第15話 掻き消える記憶 《sideミシェル》

 沈んだ空気が空を覆いながら、ゴロゴロと機嫌の悪い雲を伸ばしていく。外では霧雨が降っていたが、ミシェルとルークは買い物に出かけた。


 久しぶりの買い物から戻った上機嫌のミシェルは、買い物袋を片手にキッチンに踏み入った。後方でルークが買い物袋を両手に抱えて家の中にはいってきた気配がしていた。強まってきた雨の音が玄関から締め出される。


 ミシェルは目眩と頭痛によろけ、自然と身震いが始まる。うなじがチリチリと焼けるように痛む。手をテーブルに置いてバランスをとって耐えていたが、じき頭痛が治まると目を開いた。


 ミシェルはキッチンの前で紙袋を抱えたまま呆然と立ち止まっていた。


「ミシェル? どうかした?」


「これを見て……誰かが家の中に入ってきてる……いや……怖い……」


 ミシェルは弱々しくルークにもたれかかった。ルークは不思議そうな表情を浮かべて開け放たれたままのキッチンを見渡した。買い置きのコーヒー缶やシリアルのパッケージが戸棚から覗いている。箪笥は全て開いたまま、揃えて置かれたスプーンやフォークが見えている。


「君が開けたんじゃないの?」


「そんな事ない、だってさっき帰ってきたばかりなのよ?」


「……どこかの窓を閉め忘れたのかもしれないね。たぶん、突風かなんかが吹いて戸棚を開けたんじゃないかな?」


 ミシェルは怪訝そうにルークを見た。これが突風でなったですって? ただの突風で戸棚や箪笥が全て開くだろうか? これはむしろ……空き巣に入られたと見るべきではないだろうか? もしかすればストーカー野郎が――と考えを巡らせ、身体を震わせる。


 ルークは棚の中や書斎、バスルームをウロウロと見て回り、しばらくすると戻ってきて冗談めかして言った。


「ひと通り見たけど、盗まれたものはないようだよ。多分、風の妖精さんでも忍び込んだんじゃないかな?」


 ミシェルは、“でもっ!” と言いかけ、分かったと呟いただけ。顔が不満そうに歪み、唇が自然と前に突き出されていく。


 ルークは買い物を戸棚の隙間に押し込んで閉めると、自分の書斎に戻って行った。



 ***



 ミシェルは目を覚ました。辺りを見渡す。ソファーに横になっていて、残り火のようなオレンジ色の光がいつの間にか窓から差し込んでいた。がちゃりと玄関をあけ、ルークが帰ってきた。辞典のように分厚い本を脇に抱えている。また『ブルーバード図書館』に行ってきたのだろうことは明らかだった。


「ミシェル? 眠っていたのかい?」


 ミシェルははっきりしない頭を擦り答えた。


「ええ、そう……みたい。いつ眠ったのかしら……?」


 ルークはキッチンテーブルの上に置かれた食事を見て言った。


「これ、昼食かい?」


 見るとレンジで温めたオニオンスープがすっかり冷めたまま残っていた。脇に置かれたスプーンはキレイなままだった。


「やだ……私、昼前からずっと寝ていたのかしら?」


 ルークがじっと見つめ、少し思案するように鼻をすすった。


「……今日はピザのデリバリーでも取ろうか?」


 返事も待たずにルークは携帯電話をかけながら書斎へと消えていった。


 ミシェルは必死に思い出そうとするが、眠った際の記憶がなかった。今朝は健やかな天気で目を覚ましたし、朝食をルークと食べ、庭で花の手入れをしていた。ルークが出かけ、昼前にオニオンスープを作り、テーブルに並べたまでは覚えている。だがその後は? 首を必死に捻るが、いつの間にか記憶が抜け落ちてしまっていたようで、どうしても思い出せなかった。



 ***



 次の日の夜、ルークが玄関の戸口に立ち、外行き用の上着を羽織ると、ミシェルはその背中を撫で下ろした。お互いをじっと見つめる。


 交わす視線を引き裂くように、外から車のクラクションが鳥の鳴き声のように短く鳴った。ルークは以前から、ハイスクール時代の友達と、バーで羽目を外す約束をしていたし、その友人が今まさに黒い車の窓から手を振っているのが見える。もうひとりはカフェ『テラリウム』のオーナー、リー・タナカで、彼の姿も見える。ミシェルは笑顔を作って手を振った。


 上着を着たルークは、玄関の戸口で一歩踏み出す姿勢のままリモコンで一時停止でもしたかのように動きを止めて、くるりと回って言った。


「本当に……大丈夫かい? なんなら今から断っても……」


 ミシェルは一本立てた人差し指で制するようにして言った。


「大丈夫。またいつの間にか寝てしまわないように料理はしないし、お風呂にも入らないわ。お風呂の中に沈んでたら大変だもんね」


 鼻を摘み、反対の手のひらをヒラヒラとさせて溺れる真似をして見せると、ルークは少し笑顔を見せた。


「寝ないようにホラー映画でも見てるわ」


 そう言いながら用意していたDVDとポップコーンを見せた。


 ルークは車の前でもう一度振り返り、ミシェルは笑顔で手を振って見送った。



 ***



 壁に掛けられている時計の針が十九時五十分から進むのを見届け、DVDを一時停止した。ミシェルは眠気覚ましに夜闇で冷えた空気と室内の空気とを入れ替えようと、ほんの少し窓を開けてトイレに向かうが、その途中で意識がぷっつりと掻き消えた。ミシェルは、急接近してくる床板を間近に見た。


 次にミシェルが目を覚ますと、壁掛けの時計は十時二十分を指し示していた。


 ミシェルは痛む頭を抱えた。触れているこめかみが脈打つ度に痛む。口に手を当てると、口紅と血が手についた。転んだ時に床板にぶつけて血が出てしまったかもしれない。それは分かるが、口紅をつけた覚えはない。


 次に、白いタイトドレスを着た自分に気がついた。去年行われた『テラリウム』での三周年記念パーティーに着ていったお気に入りのドレスだ。日々のランニングで引き締まった肌にピッタリと吸い付いていて、スタイルのいい身体のラインが見て取れる。それでいて胸元と背中を充分に強調するドレス。顔には化粧を施し、唇からは血が滲み出ていて、すでに乾いている。その上に赤い口紅を塗っていた。持っている中で一番濃い赤だ。肌けた肢体に汗に濡れた肌。テーブルには開けた覚えのないシャンパンとふたつのグラス。そして、玄関はこれ以上ないほど開いていて、いつの間にか雨模様だ。


 ミシェルは今にも“怪物”が入って来るのを恐れるように慌てて玄関を閉め、震える手で五つの鍵を閉めた。


 ミシェルが後ずさった先で、ふと顔を上げると、白い壁には自身の口紅と思われるものでこう描かれていた。


『ハロー、ミシェル』


 ミシェルは恐怖がうなじを貫くのが分かる、脚が自分の意志とは無関係に震える。やがて支えきれなくなって腰の力が抜けると、床にぺたんと尻をついた。いったい何が起きたのか分からなかった。着いたお尻が妙に冷たく感じられ、手を自分の股間に這わせ、自分が下着をつけていない事に気がつくと、悲鳴を上げた。



 ***



 赤と青のランプが雨粒と夜の闇を切り裂きながら、少し距離のある近所の家々を代わる代わる照らし出す。


 パトカーが一台家の前に止まり、開いたままの運転席に片足をかけたままの男性警官が肩に装備した無線で交信している。家の中には、浅黒い肌の太った女性警官がうろうろと行ったり来たりしている。ミシェルはひとり、赤と白のチェック柄の毛布に包まってソファーに腰掛けていた。涙で流れた黒いマスカラが筋を作っている。


 いったいなにがあったのかまったく分からない。また記憶がない。私はなにをしていた? 私は……なにをした? なにを……されたの? 困惑する脳内で疑問が答えも得ずに現れては消えていく。


 女性警官はイライラした様子でドタドタと家のあちこちを見て周り、太ったデカ尻で家具を押しのけるように戻ってくると、テーブルに鎮座しているシャンパンをメーカーまでつぶさに見る。斜め向かいのソファーに座ってメモを取り、ミシェルを不愉快そうに一瞥して言った。


「それで? ……えーと? 以前は……家具が動いて? 戸棚が開いていた? 何か盗まれたと思われる物は?」


「い、いえ……なにも……」


 女性警官は訝しげな顔で、白のタイトドレスを身につけたミシェルを、頭の先から足の先まで見ていく。


「パーティーでマリファナでも吸ったんじゃありません? 最近のドラッグは記憶が飛ぶこともあるらしいですからね」


「私、そんなことしてないわ!」


 ミシェルは一瞬呆気にとられて憤慨した。カップの底に沈む、押し付けられて折れ曲がった吸殻を指刺して言った。


「それに……」


 煙草は吸わないし、レイプされたかもしれないと言いかけた時、ルークが肩で息を切りながら家の中に走り込んできた。


 ルークは眉間に皺を寄せ、居間で女性警官と話しているミシェルを睨むように見た。いつもより低い声で言った。その様子が恐ろしげに見えた。


「これは一体……なんの騒ぎだい?」


 何も言えなかった。なにをどう説明すればいいかと、黙っているミシェルを横目でチラリと見て、女性警官は居間に歩いてくるルークにかいつまんで事情を話した。ミシェルはその間、ルークの目を見ることが出来なかった。


「――とにかく、家具の位置が変わったり、自分で書いたかもしれない落書きだけじゃ警察は動けませんよ」


 女性警官は明らかに面倒くさそうに手帳を閉じながら言った。ミシェルは立ち去ろうとする女性警官に食い下がろうとしたが、ルークに引き剥がされるようにソファーに戻された。


 ルークは外へと女性警官を促し、目の前を通りすがる大袈裟に弾む尻に向かって言った。


「とにかく、今日の所はお引き取り下さい」


 ルークが玄関先に停めてあるパトカーの前まで警官たちを見送ると、家の中を肩越しに振り返りながら、こめかみを擦り、警官たちになにか言っているのが伺える。おそらく、“妻は少しおかしいんだ”とでも言っているのだろう。


 助手席に乗った黒人の女性警官の口元が“お気の毒さま”と動いたように見える。


 パトカーが夜の闇の中に去っていくのを見届けたルークは、足元に落ちているなにかを蹴飛ばした。こめかみを押さえ、芝生の上を行ったり来たりと歩いている。


 ルークが家の中に戻ってくると、コーヒーカップに押し付けられた煙草を覗き込んで動きを止めた。手に取り、まじまじと“マルボロ”のメーカーを見ている。その顔がみるみる鬼のような形相になっていく。ソファーから立ち上がるミシェルから話しを聞くこともせず、ただ黙って書斎に入り、ドアが怒りを表現するようにバンッと大きな音を立てた。


 ミシェルはおかしくなっていく自分から、ルークが離れていくことが怖くなり、すすり泣いた。


 この状況もそうだ、ルークからすれば、私が男を引き込んだようには見えはしないかだろうか? でも、話しは聞いてくれそうにない。聞いてくれたとしても、言い訳を述べているにしか見えないではないか? それに、怖くてとても言い出せない。怖い、怖い。


 私は……私はいったいどうすればいいの?

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