第16話 過ぎ去る日常 《sideミシェル》
ルークから二週間ぶりに外出許可が降りた事に、ミシェルは大いに喜んだ。頭が痛くなるからと、しばらく飲むのを拒んでいた強い精神安定剤も飲むようにして、自分の髪の手入れもするように努めた。気を失ったりもしないし、振る舞いも自然になってきたと思う。少なくとも、あれから妄想で警察に電話をかけてはいない。
十一月としては少し暑すぎるぐらいだが、まばらな雲の隙間から降り注ぐ陽光が気持ちのいい日だ。
ミシェルは鏡の前で、化粧を仕上げようとしていた。こけてきた頬が骨ばって見えないよう化粧を濃くするが、かえって顔色が悪いように見える。ちらりと見た時計の針が、やり直している時間はないようだと知らせてくる。
階下の玄関から話し声が聞こえて来るのに気がついた。ルークが玄関でアビー・リードを出迎えているのだろうか? まだボンヤリする頭のせいか、それが現実なのか自信が無い。階下からルークの呼ぶ声が二度して、現実だと確信を得たミシェルはようやく腰をあげた。
玄関先で出迎えてくれたアビーは、ほんの少し戸惑ったように見えた。顔色の悪さがやっぱり分かるのだろうかと思いながら不安になっていると、ふわりと抱きしめてくれた。腰に手を回して自分の車の方に誘導してくれる。ふわふわとした足取りがバレないように気を使って歩く。アビーには、精神的な疲れだと説明してあるが、本当の所は何ひとつ教えてはいない。知らせぬ方が彼女にとっても、自分にとっても都合がいいと思ったからだ。
ルークがアビーを呼び止めた。
ミシェルは眼下で胎動するかのような地面のせいで倒れないように、助手席側のガラス面に手を添えて身体を支えた。見た先でルークとアビーがよろけたりせずに立っているので、地震で揺れてるわけではないのだと悟る。強い精神安定剤のせいで、空に漂う雲同様にふわふわとした感覚がミシェルの脳を蝕んでいたが、いつものように時間経過と共に雲もずいぶん薄れてきていた。ミシェルは座席に置いてあるアビーの携帯電話をぼうっと見つめていた。助手席に置いてあるのが携帯電話ではなく、血のついたナイフでも何も考えられず見つめていただろう。
ルークの頬にはいつの間にか痣が出来ていた。なにがあったのかと尋ねても転んでぶつけたとしか言わない。その頬をアビーの頬に近づけて何事か囁いている。
何故か胸がちくりと痛い。今の自分が嫉妬なんてとミシェルは思う。
おそらくだが、自分の取り扱い方法についてだろう。時間になったら薬を飲ませること。定めた時間きっかりに家に連れて帰ってくること。まるで、子供を送り出す親のような心境なのではないだろうか? そして、“くれぐれも様子がおかしくなってきたら、すぐ家に連れ帰るように”と。即ち、今のような“曇りから嵐へと”。
アビーが今の状態のミシェルの事を尋ねるのが聴こえた。薄ぼんやりとした意識下で、なんとか聴こえる断片に集中して拾い集める。
“なぜ?”、“人形”、そして“薬”。
隠していた事柄を、アビーが知ってしまったかもと思う。
アビーが空虚なミシェルとルークを交互に指さし、強い口調でなにかをしきりに訴えている。アビーは差し出された薬を半ば奪うようにして受け取った。そのまま薬をコートのポケットに押し込んだ。アビーが怒ったような足音を響かせてこちらへ向かってくる。手を小さく振り、親のように送り出すルークを、アビーは不快そうに睨みつけていた。
***
薬で出来た厚い雲が晴れると、ミシェルは今までのようにはしゃぎながら買い物を楽しんだ。青にピンクに輝くような白。陰った後に見る鮮やかな色合いが眩しく思えて、目を細めた。楽しくてしょうがなかった。服をふたつほど手に取って、身体に当てて比べてみる。
白い花柄のワンピースを手に取ったミシェルは試着用個室に入って着てみると、以前より痩せてしまっていて、ワンサイズ小さい。自分に合うサイズはあるかと店員に尋ねた。
ミシェルとアビーは楽しいショッピングが終わると、戦利品であるカラフルな買い物袋で両手を彩った。その後は、おなじみのカフェ『テラリウム』に立ち寄った。
『テラリウム』のオーナー、リー・タナカが人懐っこい笑顔を振りまいて出迎えた。伸びてきた髪をポニーテールにして、髭を生やしている。よく似合っているし、そこらの男よりもハンサム――そう、昨今でいうイケメンというやつだ。ルークと結婚していなかったら、彼とどうこうなっていたのだろうか? いや、自分なんて相手にしないだろう。実際、彼目当ての十代の子たちが店内に複数いるのだ。
珍しいことに顔に痣を作っていて、苦々しい顔で換気扇の下で煙草を吸っている。誰かと喧嘩でもしたのだろうかと思う。
「やあ、ミシェル」
「リー、今日も店内は大忙しね」
「ああ、嬉しい悲鳴をあげたいぐらいさ。あの日はなにかあったのかい?」
「あの日?」
「ルークを交えた野獣たちのパーティーさ、盛り上がってたんだが、俺はちょっと野暮用で離れたんだ。店のこともあるしね、そしたら、この店の前でパーティー帰りの、ものすごい美人と出会ってさ。信じられないぐらい上手くいったよ! 最高の夜だった! 彼女、無口で煙草も吸ったことないぐらい純粋な女性だった。俺は恋に落ちちまったねぇ」
少し残念な気持ちになったが、席を取りに行ったリー・タナカを狙っているアビーは、もっとショックを受けるだろうと思った。どこかで話題を変えなければと探る。
「ふふふ、その麗しのレディーに顔を叩かれたのかしら?」
「ああ、いや、これは……うーん、その女性とのデートが思いのほか良かったもんで、バーに戻ったのは、十時頃かな? あいつは賭けポーカーの最中、携帯電話が鳴って、慌てて逃げ帰って行ったんだ。まるでデートの時間を忘れてたみたいにさ」
「……それって何時ぐらい?」
「十一時ぐらいだったかな? 負けた分の金は払ってくれと伝えてくれるかい? 次の日にいきなり殴って来てさ、そしたら喧嘩になっちゃったんだ。なんとなく会いづらくてさ」
「え、ええ、分かった。伝えとくわ」
ルークが喧嘩? いったいどうして? つまり、ルークの顔の痣はリー・タナカとの喧嘩でついたもの。ミシェルは不審に思ったが深く考えないようにした。また妄想を膨らませると、ろくな事にはならない。
アビーとお気に入りの席に腰掛け、次の外出許可ではどこに行こうかと話しをしていたが、店内に入ってきたふたり組の男たちに視線を奪われた。まるでボディービルダーのような体型のふたりだ。リー・タナカ目当て以外にも、ここの焙煎コーヒーは人気がある。
右隣の席に座った男たちに妙な既視感があるのを感じていた。その刹那、ルークが親指を立てて『アイル・ビー・バック』と言っていた瞬間が鮮明に思い出された。今は私服だが、間違いない。ルークが電話をした時に家に来た警官たちだ。例の――映画から抜け出して来たかのような警官たち。
アビーの携帯電話の着信音が鳴り、手に取った電話を指差しながら、口をパクつかせてミシェルに詫びた。ミシェルが頷いて応じるとトイレに向かっていった。ついでに言えば化粧を直し、リー・タナカへとアピールするために胸を寄せに行ったのだろう。もしかしたら買ったばかりの下着にも変えるかもしれない。アビーがリー・タナカに気があるのはお見通しだ。
アビーがトイレに向かうのを見届けると、ミシェルはふたりの警官の方に尻を滑らせて近寄り、少しでもまともに見えるように、衣服を正し、髪を耳にかけながら話しかけた。
もしかしたら、なにか捜査の進展があったのかもしれない。気を失い、家に誰かが侵入したと思って警官を呼んだときはルークが怒ってしまったが、ルーク自身が呼んだ、このふたりの警官が犯人を捕まえてくれれば、自分が正気だったと、ルークと両親にも証明できる。そう信じたかった。
ミシェルは挨拶と自己紹介をした。そのミシェルにふたりはキョトンとした顔を崩し、笑顔を作って応じる。
「悪いんだけど、どの家のお客さんかな?」
相棒の黒人の男が後をついで言った。
「僕たち、覚えてないんだけど」
ミシェルは面食らったように黙り込んで疑問を覚え、戸惑い混じりに訪ねた。
「お客さん……というのは?」
「出張ストリッパーさ、どの家だったか思い出せないんだ。すまないね」
先ほどと同じように黒人の男が大きい目を瞬かせ後をつぐ。
「ほら、僕たちってば、呼ばれればセクシーなピチピチの警官服着て、どこにでも行くからさ。それでさ、面白いんだけど家の前まで行くとランプも点灯させるんだ。オプション料金かかるんだけど、あれが人気なんだよ」
「こいつなんてあれをデートに持ち出して――」
未だにはしゃいでいる男性ストリッパーふたりをその場に残し、ミシェルは悪い顔色をさらに青くして、居心地悪くその場から立ち去った。
その背中に戻ってきたばかりのアビーの声がかかるが、まるで何も聞こえていないかのようにミシェルは店から出ていった。
車の行き交う通りの歩道を足早に歩き、どこへ向かうともなく歩き続けた。寒気を払うかのように両手を忙しなく動かして腕を擦り、視線は歩道を見続ける。向かう先はどうでもいい。過去に起きた事の説明が欲しかった。
一台の車が歩くペースに合わせるように寄ってくる。助手席の窓が降りると、アビーが中から呼びかける。
「ミシェル! ねえ、ミシェルってば! どこ行くの? ちょっと待ってよ! ねえったら!」
自分でもどこに向かっているのか分からないミシェルは、しばらく歩き続けたが、諦めてアビーの車の助手席に乗り込んだ。
ミシェルは助手席に座ったまま一言も喋らなかった。脳内に巡る疑問が頭を埋めつくして膨らみ、また増殖していった。ルークは嘘をついていた。これは確かだ。ストーカーに追いかけられて逃げ帰った時、警察に電話なんてしていなかったんだ。家に来ていたのは、さっきのセクシーストリッパーで警官ではなかった。そして私が意識を失い、レイプされたかもしれない時、警官を呼んだことにもあんなにも怒っていたのは、本物の警官を呼んだから? 優しくて滅多に怒らないルークがあれほどまで怒ったのは、つまりはそういうことではないか? 警察を呼びたくないのだ。
なぜかは分からない。信じたい。あの時の自分を安心させるための行動なのだと信じたい。でも、それなら、なぜ、本物の警官では都合が悪いのか? 一体どうしてなの、ルーク?
ミシェルは思いをめぐらせ、指が白くなるほど拳を握り、唇を強く噛んだ。
***
アビーがミシェルを車から降ろすと、ルークが玄関のドアを開ける。ルークが迎え入れようと歩いて出てくるが、ミシェルは目も合わせずその脇を滑るように家の中に入っていった。ルークがアビーを見つめる。ミシェルに薬を飲ませなかったことに勘づいたかもしれない。そういう目をしていた。アビーはふたりに何も言えなかった。ミシェルの背中に、躊躇いがちに“またね”と言っただけだった。ルークは肩を竦めて家に戻って行った。
閉め出されるようにその場から離れたアビーは、自分の車に戻るまでに何度も振り返った。ミシェルのやせ細った背中は、見る影もなかった。まるで幽霊のようだった。次に会う時はもっと痩せているのだろうか? それでも人間は生きていると言えるのだろうか?
そして車に戻ってからも、アビーはしばらくアルバラード家の玄関を見つめた。雨粒がフロントガラスを濡らし始めると、アビーの目からも雨粒が流れ落ちた。なにかが終わりを告げるかのように、ゆっくりアクセルを踏んで、移り変わる世界を置き去っていった。
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