二度目の吸収統合

第35話 “針” 《sideミシェル》

 新月の夜、ひんやりとした空気が窓やドアの隙間から入り込み、蝕むように地面や壁を這い進んでいた。


 安息とは言えない不安の入り交じった眠りの中、突如うなじに焼け付くような痛みを感じて目を覚ました。


 実際、熱でも帯びているかのように触ると熱い。深夜の冷気に冷えた身体が対称的に震えている。


 すぐ側で誰かに片腕を押さえられているのに気がついた。サイドテーブルの心もとない明かりがついていて、暗闇の中に誰かがいた。思わずベッドの中で身体を引く。顔を上げた先でルークが見下ろすように立ち、手に持ったロープでミシェルの左腕をベッドに縛りつけようとしていた。


 そうだ。だんだんと思い出してくる。ルークがニコラスを実家に送る間、私は打ちのめされ、拠り所を探すように泣いていた。帰ってきたルークが落ち着かせようと薬を差し出し……私は……悪習のように、それを飲んだ。


 昨日までのルークとは明らかに違い、優しく微笑みかけてくれるルークの存在は、そこには微塵もなかった。無表情で、歯を食いしばった顔。


 ルークは目を覚ましたミシェルに舌打ちをすると、恐ろしい程の腕の力で無理やり押さえつけ、サイドテーブルにあった何かを鷲掴んで口の中に押し込んできた。何かの薬のような異物感。喉の奥に当たる感触。恐怖に引き攣る喉がそれを咄嗟に飲み込んでしまう。


 ミシェルが手足をばたつかせて抵抗すると、肘がルークの顎に当たり、がちんと歯と歯がかち合う音が響いた。


 ズレた眼鏡を鼻の上に戻しながら、にじり寄ってくる。片腕がロープにがっちり封じられてしまった。痛みに顔を顰めるわけでもない、顔色ひとつ変えない、その無表情さに恐怖を覚えた。


 ミシェルはきつく締められているロープに爪を立てて外そうともがいた。


 ルークが覆い被さるように両脚を押さえつけ、次なるロープで脚を乱暴に縛り上げていく。


「やめてぇ! ルーク! お願いやめてぇ! 怖いぃぃやぁ!」


 部屋の隅でぼんやりとした明かりがサイドテーブルの上にあるいくつもの道具を照らしている。


 鋭いナイフや医者のテレビドラマで見るような器具。日曜大工で使う工具。そしてロープ。


 ミシェルにはそれらの用途が分からない。だが、どれも恐ろしい形をしていて、これらは自分に向けられるのではないかと危惧する。知ってか知らずか、ルークはそれらをサイドテーブルごとベッド脇に引き寄せてくる。


 ミシェルは身体をよじり、唯一自由に動く右手で、左腕のロープを解こうと腕の皮ごと掻きむしった。


 あまりにきつく縛ってあって、左手首から上が血の気を失って白くなってしまっている。


「イヤッ! こんなのイヤよ!」


 ルークはロープを持ち、残る右腕を押さえつけようと迫ってきていた。掴まれないよう抵抗するがそれも虚しくすぐに掴まる。


 覆い被さるようにミシェルを覗き込み、思わず背ける顔をルークが掴んで引き戻す。無理やり押さえられている顔が痛い。暗闇の中で鈍く光る眼で覗き込みながら、ルークは言った。


「分かったんだよ、ミシェル……やっと。ニコラスのあの“最後の言葉”、あの“言葉”を聞いてやっと分かったんだ。どうすれば“エルザ”を取り戻せるのかを」


 ルークはミシェルに股がったまま両腕をオーケストラの指揮者のように広げた、声高々と謳う。


「“あの針”……そう……“あの針”だ! ミシェル、君は僕たちの愛の中に必要ないんだよ。もう消えてもらうしかないんだ」


 ルークは残っている唯一の右手首にロープをぐるりと巻き、ベッドの端へと括りつけていく。


 悔しい悔しい、悔しくてたまらない。やっぱりだと思った。やっぱりルークは、私を見ていなかった。私の中のを見ていたんだ。気付いていたが、分からぬふりをし続けていた。家族たち、みんなが見つめる空虚な目が物語っていたものだ。“入れ物”。それならば赤ちゃんはどうなる? このままエルザに身体を乗っ取られるなら、私たちの……私の赤ちゃんもに奪われるのではないか? おもちゃのように引き裂かれるのではないか?


 ミシェルは渾身の力を込めて、残る最後の腕を曲げることで抵抗した。


「うぁあぁぁぁぁっ!」


 ミシェルは全身をめちゃくちゃに動かした。括りつけ損なった暴れる腕を押さえつけるために、ルークは身体ごと全体重をかけてくる。ミシェルは目の前にまで迫ってきた耳に噛みつき、獣のように首を振って引きちぎった。


 部屋の白い壁に血が飛び散る。


 ルークは猛烈な痛みに叫び、ベッドから転げ落ちて、その勢いでサイドテーブルの器具たちもひっくり返した。


 吸血鬼のように口の端からルークの血を滴らせたまま、口の中にある耳の肉片を吐き捨てる。ミシェルは必死で自由になった右手で、左手首の戒めを解こうとするが、あまりにも結び目が固くて解けない。


 今すぐに逃げたい恐怖に焦り、手が震える。首を伸ばして見た先では、人が変わってしまったルークが、欠けてしまった耳を押さえて転がるのが精一杯の様子。


 ミシェルはルークが転がり落ちる際にひっくり返した道具が、ベッドの上の膝元に落ちているのを見つけた。


 縛られている手が痛むのも構わず、めいいっぱい伸ばし、右手の指先で手繰り寄せる。医者が手術の時に身体を切り開くという道具だ。不思議と手に馴染み、さっとロープを切る。


 その切れ味に一瞬驚いた。鋭すぎて右手首を切り裂きかけたのだ。


 驚くほどの切れ味で、続いて両脚のロープも簡単に切り裂いた。


 ロープを蹴るように解くと、立ち上がって走ろうとした。だが、手足の感覚が言うことをきかないことに気づいた時にはもう遅く、ミシェルは前のめりに転んだ。


 まるで全身が痺れているかのようだ。ルークにさっき飲み込まされた薬のせいだと思う。


 思い通りに動かない手足に歯噛みしながら、なんとか起き上がって、ふらつく脚を叱咤するように両手で押さえ、一歩一歩と動かしながら階段を降りていく。


 急ぎすぎればこの階段から転がり落ちてしまう。階段に備えられている手すりにしがみつき、それでも急ぐ足を擦りながら降りていく。


 部屋で苦しんでいたルークが大声で叫んだ。


「ミシェェェル! このクソ売女が! 殺してやるぞ!」


 ルークの爆発せんがほどの怒号に、ミシェルの手足は強張る。もつれる足が段差を踏み外してしまい、階段を転げ落ちていく。その過程で手をつき、肩、背中、膝、足の指へと衝撃が移り変わる。


 階段の下で痛みに呻くミシェルは、追い立てられるように立ち上がろうとするが、太ももに貫くような痛みが走った。だが、心なしか痛みが薬のせいで鈍い。それはどこか遠くの出来事のよう。


 痛みの先を見てミシェルは驚愕した。逃げる時に掴んでいたが、自分の太ももに突き刺さっていた。


 煌めく刃の周りから溢れ出ていく赤く暖かい血が、服をどんどん染め上げていく。


 横這いになり、這って逃げようとするが、肩越しに見たこともないほど怒り狂ったルークが階段を駆け下りて来るのが見える。


「いやぁぁぁあ!」


 手を床について身体を滑らせるが、難なく追いつかれ、ルークが背中に馬乗りになった。


 ルークの重みでミシェルは動けない。息も絶え絶えだ。


 床面を押し上げようとしたが、自分とルークの体重が持ち上がるはずなどなく、辛うじて膝と肘でお腹への圧迫を庇う。捕まったミシェルは、涙を流し、か細い声をひねり出して聞いた。


「ううぅ……? 一体なの? ルーク」


「知りたいってのか? まぁいいだろう」


 ルークは眼鏡を持ち上げた。耳にかかっているフレームが、ちぎれたばかりで血の滴る耳を刺激した。痛みに呻く。


 舌打ちをして、戻ってきた怒りに呼応する。ミシェルの髪を掴みあげ、頭を床に叩きつける。


 世界の上下が分からなくなりそうなほどの衝撃。ミシェルの唇が切れて血がにじみ出る。目の焦点が虚ろになる。


「僕が愛しているのは、お前じゃない! お前は邪魔でしかないんだ!」


 ? ルークは何を言っている? だって、父は――。


 ミシェルの髪を乱暴に掴んだまま、ルークが立ち上がって歩き出した。


 床を引きずられながらミシェルは抵抗しようと試みたが、引っ張られる髪の毛を掴んで痛みに耐えるのが精一杯。


 ルークの耳から流れ落ちた血が、床に降り注いでくる。そんな状況でも、興奮した様子のルークは笑いながらミシェルを引きずり、ソファーに叩きつけるようにミシェルを放った。


 うつ伏せに寝かされたミシェルは逃げようと頭を持ち上げたが、ルークが放った打ち落とすような拳骨が顎に当たり、景色が歪んで意識が飛びそうになった。


 酔っ払った時のように世界が歪み始める中、聞いたこともないようなルークの笑い声が響いて驚いた。明らかにいつものアニメを見て笑う声ではない。聴いたこともないその笑い声はまるで別人だ。


「まったく、めでたい奴らだ。アルマは殺して正解だった」


 ルークはよく聞こえるようにミシェルの耳元で続けた。


「あいつは警察にチクろうとしてやがったんだ。旦那と娘、義理の息子まで警察に売ろうとしたんだぞ? ニコラスの指示でこっそり車に細工をしてやった。それだけで充分だった。当然の報いだよ。だが、まさか電車に轢かれるとは思わなかったがなぁ。傑作だった。あれには笑ったぜ」


 ミシェルは怒りに呻くが、それしか出来ない。


 今、彼はなんと言った? つまり、あの日、母さんは警察に行き、なにかを伝えようとしていた。それに父さんの指示で、母さんの車に細工したですって? だって……でも……それじゃあ……。


「それに、ニコラスはお前に嘘をついた。お前には、エルザがと教えていたが、そうじゃない。そうじゃないんだ、ミシェル」


 ミシェルは後頭部を掴まれ、ソファーに押し付けられた。鼻も口もソファーに沈み込んでいる。


 息が苦しくなり、ルークの腕に爪を立てて悶えるが、男のルークの体重を乗せた押さえつけにピクリともしなかった。頭が痛い、腕が痛む。脚に刺さったメスが深く押し込まれていく。それでも空気を求めて悶えた。顔の前に手をやる事で僅かに空気を吸い込める。


 ルークがさらに力を入れ、馬にでも乗っているかのように勢いをつけた。


 ミシェルの頭が圧迫され、鼻腔が裂けて血が滲んだ。その血がさらに息苦しさを増長させる。


 痛みと窒息しそうな中で、これからルークがどんな残酷な事を言おうとしているのか、そして自分をどうしようとしているのかを想像し、全身が恐怖に包まれていく。震えている身体、涙が溢れ、嗚咽が上がってくる。


 ルークは思い出に浸るように淡々と語った。


「ニコラスたちはお前を愛していた。だが、嘘をついた。四歳の時に転び、頭に針が刺さった。ここまでは合ってる。だがな、その時にの人格が蘇ったんじゃない。“”が頭を怪我してお前の人格が生まれたんだ」


 ミシェルは動きを止めた。


「なぜ? 僕たちの生活に君がいるんだ? なぜ? 僕たちの愛に、生活に、僕たちの人生に割り込んできた? なぜだ? 君はなんのために存在するんだ? ミシェル」


 なんの……ために……?


「おまえと結婚したのも、お前のためじゃない。ローンを払い続けているのも、薬をもらっているのも、お前をこの世から消すため。本を書いているのも、お前のためにじゃない。あの本に、女神ミューズに登場する女もお前がモデルじゃない、だ。すべてのためなのさ」


 なんのために……?


「お前の身体の内に、お前の中に、お前のうなじの先にいる、のためだ。お前なんかのためではないんだ! お前にはないんだよ、ミシェル」


 私は……なんのために存在している?


 答えのない疑問がぐるぐると頭を巡り、自分のものですらない身体から力が抜けていくのを感じた。それは淡い希望が抜け落ちていくようにも感じられる。全て枯れ落ちる花弁のように。後に残されるのはただひとつ。


 ルークの言葉に頭の理解が追いつかない。なにも考えられない。身体が震える。言うことを聞かない。涙が溢れ出ていく。


 ルークは尻ポケットに差し込んでいたペンチを握りしめた。ミシェルの後頭部にゆっくりペンチを押し付ける。冷たい無機質なものが後頭部にある古傷をなぞり、頭蓋にまで達している針を探り当てた。


 ルークが傷の中心にある針を、皮膚ごとペンチで挟み、両手で力いっぱい掴んだ。


 ミシェルの脳天に落雷のような衝撃が突き抜けるのを感じた。


 長年、頭の中にあったそれは、ツタのように神経という枝を伸ばし、絡みついていて、ルークはその根っこを捉え、頭に足を乗せて腰を入れる。周りにある皮膚を、筋肉を、視神経を、力任せにぶちぶちと引きちぎっていく。今ではもう脳の中心であるをゆっくりと引き抜いていった。

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