第14話 撓む世界 《sideミシェル》
コスモスの花が咲き、八月が終わりを迎える。金曜の朝、雲間からすり抜けた光は部屋へと入り、埃をキラキラと極小の宝石へと変えていた。
“血染め花のマリー事件”の犯人がついに逮捕されたとニュース番組が報じている中、ミシェルは起き抜けのボサボサ頭でテレビを食い入るように見ていた。
通りを跨いでのカーチェイスの果てに、車は改装中の『カット・アンド・ハピネス』という名前の美容室に突っ込んで止まる。犯人は逮捕された。警官に脇を抱えられ、引きずられる様に警察の車に乗せられる様子がテレビに映っている。ホームレスのような風体で、返り血のついた服を着ていた。黒人で背の低い男は、小さな声でレポーターが突き出すマイクに途切れ途切れになにかを言っているが、システムトラブルのせいか音声を拾うことはなかった。または人間の言語ではないのかもしれない。
その後ろ手には手錠がかかっていた。両脇から抱える警官が犯人を担ぎあげて去っていく。後から駆けつけたらしき警官たちが、野次馬たちを不作法に下がらせていく。
犯人は、ニュース
だが、ミシェルはこうも思った。こんなものだっただろうか? あのえも言われぬ、身体を根こそぎ奪っていきそうな視線とは違ってはいないだろうか? どちらかと言えば、ジロジロと胸元や尻を品定めしてくる男たちの視線に似ている。
このどこにでもいるような、男が悪魔のような視線の持ち主? こんな小さな、取るに足らないようなホームレスの男が? こいつがストーカー男で、後をつけ回しこっそり見ていたのだろうか? ミシェルの中で恐怖に彩られた犯人はもっと大柄で、恐ろしい風体を想像していた。それこそ、大の大人が数人がかりでもどうしようもないような、とても人間の力では抗えそうにない犯人を。いま、世界中が自分の想像とは違う犯人を見ているのだろうか? と爪を噛みながら思う。
捕まった犯人はちっぽけな、ただの小さな男だった。学校によくいるような、気が弱く、いじめられそうな男。
***
それからの約一ヶ月後、秋の始めで、太陽が大地を照らす前は少し肌寒い。朝からグリーンハウスで花の手入れ、きちんと処方された薬を飲み、ミシェルは入念にストレッチをしてランニングを再開した。
まだ少し怖かった。足が震えていた。公園には行かず、近所をぐるぐると回った。だが、遥か高みに出てきた太陽の光はあたかかく、とても気持ちのいい日で、ミシェルは馴染み深いブラッドリー公園へと足を向けた。
久しぶりに走ると、近所の庭に植えられたライムの木の熟した実の匂いが心地よく鼻を通り抜けていき、身体の隅々に行き渡るようだった。暗闇に落ち込んでいた心が青空に解き放たれたような解放感だ。風が少し冷たいが、それが火照った身体に心地よかった。風が髪の毛から重力を取り去り、あたかも夢のように通り抜けていく。終始その感覚に心を預けるように走った。
***
十月になると、ミシェルは頻繁に気を失うようになった。それに伴いランニング禁止令が出される。危険だからという理由で。時間になると、処方された薬をルークが持ってきてくれるようになった。それらはずっと効き目が強く、日中はずっと眠い程だ。相変わらず両親は頻繁に会いに来た。ところが最近では父ニコラスだけ。聞いたところによると、母アルマはここ数日、風邪をこじらせていたらしい。体調はようやく良くなってきて快方に向かっているのだと聞いた。一度など様子を見に行った時の顔色は、お世辞にもいいとは言えなかった。
ミシェルは外に出ることも無く、家の中をうろうろと歩き回っていた。何気なく、二階廊下の踊り場の隅に追いやられていたパソコンの上の埃をふーっと吹いた。綿の生えた蛇のような電源プラグを掴んで、差し込み口に頭から突っ込ませる。動くかどうかも分からないほど古いそのパソコンは、じりじりとなにかを焼くような音を出して動き始めた。ミシェルはさっそく検索フォーラムからこの町のニュースへと飛び、ページをスクロールしていく。最近の新聞の見出しにはこう書かれていた。
〈ブラッドリー公園でまた殺人。血染め花のマリーが帰ってきた?〉
〈町に再び恐怖が訪れた!〉
〈血染め花のマリーの復活! そして再来! または警察が“亡霊”と呼ぶ本人か!〉
〈警察の信頼、地に落ちる!〉
“血染め花のマリー”事件の犯人として捕まっていたホームレスの男、“ハンター・ブライト”の冤罪を求める裁判が開始される。どこぞの名もしれぬ冤罪を許さない団体が裁判の費用を肩代わりすると申し出たのだ。
ミシェルはパソコンの画面を取り憑かれたように覗き込み、もうすでに血が滲んでいる爪をお構い無しに齧りながら。瞬きもせずに視線を注ぐ。
さらにスクロールさせた先では、カメラマンが被害者である十代の子を失った親が、絶望に泣き叫ぶ様子を撮影していた。
こいつだ。こいつに違いない。いつもいつも私を見ていたのは、あんなちんけなホームレスなんかじゃなかったんだと、目まぐるしく頭を回転させて思う。
自分を狙っている“怪物”は生きていた。捕まってもいなかった。まとわりつくような殺意をまとい、余興を楽しみながら距離を狭め、どんどんと迫ってくることだろう。
次は自分だと、ミシェルの勘が全身全霊でそう言っていた。踊り場の手すりから階下を見下ろす。ルークが身体が不自由になりつつある両親と楽しそうに話しながら食器を片付けているところだった。ミシェルはその様子に口を
***
ルークが小説そっちのけで椅子に腰掛け、落ち着かない様子で、自分でも何杯目かも分からないであろうコーヒーを口元へと運んでいる。カレンダーはいつの間にかひとりでにめくられたかのように十一月になっていた。
分かっている。自分のせいだということも、ルークが悪いせいでもないということも。この胸の身勝手な高鳴りも、なにを見ても苛立つ衝動でさえ。
気づかってくれたルークが、夕食は中華のデリバリーを注文してくれた。
ミシェルは食卓に着くが、お腹は沸き立つような気分のせいか空いていない。用意された中華には手もつけず、うなじの古傷が刺すように痛む。痛いし、痒くて熱い。鏡に写して見た時、しきりに掻きむしるせいか、赤く腫れて今にも血が滲み出しそうだった。酷く顔色が悪く、蒼白であった。
ミシェルがおもむろに食卓テーブルを叩き、椅子から立ち上がる。その勢いで椅子がガタンと派手な音を立てて倒れた。窓を勢いよく開けたので、小さな四方のガラスが小さく
「一体なんなのよ! 何がしたいの? 出てきなさいよ! この卑怯者のクソ野郎!」
ミシェルは荒い息使いで窓枠にもたれかかった。最近の両親や、ルークの視線が物語るものだ。知っている。今も背中越しにルークの視線を痛いほど感じる。分かっている。きっと私の背中を見て頭を抱えているのだろう。もしかしたら泣いてもいるかもしれない。分かっているのだ。ミシェルは自分でも分かっている。“自分は異常なのかもしれない”と。きっとそうなのだ。
大きく息を弾ませているミシェルの背中をルークが恐る恐る抱いた。ミシェルは泣き崩れた。ミシェルは本当にまいっていた。
***
ソファーに座り、ルークが差し出した水と薬を飲み干した。今までのより少し強めの精神安定剤だ。ニコラスが処方する薬のおかげで、ここ一週間ほどは体調も良くなってきていた。気分も落ち着き、表情も人間味のある色味が刺して桃色の頬がぴんと張ってきている。幻覚や幻聴も抑えられてきていたが、眠気は寄せては返す波のように襲いかかってくる。爪を立てて掻きむしっていたうなじは、少し後が残るかもしれなかった。
ミシェルが束ねた髪の毛を肩にかけるように横に流し、ルークはその
ひとり、家の中で枕を抱えていたミシェルは家に篭っているのが耐えられなくなっていた。例の如く薬類を貰いに行っていたルークが戻ってから、ある計画を実行しようと目論んでいた。
夕暮れ時、ルークが小説を書きに書斎に篭っている時間帯、こっそりランニングに出かける計画だ。それはそれは大冒険だ。ありとあらゆるルールを破ったことのないミシェルには、初めての事。不謹慎ではあるが胸の高まりを覚えていた。もう大人なのだ。禁止令を破ればどうなるのだろうと怖さ半分、期待半分といった面持ちでランニングウェアに身を包み、つま先で地面を軽く撫でるように移動する。ルークの様子を見に書斎の磨りガラスを覗いた。ルークはウッドデスクに小さな枕を置き、口の端からは透明な液体を垂れ流しながら、その上に横顔を乗せて眠りこけていた。
計画を実行するチャンスだとばかりに外へと躍り出ると、ほんの一時間ほどのランニングから戻った。冒険は無事に終わった。このまま見つかる前にシャワーを浴びてランニングウェアを洗ってしまえば、任務は完了だ。ミシェルは心地よい心音のまま、そっと玄関を閉めた。途中から少し頭痛がして、ルートを変えて早めに帰りついたのだ。
いつものように鍵を四つとキーチェーンをそっと引っ掛け、バスルームに向かおうとする途中、頭の中の大鐘を打ち鳴らすような頭痛が始まった。意識が薄れ、床に倒れこんだ。思っていた事は計画がバレるのではないかという恐怖感。一瞬意識が飛んだように感じたが、すぐに目が覚め、頭痛は治まっていた。横たわる重い身体を起こしていると、すぐ後ろでカチャリと弱々しい音を響かせながら玄関が開いた。先程鍵をかけたばかりの玄関がだ。ミシェルは心臓が一足飛びに跳ね上がり、引き攣る喉が小さく悲鳴を上げてた。酸素が途絶えたかのように身構える。
ミシェルは、恐る恐る耳を澄まし、目を大きく見開きながら歩み寄っていく。玄関扉に手をかけたまま外を確認したが……誰もいない。それらしき影も形もなかった。
ミシェルはこの事象に対するありとあらゆる言い訳の考えを巡らせた。そうでなければ恐ろしくて立ってもいられない程だった。だがそれらに納得がいくはずもない。
先程かけたばかりの鍵たちはろくに役目を全うせず、力なく明後日の方を向いていた。用心深く玄関を閉めて鍵をかけていく。
歩き去ろうと階段に足をかけようとすると、次の瞬間にまた背後で玄関が軋むような音を立てて開いた。その様子を見ていたミシェルは恐れを抱いた。勢いよく玄関に走りよって外を確認した。誰もいない。足元には、さっきテーブルに置いたばかりのアイポッドがあるだけだった。何故か玄関の外側、そこにあった。
***
父ニコラスも体調が悪いせいか、最近はとんと顔を見せに来なくなっていて、毎週末に来ていたのが、今では月に一度になっている。来月には三ヶ月に一度でも不思議ではない。ニコラスとアルマは齢により足腰が弱くなってきていたため、今は通院しているらしいとルークから聞かされていたのだ。心配だったが、ルークがてきぱきと手続きをしてくれるため、安心できるはずもないが、ルークはいつもの言葉で
アルマの方はというと、酷く手が震え、目眩が頻繁に起きると話していた。本当に心配だったが、それ以外の懸念も無視できなかった。
***
ミシェルはひとり、バスルームで物憂げに鏡を見つめていた。陰鬱で蒼白な顔にうんざり。ストレスからの吹き出物にうんざり。増えていく目尻の皺にもうんざり。なにもかもが嫌になる。髪をとくのもうんざり。とにかくうんざりの一言だった。
きっと今頃、実家で集まり、両親もルークも私の事を言っているに違いないのだ。“イカれ女”、“薬物中毒”、などなど、ありとあらゆる痛々しい言葉……。世話をしている彼らには、その権利がある。それもしょうがないのだと、鏡の中の自分に何度も言い聞かせた。呪文のように何度も何度も。うんざりだった。
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