第18話 雲間の先《sideミシェル》

 ミシェルが強い薬の副作用で痛む頭と、鎖でもついているかのように感じる重い足を引きずる。階段に差し掛かる。もう薬は飲みたくない。こんな思いをしたくない。もういやだと、一段一段思いながら降りていく。


 窓辺に立ったルークが腰に手を当て、まるで日光のシャワーを楽しむようにコーヒーを啜っていた。


 ここ一週間ほどは毎日雨が降り続いていたが、この日は久しぶりに晴れ間が覗いているので、グリーンハウスの一角にある“白い彼岸花”たちはたっぷり吸った水分と朝日とで、元気そうな花を広げていた。十月までが開花時期ではあるが、十一月になっても、まだ暖かいからだろう。それに、“彼岸花”の頭上には、ルークが面白がって作ったモルモット用の一滴ずつ水が落ちていく装置があるので、雨さえ降れば水には困らない。


 ミシェルはルークに寄り添うように隣に立って裏庭を眺めた。それから見上げた先で、窓から入り込む朝日に照らし出されたルークは、気持ち良さそうに目を細めている。


「おはよう、ミシェル。今日はいい天気だよ。見てごらん、君の庭がまるで楽園のようだよ」


「ええ……」


 ルークには“彼岸花”しか見えていないのだろう。ミシェルはここ最近、花々の手入れを怠っていた。薬のせいか、重だるい身体で気が滅入ってしまっていたのだ。雑草が目立ち、グリーンハウスの中の一部の花々は萎れてしまっている。というのも、アビーとまったく連絡が取れなくなったのだ。何度電話をかけても呼出音が続くだけだ。それに精神安定剤が強く作用し、頭の中に霧が発生しているかのようにどこか現実味がない。今もそうだが、まるで夢の中のよう。


「今日は久しぶりに買い物にでも出かけてみようか」


 ミシェルは笑顔を作ったが、不安だった。痩せこけて虚ろな表情で微笑む自分の顔が、どのように笑っているのか分からない。それでもめいいっぱい頬を上げて歯を見せ、目を細めて見せた。


 ミシェルが薬の事を話し出せないまま、買い物が終わり、昼を迎えた。ルークが食料品店『N’sエヌ・ズマート』で買ったばかりの荷物を車に積みこんでいく。痛む頭を揺らし、ゆっくりルークの後をついてまわる。ミシェルにその手を伸ばし、腰を支え、手をとって車の助手席へと導いてくれた。甲斐甲斐しく世話をしてくれるルークにもっと甘えたくなったミシェルはわざと身体の全体重を預けた。今ではすっかり細くなってしまった身体を、細くとも健康な身体のルークがふわりと持ち上げてくれ、助手席に座らせてくれた。ミシェルが不安の残る笑みを浮かべるとルークは微笑み返してくれた。


「ごめん、ちょっとトイレに行ってくるよ。すぐ戻るから」


 小走りに走るルークは子供のように見えてかわいく思えた。ああ、子供がいれば彼のように育つのだろうか? ぜひそうなって欲しいが、どうすればいいのか解決策がみえない。やはりどこか現実味がないのだ。それも今朝飲んだ精神安定剤のせいだろう。今はゆっくりと霧が晴れていく最中。昼ごはんの後に一錠飲めば霧が再発生だ。


N’sエヌ・ズマート』の前では、年配の女が行方不明の紙を配っている。息子が印刷された紙の束を持って、道行く人々に半ば強引に押し付けていた。そこには“ジェイソン・ホープ”と書かれている。『N’sエヌ・ズマート』から出てきたばかりの男たちが仕方なく受け取ると、そそくさとその場を後にした。今ではそのせいか他に人はいなくなってしまっている。


 ミシェルは助手席の窓を下げると、腕を乗せ、その上に顎を乗せて外を眺めていた。緩やかな朝日の中を泳ぐように飛ぶ鳥、爽やかな風に揺られる街路樹に目を奪われ、どこか宇宙に飛んでいる精神が鳥と一緒に漂っていた。浮遊するミシェルの瞳はある一点を見つめて止まった。瞬時に浮遊する精神がミシェルの身体に戻り、ぐつぐつと沸き立つような胎動が精神を縛り上げる。見つめる先では物乞いをしているホームレスが座り込み、ヘラヘラと歯の抜けた笑顔で、擦り切れて読めないラベルの缶を差し出していた。


 ミシェルは突如、後頭部から槍に貫かれたかのような激痛に襲われた。身体は強ばり、声にならない叫び声をあげて頭を抱えた。



 ***



 ミシェルはホームレスの男の正面に立ち、氷のような青い眼で見下ろした。


 差し出された缶、見上げる卑屈な瞳の顔面に向かって、ミシェルは握りしめた拳骨を振り下ろした。鼻から鼻血が吹き出し、それが折れ曲がった感触がミシェルの手に伝わる。ホームレスの男は鼻を押さえて蹲った。その腹に押し出すような蹴りを打ち込む。


 男は堪らず地面にひっくり返った。


 ミシェルは地面に倒れた男の腹を、勢いをつけて蹴りつけ、頭を踏みつけた。


 もう一度足を振り上げ、勢いよく男の頭を地面に踏みつける。鈍い音が地面から聴こえた。


 走って戻ってきたルークがミシェルに飛びかかってくる。なおも男に向かって踵を振り下ろそうとするミシェルを引き剥がすと、男とミシェルの間に身体を滑り込ませて、男のポケットに財布の中身のほとんどをねじ込んだ。


「悪かった! 悪かったよ! これを受け取ってくれ!」


 その場から引き剥がされる。振るったパンチは空を切る。ルークは悪徳警官のようにミシェルの後頭部を押さえ、力尽くで助手席に押し込んだ。


 急いで運転席に回るルークに向かって、ホームレスの男はあらん限りの声で叫んだ。


「あんたのクソッタレ妻はイカれてるぞ!」


 ルークは急いでエンジンをかけると、逃げるようにその場から走り去った。


 車のミラー越しに見えるホームレスが、まだ何事か叫んでいる。その手には札がしっかりと握りしめられていて、やがて首を振りながら札を数え始めた。


 ミシェルは鏡の中で、恨めしそうに睨みつけている“ジェイソン・ホープ”の母親をずっと見つめ返していた。



 ***



 だんまりだったルークは家に戻った途端、乱暴に買い物袋をテーブルに置いて、弾かれたようにミシェルに詰め寄った。


「おい! 正気か? ホームレスに暴行するなんて! 君がいると思っているストーカーとは何の関係もないんだぞ!」


 ミシェルは爪を噛みながら居間を歩き回っている。まるで檻の中のメスライオンのようにルークを時折睨みつけ、未だに戦闘態勢を解かない。


 しばらくふたりは無言で睨み合っていた。何も言わず睨みつけているミシェルに堪えきれなくなったのか、花瓶を掴むと投げつけてきた。花瓶はミシェルの髪を揺らして壁に当たって弾け飛ぶ。


 それでも怒りの治まらない様子のルークは、キッチンテーブルとテレビの間を頭を抱えながら行ったり来たりしていた。


 ミシェルがソファーに座ると、それを見たルークはテーブルから椅子をひき、目頭を押さえたまま考え込む。しばらく時間が経った。


 ようやっとルークは落ち着きを取り戻した様子。震えた声でミシェルに話しかけた。


「……ミシェル、薬は飲んでいるのかい?」


 ミシェルは何も答えなかった。


 以前とは違い、辛い副作用に悩まされて、薬を飲むのは日に日に少なくなっていることを、ミシェルは言わなかった。直近で言えば、一昨日の夜しか飲んでいない。ルークには相談すべきかもしれないが、今は気分が悪い。ものすごく。それこそ暴力もいとわないほど。


 諦めたようにルークが洗面所に行き鏡戸棚を開けた。所狭しと並ぶ薬の中からミシェルの薬を取り出して開けると、蓋のすぐ下で錠剤が並んでいるのを確認している。減ってはいるが、ほとんど手をつけていないと言っていいほどだ。


 ミシェルは乱暴にどしんどしんと階段を上がり、寝室に向かった。


 後に残されたルークは洗面台に薬を置いてミシェルの後を追う。洗面台に置かれた薬には、何度も貼り直したラベルが貼ってある。薬の材料になにが入っているか書かれているラベルは、擦り切れて読めなくなっているので、ニコラスのミミズがのたくるような字でシールが貼ってある。ただ、ミシェルの名前と“朝、昼、夜、一錠ずつ”とだけ書かれていた。

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