピースを着ていた。姿も子供に戻っている。足元を見ると裸足で、よく見ると白い大地だと思っていたそれらは、白く小さな“彼岸花”が埋めつくしているのだと分かる。足裏をくすぐる花々が心地いい。花言葉は“また会う日を楽しみに”、そして“想うはあなたひとり”。こんなふうにたくさんの花に囲まれるのがミシェルの夢だった。嬉しくなり、白い花の絨毯に座って花の冠をこしらえる。出来上がったものを頭に被って歩き回った。


 しばらく歩く。なにもない。木すらない。見渡す限りが白い花の大地だ。それでも構わない。これが“彼岸”であり、“天国”だというなら、満足だ。なにも必要ないのだから。


 やがて眠くなり、美しい大地に身体を横たえる。


 不意に刺すような痛みが首筋に広がる。


 永遠ともいえるほど、長く眠っていた気がする。


 目を開けた先で、空には赤い染みが侵食するようにじゅくじゅくと広がっていく。


 身体を起こし、辺りを見渡す。


 ずっと遠くから五歳ぐらいの小さな女の子が歩いてくるのが分かる。寂しそうな表情の少女が涙を拭うと空から雨粒が落ちた。


 至る所で赤い侵食は進み続けていた。


 輝いていた空は、今では赤黒く曇っている。ポタリポタリと赤い雫が垂れてきて、やがて赤い雨粒となって降り注ぎ、白い花の大地を染めていく。


 少女が歩みを進めれば進めるほど、それは加速していった。


 花々がどんどん染まっていく。それらは“深紅の彼岸花”だ。


 少女はいつの間にか目の前にやって来ていて、初めて他の人間を目の当たりにしたように目を大きく見開いていた。恐る恐る、手にした深紅の彼岸花を差し出して来る。


 ――“そうか……これが……エルザの……”。


 ――瞬間、心臓が跳ね上がるかのように呼応し、全身に電気が走ったように感じた。


 血色の悪く重い瞼を開け、じっとりと汗ばむ手が、すっかり汗まみれのシーツを握りしめている。


 頭をひた打つ鈍痛が視界を歪ませる。顰めた顔で目を瞑ると、光の中に浮かんでいるようにも感じる。天と地さえ曖昧な感覚。


 目に映るもの全てが白く光り輝いていて眩しい。産まれたての赤ん坊は、そんなふうに見えるのだと聞いたことがある。まだ膨らんですらいない腹をさすった。ああ、“想うはあなたひとり”よ、と呟いた。うなじが痛み、残り少ない夢の世界を破っていく。痛みが疼くたびに、戻りたくもない現実の世界へと引き戻されていく。かすかに揺れ動く冷たい風を感じ、震える指で額を撫でる。次にうなじを触ろうとすると、大判のガーゼ素材の感触と痛みが蓋をしている。細めた目で辺りを見回した。やがて目が光に慣れると部屋全体が見渡せるようになった。


 眩い光の入るガラス窓の向こうで、白いものがチラホラと揺れながら落ちていく。


 そのまましばらく、上から下へと視線を小刻みに動かし、その白い雪の軌跡をなぞり続けていた。


 次第に意識がはっきりとしてくる。それに伴い、ルークと争う血塗れの惨状がフラッシュバックしてくる。


 病院のベッドから起き上がろうとしたが、身体が思うように動かない。酷く重く、怠く感じた。全身が軋む。顎が痛い。まるで自分の身体が出来損ないの人形にでもなったような気分だ。


 だがそれでもいいと思った。気分は悪いが、魂は何者にも囚われていない。心地のいい開放感だ。


 足を動かしてベッドの上から、ぎこちなく冷たい廊下に下ろした。病院らしく平べったい緑色のスリッパも用意されているが、あえて素足で降り立ち冷たさを受け入れる。


 ふらつく身体を支えるように壁に手をつき、窓まで壁伝いに歩いた。まだ開けてもいない窓が冷気を放っていて、恐る恐る手を当てると温度差で白く淡い手跡が残った。


 何気なくハァっと息を吹きかけて白くする。


 見下ろした窓ガラス越しの中庭では、仲の良さそうな親子が雪にはしゃぎ、車椅子に乗った女の子がひとり羨ましそうに見ている。早くも雪合戦だと言わんばかりに、降る雪を子犬のように追いかけている子たちもいる。その子供たちの真ん中に、大きな丸い花壇があって、この病院の中庭に古くからそびえ立つもみの木がある。途中まで飾り付けられた傍に、箱いっぱいに入った残りの飾りが見える。梯子を立て掛けて飾り付けをしている人もいて、クリスマスツリーなんだと頭で理解出来た。飾り付けられたらどんなに綺麗だろうかと夢想する。


 背後で病室のドアが開く音に息を飲み、耳を澄ます。


「エル……ザ?」


 窓ガラスに映るルークは、こちらを見てうち震えている。その後ろ姿に覚えがあるのだろう。彼の最愛の人だ。。病室に射し込む太陽の光を浴びた、艶のある黒髪は天使の輪を授かったように見える。細い髪は腰まで流れていた。


「良かった。目が覚めたんだね。もう目を覚まさないかと思い始めていたよ」


 ルークが背後に立ち、恐る恐る抱きしめる。髪の匂いを嗅ぎ、懐かしさと愛おしさが彼の心を駆け巡っているのだろう。


「ずっと……ずっと君に会いたかった。子供の頃に出会ってから、ずっと想い続けていたんだ。その笑顔に心奪われたんだ。愛している。この世の誰より愛しているんだ」


 ルークの腕の中でふらつく身体をゆっくりと回転させ、顔を突き合わせた。


 長く細い黒髪は明らかにエルザのものだ。だが、顔はミシェルそのものだった。ミシェルは自分の身に起きた事をすでに理解していた。


 そう、“”だ。消えた双子と呼ばれる現象。母アルマの胎盤の中で分かたれ、ふたりの人間として産まれるはずだった双子は“吸収統合”され、ひとりの人間、“エルザ”として産まれた。


 そして四歳になった頃に頭蓋に達する一本の針から人格のみが分かたれ、産まれてこなかったはずの“ミシェル”の人格が生まれた。


 そして、意識に高い壁が出来、長い間ふたりの意識を隔て続けていた針は、ルークの手により引き抜かれた。


 ふたりは死の淵で再びひとつに“”されたのだ。


「私もとっても会いたかったわ、ルーク」


 ニコリと笑った笑顔を見て、失礼なことにルークは凍りついたように動かなくなった。唇を戦慄わななかせて、みるみる顔から血の気が引いてゆく。


 その笑顔はルークが本当に愛した女のものではなかったのだ。


 幼少の頃から共に遊び育ち、エルザに恋をしてからは、そのオプションとして付いてくるだけの女。十年間、苦楽を共に過ごした囚人、付き合い、結婚し、エルザのそばにいるために、愛しているフリをし続けた顔。


 ミシェルはずっと気になっていた。ルークの見る、その視線の先にいるものを。見つめる誰かをうなじを通して感じていた。愛しくも気持ちの悪い、憎くて恐ろしいもの。


 白い彼岸花が好きな自分とは対象的に、彼女は赤い彼岸花が好きで、自分の作る作品を鮮血で染めるのが好きな存在。


 ルークはずっと、自分を通してその先にいるエルザに会いたかったのだ。恐怖に見初められた相手に。遠い昔から。


 ミシェルとエルザは、この間も心の中で意識を共有し、対話を繰り返していた。


 エルザはミシェルの事を知ってから、ずっと双子の妹に会いたがっていた。ただ、ビデオに記録を残すだけでもいい。メモのひとつでもいいからと、薬という檻に囚われているエルザはそう懇願し続けていた。身体の外の看守、ルークは薬で身体の自由を奪い続け、薬の量を変えて、時おり自由にさせる事で飼い慣らそうとしてきた。正気を失いそうになるほどの長い時間、飢えた頃に獲物を与えられ、いつしかむさぼる事しか出来なくなっていたのだ。


 やがて憎むようになった。


 利用され、騙され、支配され続けた。罪は償われなければならない。後は最後の判決を下すのみ。


 罪人であるこの男、“ルーク・アルバラード”をどうするかを。


 エルザが思いを伝える。エルザのは成長が止まっていたかのように幼いをしていた。


《美しく飾りましょう。一緒に》


《そうね。これが初めての共同作業ね。姉さん》


《ふふふ、エルザでいいわ。ミシェル。そうね。やり方は教えてあげる。さあ、手を貸して》


 ミシェルは声を出した。それはまるでふたつの声帯を重ね合わせたような声。


『“血染め花のマリー”の時のように』


 ミシェルは腰に回されたままのルークの指を掴んで握り潰した。あまりの激痛にルークは声も出せずその場に膝を付いた。


 次にルークの腕を持ち上げて、小枝のようにへし折り、紙縒りこよりを作るようにその腕を捻り上げていく。


 恐怖と痛みに引き攣る喉が、掠れた声を洩らし、吸い上げた息でもう一度叫び声を上げる。


 騒ぎを聞きつけた医者や看護師、警備員が部屋に踏み込んで止めようとしたが、ミシェルの腕の一振で大人三人が宙を飛んで壁に叩きつけられた。


 重力を無視したかのように軽々と人が飛んでいく様に、ミシェルは笑みを浮かべた。“あら、大変”とも思った。あまりにも簡単で脆い。自分がなにを怖がっていたのかが馬鹿らしく思えるほどだ。今ではもうなにも怖くない。


 先頭にいた太った看護師の首が折れ曲がっていた。あとのふたりは背中を強打し、首が折れている一五〇キロはありそうな太った看護師の重みに、押し潰され動けずにいる。


 ミシェルは苦しみもがくルークをそのままに、ゆっくりとした足取りで三人の元へと歩み寄っていく。どの部品を使おうかと心の中の対話をする。初めてのふたりでの“ショッピング”に話しが弾む。


 騒ぎを聴きつけた警備員が、腰の銃に手を添えて走ってくる。それは既に予期していて、首の折れている太った看護師の身体を頭を握り潰しながら軽々と持ち上げた。生温い血を浴びながら、ミシェルはうっとりとした笑みを浮かべる。


 人一倍細く、折れそうな腕で、その四倍以上はある体重をウエイトリフトのように掲げている。そのあまりの怪力に目を奪われたままの警備員は呆気に取られて銃を抜くのを躊躇っている。ミシェルは笑顔を浮かべた。そちらへと目掛けて巨体を放り投げる。


 警備員が抜き、思わず引いた引き金から放たれた一発の弾丸は、宙を飛んで来る看護師の身体を貫けず留まった。


 空中から飛来してくる大柄な体躯にに押し潰されて、警備員は全身の骨がひしゃげていく音を聴きながらもがき息絶えた。口から吹き出す血の色が濃ゆい。なるほど、内蔵が潰れると、濃ゆく、いい色合いの血になるのかと納得する。


 院内に恐怖が伝染し、それが悲鳴となってさらに感染させていく。たちまち院内は恐怖のるつぼと化して、逃げ惑う人々でいっぱいになった。


 二階受付のある通路の先で、入院患者や見舞い客たちが我先にと、他を突き飛ばしながら逃げ惑う中、その中にひとりだけ微動だにしない女がいた。“アマンダ・ホープ”、薬物中毒のイカれ女と噂される女だ。逃げ惑う人々の間に、紙の束を持って微動だにせず立っていた。


 ミシェルは蔑むように鼻で笑う。戦利品である太った看護師の遺体と圧死した警備員の遺体をまるで肥料袋のようにひっ掴み、病室の中に引きずって戻っていく。


 アマンダがなにかに突き動かされるように後を追ってくる。


 ミシェルは、次はルークの脚を引きちぎった。泣き叫んでいるが気にはならない。賛美歌のように美しい音色だ。院内の騒ぎと相まって、まるでオーケストラだ。


 引きちぎった肉を粘土のように捏ねて形を整えていく。土いじりとなんとなく似ているのだと分かる。やはり双子なのだなと納得する。いい作品が出来そうねと、エルザと“会話”を交わす。


 どうやらショーの見物客がいるらしいとエルザが言う。そちらへと視線を流す。


 病室の戸口に立って、虚ろで血走った目をさらに赤くして見つめている。


 ミシェルはもう少し材料が欲しくなり、ルークの腕を掴んでふたつに引きちぎる。ぬいぐるみの腕を捥ぐぐらい簡単だ。もういちど音色を叫んでいる。心無しかボリュームが下がってきている。


 途端、ガラスを引っ掻いたような雄叫びが聴こえた。


 再度そちらを見る。


 アマンダの顔にみるみる怒りの皺が寄っていき、汚らしい黄色い歯を向き出した。両手で紙の束を持ったままミシェルの方へと向かって走り出した。引き上げられた口角の中で女は叫んだ。


「お前だっ! お前がやったんだなっ! 息子を返せえぇぇ!」


 紙の束をバサバサと落としながらアマンダは突進し、紙の束の中に潜ませていたものを抜き出した。


 その手には鋭く尖った包丁が握られていた。


 ミシェルが向かい来るアマンダを見た一瞬の間、エルザの記憶から引き継いだ光景が脳裏を駆け巡った。


 エルザが初めて好きになった少年、“ジェイソン・ホープ”の姿を。そして、助けようとしたのに、恐れられ“化け物”と呼ばれた事。その後どうのかを。初めて花を添えたのはその時だった。


 まるで戦士のように悦び勇むエルザの心とは対照的に、ミシェルの心が一瞬の躊躇を生んだ。包丁がミシェルの腹部に深く刺し込まれていく。


 ミシェルがアマンダの頭を両手でそっと包み込むんで、ゆっくりと力を込める。アマンダの身体から脳漿混じりの真っ赤な花火が打ち上げられた。打ち上げ終えた身体が地面へとくず折れていく。


 今度は男が病室へと走り込んでくる。銃を構えたスーツ姿の男は酷く悪い顔色のまま言った。


「動くなっ! 警察だ!」


 テレビで見た顔だ。クレストン・レーンの近く、『カット・アンド・ハピネス』に突っ込んだ暴走車を捕まえた刑事。たしか名前は、ダイス・カルホーン。そう、お間抜けな名前が印象に残っている。その車の細工も、後の爆発も、ルークが選んだホームレスは、スケープゴート生贄に過ぎないのだと脳裏でエルザが囁く。


 ミシェルは腹に包丁が刺さったまま、引きちぎられた手足を見つめるルークを引っ張りあげた。身体の前にぶら下げ、盾にする。


 ルークの腹部に指を刺し込み、肋骨の縁に手をかける。


「ル、ルーク・アルバラード……お前なのか?」


 知り合いなのかと不思議そうな顔でルークの顔を覗き込んだが、一呼吸ごとの全身の痛みにひきつけを起こしているばかりだ。まるで腹話術人形と戯れるようだと思い、顎を掴んで開かせてみる。なにかを言おうとしたが、胃液の混じった酸っぱい匂いの血を吐いただけだ。


「その男を離せっ!」


 ミシェルは言われたとおりにした。ただし、看護師たち同様、振り上げ、まるでキャッチボールでもするかのように放り投げた。


 刑事はルークの身体に押し倒されるように壁に叩きつけられた。銃を持った腕が曲がり、ルークと壁との間に挟まれたまま動かすことが出来ないようだ。


「ぐぁあっ! くそっ! 退くんだ、ルーク!」


 ミシェルは折れた腕でもがく刑事とルークの前にしゃがみこみ、思念下でエルザとのやり取りに没頭する。


 エルザが突如、なにか悪戯を思いついたように頭に電球を閃かせた。辛気臭い外の景色を一変させてやろうと言う。


 いい考えね、と賛同する。


 なんとか銃を引き抜こうとする刑事。そしてその前にいるルークの腹にもういちど手を差し込んでいく。手を肋骨にかけ、そのまま引き裂いた。噴き出した内蔵と血に刑事とミシェルは染まっていく。


 やがて変わり果てたルークの顔を、臓腑の滴る両の手で優しく包み込んだ。


『さあ、綺麗にしてあげる』


 その顔に恍惚の表情が浮かんでいるのをミシェルは見逃さなかった。恋焦がれた懐かしさで、今にも身体の中からこぼれ落ちそうな心臓が一度だけ強く鼓動を打つ。子供の頃にした初恋。そして犬の返り血を浴びて、嬉しそうにくるくると舞い踊る少女そのものだった。最後の目の閃きと記憶がそう物語っていた。


 血に染まった美しい天使だ、と。


「あぁ、エルザ……き、みを……みつ」


 ミシェルはその言葉を皆まで聞かず、首を引きちぎった。


 ミシェルが掲げるように持っている首から、真っ赤に染まった百足のような脊髄がぶらりと垂れ下がっていて、球根のように心臓がぶら下がっていた。



 ***



 ――数分後、ダイス・カルホーン。


 白い骸骨がなにかを囁いている。


 いつものように、なにを言っているのかが聴き取れない。妻エブリンの死の姿が現れるのは、深い後悔に蝕まれているからだ。精神科医に聞かなくても分かっているし、これからも世話になる気はない。


 ダイスは手を伸ばし君に会いたいと告げる。


 やがて、白い骸骨はエブリンの生前の姿、いや、生きていた頃より鮮明に綺麗に映えている。


 手を伸ばせば消えてしまう幻は、今回は消えずにいた。エブリンは頬に触れ、口づけをすると、耳元で囁いた。


『愛してる。ウェンディをお願いね』


 君がいなきゃ、生きる意味がないじゃないかと言えなかった。ずっと思っていたこと、それが言葉となって出てくることはなかった。


 ただ、ウェンディのことを考えた。せめて、彼女が結婚し、孫ができるまでは頑張ってみるよと告げると、ようやくエブリンは微笑んで見せた。


 なにかが首筋に触れる。覚醒の兆しが見えた途端、血なまぐさい匂いが鼻腔を通り、脳髄を駆け巡って覚醒することを促す。血は危険のサイン。即ち生命の危険だ。


 抱えているものが血塗れの肉片だと分かると、仰天し、押し退けた。その肉片に面影はないが、誰のものかは分かっている。


「ダイスさん!」


「うっ……ロ、ロブか……“血染め花のマリー”はどこだ?」


 ダイスは銃を握る腕がちくりと痛んだ気がして、その状態を見て驚愕した。放り投げられたルークを胸で受けた時、腕がへし折れていたのだ。まるで冗談のように本来曲がらない方へ肘が曲がっている。腕がルークと壁に挟まれていた事を思い出す。


 急激な痛みにうずくまる。


 ロブが差し出した腕に掴まって立ち上がる。まだ無事なほうの手で銃を拾い上げ、状態を確かめる。まだ使えそうだ。


「入口は封鎖しています。こちらにもすぐに増援が来ます」


 ダイスは遺体がなくなっていることに気が付いた。太った看護師、それに警備員と、医者、そして、アマンダ・ホープ。


 だ。


 ダイスは窓に向かって引きずられている痕跡を追った。


 病室の割れた窓ガラス、冷たい風にそよぐカーテン。そして赤く染まった手跡。異常な光景だ。四階のここから飛び降りたとは考えにくい。だが、ベッドの下や布団の中に遺体やその姿などは見つからない。それらしき断片があるだけだ。


 血のついた窓ガラスからロブが見下ろしている。


 ダイスは銃を構え、通路を確認する。


 あれほどあった遺体のほとんどが見つからない。いったいどこへ――。


「――ダ、ダイスさん……」


 緊迫した声に戦慄しつつ向かう。ダイスは窓枠から見下ろした光景に絶句した。


 そこにはクリスマスツリー用の大きな樹木に、燦然さんぜんと飾り付けられた異様な遺体たち、そしてその断片たちだった。


 木枝のあちらこちらには、人体の内蔵と思われる部位が多数ぶら下がり、枝に垂れて、目玉が風にそよいでいた。


 降る雪が大粒になる中、その天辺にはルーク・アルバラードの頭が空を見上げるように突き刺さっていて、頭にはサンタクロースの帽子を被っている。ツリーの電球には電気が通されて飾り付けられ、電球の明かりに様々な色を浮かべるが、そのどれもが血にまみれていて赤一色だ。それがチカチカとついたり消えたりを繰り返している。ツリーの下にあるライトアップするための照明ですら赤く照らして、降る雪まで赤く見える。まるで“地獄”の中のクリスマスツリーのようだ。


 駆けつけた警官のひとりが、殺人現場の保存という名目すら忘れ、むせ返るほどの血の臭いで胃の内容物を撒き散らした。ロブはそれらを涼しい顔で眺めていた。もう以前のような新米臭さは消えている。その心の奥底にあるマグマのように煮えたぎる怒りを抑えるように唸っている。復讐は未だ果たせていないからだろう。


 ダイスは辺りを見回し、終わったのだと肩の力を抜き始める。ベッドの隅にある椅子を引き出して座る。眺める景色は空も大地も赤一色だ。


 白い雪は大地を白く埋め尽くすが、この血のように赤い雪は……赤く赤く染めて消える……そしてなにもかもを赤く埋め尽くしてしまうだろう。


 中庭の惨状を見ながら、ダイスは誰に言うでもなく、ひとり呟いた。


……」



 ***



 刑事局長がふたりの肩に手を置く。謹慎中のダイスには何も言わなかった。ただ、親指を立てて見せた。同僚を亡くした事で悲しみに暮れる看護師たちに向かって、こいつらをすぐに治療してやって欲しいと言い含めて去っていった。


 それは彼なりの“良くやった”ともとれる言葉だった。


 今、院内は蟻塚をつついたような騒ぎだ。逃げ惑う人々の中で、互いにぶつかったり転倒したりと傷つけあっていたらしく怪我人が大勢いる。今は代わりに、看護師や医者が走り回っている。


 女性看護師がダイスの状態を一通り確認し終えると、黄色い番号のふってある札を手首に巻き付けて、呼ばれたら処置室まで来てくださいとだけ言われた。ダイスは煙草を一本だけ吸わせてくれと言うと、あからさまに嫌そうな顔をされた。


 看護師が去ってから、血塗れの部屋の隅で、こっそりと残り少ない煙草の箱から一本引き出して、火をつける。


 自分以上にぼろ雑巾のロブの姿に気がつく。


 右腕は複雑に折れ曲がり、骨が突き出している。右足は靴を履いていない。足の甲がひどく腫れ上がっていて、あれだけ腫れていたら、折れているのではないかと思う。不思議と痛くないのか、よろよろとそれを引きずっている。


 状態を見ていた若い看護師が、ロブの手に赤い札を渡し、慌ててストレッチャーを取りに廊下を走って行くのを見届ける。


 赤い札は重症を表す。冗談めかしてロブに言う。


「どうしたんだ? ぼろぼろじゃないか、ロブ。転んじゃったのか?」


「あなたこそ」


「なんでお前そんなに平気そうなんだ? こっちは腕一本で気が狂いそうなほど痛いんだぞ」


「あの家、アルバラード家にあった痛み止めを飲んだんです。イカれた効き目ですよ。ほとんど痛くないんです。ほらっ」


 ロブが自分の折れた指をつついているのを見て、思わず身震いし、腕をさする。痛みが増したように感じる。


「ダイスさんが負傷したところは大丈夫なんですか?」


「俺が負傷してるのは腕だけみたいだ。これはルーク・アルバラードの血だ。一番有力だった容疑者は死んだってわけだ。ほら、そこに転がってるのがそうだ」


 ダイスの無事な方の手が指さす先で、血だらけで骨が見えている肉片が転がっているだけだ。まるでサバンナの獣たちに食い荒らされた後のようだ。ふと思う、“愛の証明”は出来たのか? ルーク・アルバラード……。


「――では、“血染め花のマリー”は……」


「……いや、“血染め花のマリー”は女だった」


「女ですって? って事は……」


「そうだ。犯人は“ルーク・アルバラード”ではなく、“”の方だったのさ。殺害方法は素手。それも不自然な程の怪力だ。あれで人体を握り潰していたんだ。まるで超人ハルクみたいだったよ」


 ロブは考え込んで、疲れたのかダイスの横のベッドに呻き声を上げながらどすんと座り込んだ。


 ダイスは消え入りそうな煙草を床に押し付け、ポケットからもう一本煙草を引っ張り出し、火をつけた。


 険しい顔をしていたロブが、院内での喫煙はどうのこうのとのたまうのかと思える口の動きをして、やめたようだ。代わりに一本くれと言い、差し出してやった。


 ロブは煙草の煙を煙突のように噴き出した。ずいぶんそれらしく染まってきたじゃないか。


 ようやく腹が決まったのか、ロブは重い口を開いた。


「……“ニコラス・アルバラード”は射殺しました」


「なんだって? あの?」


「ええ、あのニコラスです。脳腫瘍で動けないはずの。アルバラード家を調べていたら、襲われたんです。こちらもずいぶん、化け物じみてましたけどね」


「“血染め花のマリー”を見る前なら、笑ってるところだが、……正直笑えないな」


 ロブは上着のポケットからなにかを取り出す。写真のようだ。


「これを……」


「これは?」


 写真はどれも真っ赤で、その石像群を見て、瞬間的に理解する。


「ニコラス・アルバラードは、それらを後生大事に持ち歩いていました。まったく、狂気の沙汰ですよ。恐らくですが、“記念品”かと」


 写真の赤い像の後ろの景色には覚えがある。この町の教会だ。四人の作業員が血溜まりを残して消えた事件。グロテスクにも頭が三つあるかのように置かれ、そのどれもが苦悶の表情だ。身体には背中から手や足が生えていて、生首と赤い花束を持っている。


 他にも肋骨が花のように開かれた遺体もある、その中心に赤い花々が添えられているものもあるし、捻じれに捻れきった遺体もある。そのどれもが常軌を逸している。まるで神話の中の“地獄を模している”ようだ。


 顰めた面の前で、ロブが人差し指をくるくると回転させてみせる。


 “裏を見て”。


「これは……まさか日付けか?」


 そこには事細かく、日付けと誰かの名前が書いてある。それらの名前には覚えがある。失踪者、行方不明者だと思われている、“血染め花のマリー”事件の被害者たちだ。


 まさかとは思うが、ニコラス・アルバラードの後悔の現れなのだろうかと顎をさすり思う。同時に、素っ頓狂な考えも浮かぶ。


 “”みたいだと。これらはその時のの写真。後年、フォトアルバムにされ、一枚一枚懐かしみながら家族でめくるような、そんな写真なのではないだろうか?


 ロブの方を見るが、真っ白な顔をして大粒の汗を浮かべている。腕から血が流れ落ちている。


 後から合流した応援の警官たちの中に、ジョン・スミスの姿もあった。ジョンはこちらを見つけると、走り寄ってきてダイスを一瞥。そして折れた腕も一瞥。低く唸り、ロブの傷の具合を見始めた。


 次にロブの顔色を見て、腕を取り、肩を貸すようにその太い首にかけてやる。ジョンがなにかの薬品で溶けたような後頭部の髪を見やる。複雑に折れ曲がった腕を見る。後方に向かって担架を持ってくるよう言うが、ロブはまだ終わっていないことを理解していた。寝転んでしまえば復讐の炎が小さく萎むと思ってしまっているのだろう。それを察してダイスは窓際に向かって歩み、ロブにこっちに来るように言う。


 担架が来るまでというジョンの条件付きで、ジョンの肩に寄りかかって歩いてくる。


 歩を進める過程で不意に気付く。腹の上でルーク・アルバラードが真っ二つに引き裂かれた時、ものすごい衝撃をルークの背中から受けた。まるでトラックとぶつかったように感じた程だ。その時に気を失ったのは理解している。そのせいか脇腹が痛む、それにこの痛み方は良くない予感がする。最悪、骨のヒビ以上の怪我だ。


 病室の中に通報を受けて駆けつけた警官たちがひとりふたりと増えてくると安堵のため息が漏れ、鑑識班のレイチェルが病室に入って来た。いつもの鑑識の制服ではなく、普段着だ。シャツとジーンズ。飾り気はないが、それが余計に綺麗だとダイスは思った。病院受付のテーブルの下で待たせていたウェンディが、その手を握りしめている。車でひとり待たせるわけにもいかず、病院受付の看護師に匿ってくれと頼んでいたのだ。どうやら、無事に保護されていたのだと胸を撫で下ろす。


 ウェンディが顔を歪めて走り込んできて、涙を浮かべ、悔しそうに腕を引いて立たせようとしている。まるで死から引っ張り上げようとしているかのように。


「パパ! もう置いていかないで! いい子にするから! お願いだから!」


 その姿を見てひとり思う。あぁ、生きるよ。生き抜いてみせるさ。ウェンディのことは任せてくれエブリン。もう心配いらない。


 どこか見えないところでエブリンが肯定してくれた気もする。レイチェルに惹かれ始めている後ろめたい気持ちも、エブリンが許してくれたと思えた。もう妻の幻影は見れないかもしれないが、酒を絶ち、煙草も断つことに希望を抱く。


「もう大丈夫だ、ウェンディ」


 ウェンディは腹部に顔を埋めて泣き始めた。よほど怖かったのだろう。


「ダイスさん、“血染め花のマリー”はどこへ?」


「……さあな」


「これからどうするんです? やはり……退職ですか?」


 刑事人生の思い出が去来する。長いようで短かった。おおむね楽しかった事が思い出される。だが、人生はこれで終わりではないのだ。当面の節目であり、先はまだ長い。


「ああ、辞めるよ。酒も煙草もついでにやめる。しばらくは釣りでも楽しんで、犬を飼う、その後は……絵を描くよ」


「絵……ですか?」


「ああ、なんだおまえ? 俺の絵なんて見たことないくせに」


「いやいや、いいと思いますよ。でも、なんで急に?」


 ようやく看護師が空いているストレッチャーを見つけ、病室へと走り込んでくるのが見えた。


「マイケル・マコーマック。ジョンの――検視官の前任者だ。会いに行って分かったんだが、あいつの絵が高く売れているらしい。落書きにしか見えないが、絵のコツは聞いたし、かなり潤っているみたいでな。とにかくしばらくは自由気ままに生活することにするよ。ウェンディと一緒に」


 ウェンディは泣き腫らした目を見られないよう恥ずかしそうに、再度頭を埋めた。肋骨の怪我に響く。


 血なまぐさいのはもう懲り懲りだ。


 ロブはストレッチャーに寝転ぶと、ふざけた効果の痛み止めがきれてきた様子だ。ようやく追いついてきた肉体の熱と痛みに浮かされ、うなされるように言った。


「“血染め花のマリー”はどこへ行った?」


 ダイスは答えず、沈黙を守る。


「一体どこへ……?」


 ダイスは最後となる煙草に火をつける。煙に顔を顰め、ウェンディをしっかりと抱き上げる。胸が痛むがそんなものは些細なこと。


 今では“ルーク・アルバラード”の遺作となった“女神ミューズ”の引用を思い浮かべる。


 “化け物と対峙し、打ち勝とうとするものは、それ以上の化け物にならなければならない”。


 その後、“血染め花のマリー”こと“ミシェル・アルバラード”は緊急指名手配された。



 ***



 ――四年後。オレゴン州ポートランド、あなたの家のすぐ近く。


 来客を知らせるチャイムが鳴った。


 女は黒く長い髪を束ね終え、鏡を見ながら、最終チェックをしている所。うなじの傷は残っているが、肌色の粘着テープをその上に貼り付けて立ち上がる。


 今日は仕事の面接の日なので、白いパンツスーツ姿だ。背中を鏡に写し、もう一度チェック。こつこつと足音を響かせ、廊下を歩いていく。


 人目を気にせず、玄関を開けるのは何年ぶりだろう? もしかしたら、初めてではないだろうか? それだけ自信がついたと言うこと。つまりはいい事。


 開けたドアの先で、黒髪の少女が籠いっぱいの赤い花を肘に引っ掛けて立っていた。待たせたせいか、小さな来客は帰ろうと背を向けていたが、こちらを見て、少女は向日葵のように、にっこりと笑顔を作って言った。


「こんにちわ、さん」


 四年も経ったのに、未だに慣れない偽名にぴくりと弾み、ああそうだったと頷いてみせる。


「あら、ブリジット。今日もきれいなお花がたくさんね」


「うん! でも、私、さんの育てる花の方が好きよ! 儚げなのに、なんだか強そうなの!」


 ブリジットの見つめる先を見る。庭にはたくさんの花々が植えられ、競いあうように“白い彼岸花”と“赤い彼岸花”が咲き誇っている。


「あら、ありがとう。嬉しいわ」


「うん! それとね、今日はエルザと遊ぶ約束しているの!」


「あら、そうだったの? 気付かなくってごめんなさい。今、呼んでくるわね」


 “”は捨てた名だが、未だに奥底に眠っているかのように時おり顔を出してくる。“”は踵を帰すと、家の奥に向かって呼びかけた。


? ブリジットが遊びに来てるわよ!」


 階段の上から、ばたばたと走る音と、返事が返ってくる。


「はーい! 今行く!」


 ブリジットが籠の中を漁りながら、ピンクのリボンがついた袋を取り出して言った。


「それとね、さん、これはさんにあげてって、ママが言ってたの。ジンジャーブレットよ」


「あら、そうなの? ありがとうブリジット。ママによろしく言っといてくれる?」


 ブリジットが頷くと、白銀の髪を肩上の長さに整えたが、赤いワンピース姿で走って来ると、ブリジットは嬉しそうに言った。


「エルザ! 今日も公園で遊ぶ?」


「そうね! ブリジット! 行こっ!」


 はその背中に向かって言った。


「暗くなる前に帰って来てね。


 は振り返り、無邪気な笑顔をに向けて手を振った。その横顔を、ブリジットは不思議そうに小首を傾げて見つめた。まるで、? と疑問符を浮かべているように見える。


 は家の地下へと一段一段降りていく。壁際に立ち並ぶ棚には、カメラと数枚の写真、それと、たくさんの洗剤が所狭しと並んでいる。液剤のラベルを撫でていく。“硫酸”と書かれたものを選びとって、地下室の一角に作ったコンクリートブロックのプールに、その液体を注ぎ始めた。



               終

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バニシング・ツイン(消えた双子と血染め花のマリー) らぃる・ぐりーん @Lyle1982

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