第1話 白い花 《sideミシェル》

 自らの長く白い髪が、垂れる花弁のように地面を撫でる。頭を傾け、肩にかけるように髪を梳いてやる。地面にかがみこんで耕したばかりの場所に袋を傾けた。肥料が想定より多くこぼれ落ち、慌てて袋を引き上げる。スコップでほじくり出し、まだ肥料の行き届いていない場所へと運んでやる。ミシェルは土いじりが得意で、趣味と言えばこれになるし、そして仕事でもある。花を育てるのは好きだし、子供の頃からやりたかった仕事だ。仕事としてやっているうちに情熱を失いそうになったことは何度もあるけど、未だ続けている。


 陽が傾き始めてオレンジ色の世界へと姿を変え始めると、ミシェルは空を見上げ、腰に手を当てて凝った筋肉を伸ばした。心地よい風の匂いを嗅ぎ、胸いっぱいに受けて酸素を蓄える。差し込むような陽の光を顔いっぱいに受けて薄目を開けた。


 その目の前を蝶が羽ばたき、光の中にその残光を残し旅に出ていく。ミシェルはその様子を愛おしそうな眼差しで追いかけた。


 裏庭に設置された白いテーブルと椅子に歩いていき、まだ土が所々ついたままのシャベルと、ピンクの作業手袋の土を叩き落としてテーブルの上に置く。


 ミシェルは腰に手を当てて振り返る。その先にある小さなグリーンハウスの設置された裏庭をつぶさに眺めた。


 薄いピンク色の花を咲かせたシャクヤクなど、色鮮やかな花で埋め尽くされている。白い花が特に好きで、庭の一角は日本から取り寄せた“白い彼岸花”が締めている。一番好きな花はこれと言っていい。花言葉は“また会う日を楽しみに”そして、“想うはあなたひとり”。なんともロマンチックな姿で、風に吹かれる様は幻想的だ。


 脇には装飾の施された鉢が並んでいる。ワゴンセールで安く買い叩いたにしては、混じりあった色の風合いが見事で気に入っている。以前は陶芸教室に通ってろくろを買ったが、今ではほとんど手をつけていない。今頃はホコリが積もっていることだろう。


 それでも、やっぱりこの瞬間が一番好きだなと思い、ほうっとため息をひとつ。靴にこびり付いた土をトントンとリズム良く打ち合わせて落とす。こじんまりとしてはいるが、愛情たくさんの我が家へと戸口をくぐって行った。


 裏口から中へと入ると、リビングの方からテレビの音が聞こえた。ミシェルはあまりテレビを見ないし、見ないようにしている。


 テレビをつけることもあるが、音を聞いているだけのことが多い。では、誰がテレビを付けているのかだが、その答えは考えるまでもなかった。


 つけっぱなしのテレビが小さな音声でニュース番組を放送していた。画面の中では最新の犯罪ニュースをコメンテーターが事細かに語っている。リモコンを探り当て、ボリュームを少しあげる。


 人が死んでいるというのに、まるで他人事で、本の中の物語かのように面白がりながら語っている。


 カメラが騒々しい犯罪現場の様子を映そうとレポーターの方へ画面を切り替える。画面の端に黒いバンが見える。ニュース44フォーティーフォーのロゴが映り、その前で女性レポーターが喋り始めると、すぐにカメラ外へと誰かに突き飛ばされた。どうやら年配の女性が男の子の捜索願いの紙を持ってカメラの前に飛び出してきたのだと分かる。


 女の目は虚ろで血走り、引き結ばれた口は頑として開かれなかった。髪はまったく手入れをしていないかのようにボサボサ。


 この女性は十三年も前から毎日こうして行方不明の息子の写真を配り、小学校や食料品店、公園や病院などで見かけられていた。ある意味でのこの町の有名人だった。


 紙にはこう書かれている。


『ジェイソン・ホープ、六歳、赤と白のチェック柄シャツにブルージーンズ』


 笑顔のかわいらしい少年が写っている。


 カメラは本来映すべき女性レポーターの方へ向けられ直した。一瞬、腹を立てた様子の女性レポーターが映っていたが、衣を正し、プロらしくめげずにレポートを始めた。


 例の、古い改装中の教会で、作業員たちが集団失踪し、血溜まりだけが残され、遺体がどこにも見当たらない。この街で起きている連続失踪事件の速報だ。


 スタジオへと戻された映像の中で、高そうなスーツに身を包んだコメンテーターたちは熱弁を奮い、“血染め花のマリー事件”との類似点を語り合っていた。


 ミシェルはその様子を腹立たしく見ていたが吐き捨てるように一言文句を漏らしてテレビの電源を切ると、リモコンを勢いよくソファーに放り投げた。


 ミシェルは腰に手を当て、書斎へ視線を向けた。テレビもつけっぱなしで、書斎に篭っている主の方を。


 夫のルークは居間に隣接する書斎で本を書いている。近所の集まりや催されるパーティーなどでは、参加者たちに何度も題名を聞かれる始末だ。つまり誰も読んでいないし興味もないのだろう。俗に言う“売れない作家”。


 ヒットしたのは四年前の出世作“女神ミューズ”だけである。相容れないふたりの男女の物語。鏡の中の世界と現実世界とで惹かれ合い、住む世界が違うという悲恋物語りだ。自分達をモデルにしていると言うルークに、ミシェルは度々この話の結末が気に入らないと話たことがある。


 ルークの後頭部にはいつも寝癖が残っていて、よく眼鏡をどこかに置き忘れたり、いい加減でおっちょこちょいなのは自他ともに認めている。だが、ミシェルにとっては世界一優しい夫であるのは変わらない。


 ミシェルは階段を登り、クローゼットからランニング用の服を取りだして着替えた。不意に不安に駆られ、胸元に服を押し付けた。辺りを不安げにキョロキョロと見渡す。


 今朝、起き抜けのままでくしゃくしゃになったシーツ、大きく開け放たれた窓、その先では陽が陰り、今まさにそのご尊顔を隠そうとしていた。そよ風にたなびく白いカーテン、そして、寝室のドアへと視線を巡らせる。


 ミシェルはひと通り視線を移し終えると、普段は長髪の下に隠しているうなじの傷跡をさする。この傷跡は天気の移り変わりや気圧の変化に呼応するように頭痛を呼び込むが、天気を知るのに役に立つこともある。カーテンの裾を握りしめて勢いよく閉じる。ミシェルは安心したように着替えに戻った。肩を撫でる白に近い白銀の髪をひとつにまとめ上げ、キッチンに降りていった。


 湯気の上がるコーヒーメーカーからカップに香ばしい液体を注ぎ、鼻を近づけて香りを楽しんだ後、テーブルの上にコースターを用意してその上に置いた。


 カチリとボールペンの芯を押し出すと、メモ用紙にサラサラと小気味いい音をさせながらペンを走らせる。


 コーヒーカップをメモ用紙の重しにしてランニングに出かけた。



 ***



 数分後、書斎からルークが空想の波にもまれ疲れ、鼻にずり落ちてくる眼鏡を押し上げながら亀のようにノロノロと出て来た。後頭部の寝癖を撫で回してキッチンの戸棚を開けると、数種類のコーヒー缶が所狭しと並んでいる。コーヒーメーカーに伸ばす手を止め、鼻を兎のようにひくつかせた。


 後ろを振り返り、テーブルに置かれたメモとコーヒーに意識を向けた。


 お気に入りの赤い花の絵柄が入っているコーヒーカップを手に取ると、鼻の先で温度を測るように近づけ、香りを嗅いでひと口啜る。猫舌のルークにとってちょうどいい温度のコーヒーだ。


 花の模様がついたメモ用紙には『ランニングに出かけてくるわ、愛してる』と書かれていた。


 ルークはコーヒーカップを両手に包むように持ち、その温もりと香りを味わいながら書斎に戻っていった。

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