第5話 骸骨 《sideダイス》
なにかがボスンボスンとベッドの上で跳ねていて、沈む瞬間に酷く揺すられる。本能的に戻ってくる意識が眠りから覚めたくないと抵抗している。いやだ、まだ起きたくはない。三日前の血溜まりの現場で最近はずっと証拠や証言を探し回っている。そこから戻って来て、体感ではまだ二時間ほどしか眠っていないのだ。
それでも頭上のキャハキャハとはしゃぐ声が移動し続ける。まるでトランポリンのようにベッドの軋む場所が右へ左へと催促する。布団で頭を隠す。助けを求めるように宛もなく伸ばした手が、サイドテーブル上の小説“
「……ウェンディ、ウェンディ。分かった、分かったよ。起きるってば。ウェンディ、頼むからベッドで跳ねるのはやめてくれよ。昨日の酒が出てきちまう」
「パパったら! お寝坊さんなんだから! 早く早く! 起きて起きて起きてよぉ!」
ウェンディが跳ねる勢いのまま飛び降りた。亀のように被っている布団の隙間から、小さな脚が走り去っていったのを見届ける。ため息ひとつ。
ダイスは重苦しい身体を起こし、ベッドの端に座り、乱れた髪を撫で付けながら足の指を数える。
立ち上がり、バスルームへ行って鏡の中の自分を見つめて無精髭を撫でた。乱れた髪が頬を撫でている。
ふぅっと吐いたため息が、鏡を曇らせた。視線を落として顔を洗い、顔を上げた。その先、曇った鏡の中には、自分の顔の代わりに骸骨の顔が浮かんでいた。小さく身体が反応し、舌打ちひとつ。
鏡戸棚をめくり、中からウイスキーを取り出して口に含んだ。軽く舌の上で転がす。起き抜けのウイスキーが渇いていた喉を熱く通り抜けていく。
両目をギュッと瞑って十数える。
棚にウイスキーをしまい、鏡戸棚を元に戻す。
そこにいるのは無精髭で疲れた顔の男。
おかえりダイス。おめでとう、いつも通り死んじまいそうな顔色だと皮肉って思う。
知らぬ間にかいていた汗をシャワーで流して、シャツを着る、昨晩脱ぎ捨ててヨレたままの濃紺のスーツを一嗅ぎ。悪くないぞと自分を褒めてやる。
拳銃を脇下のホルスターにしまい、上着の内ポケットにあるアルミ製のフラスクを取り出して振ってみる。心許ない量に感じ、バスルームへと戻ってウイスキーを注ぐ。満足したように
階下に降りると、卵を炒めた甘い匂いがふんわりと漂っていた。テレビの前の席に座ったウェンディが、器から零れたシリアルを見えないものとして扱い、ミルクを危なげに器に注いでいた。
キッチンでは妻のエブリンがサンドイッチを切っている。朝日に照らされて光り輝いて見えた。
エブリンが一瞬、顔を顰めたように感じ、ダイスは目を瞑る。呪文のように十数える。ダイスは自分の口から酒の臭いが想い想いの方へと逃げて、ウェンディの鼻に届いていないかと心配になり慌て離れた。
「――ウェンディ、なあ、パパにもミルク分けてくれないか?」
ダイスは返事も待たずにウェンディのコップのミルクを飲み干した。酒の匂いを誤魔化すなら、ミルクが一番いいのだと経験から学んでいた。
「あーっ! もう! パパったら、これはウェンディのよ!」
「ハハハッ、ごめんごめん、ほら、もう一杯注ぎますよ、お嬢さま」
ウェンディは頬を膨らませて抗議しているが、テレビに視線が吸い寄せられるとそんな事実はどうでも良くなったようだ。
テレビにはアニメが映し出されていて、ポップな効果音と共に黄色いキャラクターの目玉が宙へと飛び出ていた。
ダイスはコーヒーメーカーからポットを取り出してコップに注ぐ。途端に芳醇な香りがふわりと登ってくる。
熱いと感じながらも啜り、テレビに目をやると、すぐさま携帯電話が鳴った。画面にはジョン・スミスと表示されている。
「はい、ダイス」
「よお、どうだ? 頭はまともに機能しているか?」
「冗談だろ? 二時間前に眠ったばかりなんだ」
「ふん、俺もだ。俺はこの電話を切ったら吸血鬼みたいに棺桶で眠るよ。それと、これはご褒美だ。お前さんが心待ちにしている分析結果が出た」
「……早かったな。あと最低でも三日はかかると思っていたが」
「ああ、部下の尻を馬みたいにひっぱたいて急がせた。DNA鑑定の結果は案の定ヒットしなかった。作業員の中に犯罪者のひとりでもいれば反応はあるだろうがな。いつも非犯罪者が死んじまう。それと、答えは“花”だ」
教会の血の海に沈んでいた断片だろうと察する。
「“花”? そこらに生えてる、あの?」
「そう、その“花”だ」
「なんでそんなものが……」
「分からん。それはお前さんの仕事、俺の仕事はここまで。俺はマスでもかいて寝るとするさ」
ダイスは思わず顔を顰めて呻き声をあげることで抗議する。
「“花”の種類はなんだ?」
ジョンが大きなあくびをしているのが電話ごしに聴こえた。分析結果が出たことで起こされたのだろうと容易に推測出来る。
「……しょうがない、出血大サービスだ。“リコリス”って種類なんだそうな。蜘蛛が脚を広げたような見た目で、“レッドスパイダー・リリー”と異名があるらしい。他にも別名では“彼岸花”って呼ばれてるみたいだ。画像も見せてもらったが、言われてみれば確かにひっくり返った蜘蛛の格好してる。まぁ、俺から見たら花は全て花なんだがな」
「“蜘蛛”と、“リコリス”に、“彼岸花”……ね、……それらもお前さんが調べたのか?」
「いいや、部下のレイチェルが知っていた。俺が花の事なぞ知るわけがなかろう?」
もう一度ジョンがあくびをする声が聴こえた。隠す気はないらしい。
「とにかく、そういう事だ。それとなダイス、今度の事なんだが――」
「――ああ、考えておくよ」
ダイスは急ぎ携帯電話を切ると、ポケットに押し込んだ。ジョンには悪い事をしたと思う。親切心から言っているのも分かる。ジョンの家でのパーティーに呼んでくれているのだ。とにかく“誰かと話せ”と言うことなんだろう。主にレイチェルとなのだろう。いい子だが、今はまだそんな気にはなれなかった。
振り返ると、ウェンディは小学校に行くリュックサックを背負い、テレビに見とれていた。
腕時計を見る。そろそろ時間だ。
「ウェンディ、トイレは大丈夫か?」
「うん! 平気よ! パパ!」
しばらく前まで落ち込んでいたウェンディの、空元気ではない笑顔を見て、安心したように桃色のリュックサックの背中を押した。相も変わらず光を受けて輝くエブリンに笑顔を向けた。
ウェンディを小学校に送り届け、しばらく入口で子供たちが入っていくところを見ていた。虐められる心配はないだろうが、ほかにも心配は尽きない。なにしろ学校へ通う半分は男なのだ。
視線を戻し、ひとり、黒いクラウン・ヴィクトリアの車内でグローブボックスを見つめていた。窓枠に肘を乗せて口元を覆い、物思いにふけっていた。
手がかりは“花”……“血染め花のマリー”はなぜあんなものを残した? 今までの殺害現場にはなかったものだ。凶器にはなり得ない。ならば、意図して残したか、それとも残さざるを得なかったか。だが、それで何ができる?
ダイスはもう一度グローブボックスを見て下唇を強く噛んだ。ゆっくり手を上着のポケットへ伸ばしてフラスクを取り出す。蓋に手をかけて止まった。意志の力で抵抗を試みるが、あっさり耐えきれなくなって口元へ運んだ。一度あおるだけのつもりが、六回ほど飲み込んだ。
ダイスは第二分署へと出社すると、地下への階段を降り、未解決ファイル保管室と書かれた部屋へと直行した。後任の警官が不思議そうな顔でダイスを呼び止める。
「ダイス刑事、ここへは入れません」
「いいや、入れるはずだ。荷物も移動してないし、まだ引き継ぎの手続きにサインすらしていないんだからな」
新人警官らしきこの男は、苦虫を噛み潰したような顔になっていく。持ち場の変更には手続きがいる。そのうち刑事局長がいつも通りの真っ赤な顔で呼びつけるまではここに居るつもりだ。それに、タコ部屋と呼ばれる男臭い刑事部屋にはまだ戻りたくないというのが本音だ。今はまだ哀れそうな顔で見られることに我慢ならない。
「……そんなに怒るな。悪かったよ。でも、資料整理して片付けるまでは使わせてくれないか?」
新人警官が渋々了承し、ダイスは奥へと引っ込んでいく。
尻の形に窪んだ椅子に腰掛けると、手短な捜査資料ファイルを顔の上に引っ掛けて、大きなため息をついてから眠った。
微睡みの中に一輪の花が浮かぶ。赤い花。それがやがて白く濁り、骸骨へと変化していくと喋り始めた。
耳元にその肉のない歯を近づけて何事かをダイスへと喋りかけるが、よく聴こえない。やがて闇の中から生まれた骸骨は光に包まれていった。
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