恐怖の味
「きゃああああああああああああ‼︎」
怖い怖い怖い。
いくら手を剥がそうとしても、掴む手は大きくて、簡単には剥がれない。
それならばと、今度は渾身の力で腕を振った。その反動で体はぐらりと傾く。
「あ……!」
倒れる——そう思った時、背中が何者かの腕に支えられ、目を見開く。思い切り尻餅をつく筈だったが、ゆっくりと腰が付いた。
一体、なにが起きているのかわからず、瞬きを繰り返す。
「大丈夫ですか?」
その声は低すぎず、高すぎず。例えるなら、乙女ゲームに出てくる男の子のような声。でもそんな機械を通して聴くものより、ずっと耳をくすぐるような柔らかい音。雑音がなく、澄んでいて、それはとても心地良い。
「あの、大丈夫、ですか?」
呆けている私に、再度話しかけてくれた。
「あ……あっ」腕を掴む他者の体温に、ハッと我に返る。
抱えるように体を支えてくれているのは、若い男性。街路灯に照らされた髪は茶色で、目の色は緑。まだ幼さが残った顔。高校生くらいだろうか。
それにしても、なんて綺麗な緑色の瞳なのだろう。流暢な日本語だが、彼は日本人なのだろうか。
いや、それよりも、誰だろう?
「イヤアアアア!」
「ちょちょちょ、待って待って。落ち着いてください」
ジタバタする私に苦笑する彼。
私、笑われてる?
様子が明らかにおかしいと気づき始めた私は、動かす手足を徐々に止めていく。
それを見計らって、彼はスクールバッグから掌くらいの物を取り出した。
「はい、これ。落としてましたよ」
一台のスマートフォン。
よく見ると、白と黄色をベースにした色合いに、大きな向日葵のオブジェが付いたケースカバー。
私のスマートフォンによく似ている。
あれ、おかしいなと思い、トートバッグやポケットの中身を確認するが、どこにも見当たらない。
「あれ」
練習が終わってから、スマートフォンで着信やメールの確認をした。それからトートバッグに入れたつもり。確認はしてなかったけど。
えっと、どの辺りで見たんだっけ。
しかしまさか、こんな大事な個人情報の塊を落としていたとは。そりゃあ、母からの連絡が来てないと思うはずだ。手元にスマートフォンがないのだもの。
「あ、ありがとう」
そんな親切な人を犯罪者と思い込み、逃げていた。更に、勝手に転けそうになったところを助けてもらっていながら、尚も逃げようと暴れた。
なんと失礼な人間なんだろう、私は。そんな反省の意を込めて「いろいろごめんなさい」と謝罪し、頭を深々と下げた。
そして彼が制服姿なのを今一度思い出し、顔を上げる。
青色の長袖シャツに濃紺のスラックス。肩には校章が描かれた黒いスクールバッグが。
「もしかして、その制服……
「はい」
実は、私が
「えっと、もしかしてスマホが音楽室に落ちてた、感じ?」
「厳密に言えば、渡り廊下です」
「あ。思い出した。確かに渡り廊下でメールの確認をした! 髪の毛が邪魔で、画面が見えなかったもん」
音楽室や美術室などがある旧校舎と、教室や職員室がある新校舎は渡り廊下で繋がっており、私の靴を置かせてもらっている生徒玄関も新校舎にある。
練習を終えてから、戸締りをお願いするべく職員室に向かっていた。
渡り廊下に出た瞬間、風が強かったのを覚えている。その風で靡く、この長い髪が視界を邪魔して、スマートフォンの画面がよく見えなかったのだ。
そこで着信や受信を確認した後、トートバッグに入れた——筈が、実はそのまま落ちてしまっていた、という真相だろう。
ふむふむと納得しつつ、一つ疑問が出てくる。
「でも、これがよく私のってわかったね」
「ちょうど俺が階段を降りてる時に、お姉さんが前を横切ったんですよ。渡り廊下にスマホが落ちてたし、あの時間帯に歩いてたのはお姉さんだけだったから、そうなのかなって」
てことは、彼は新校舎の階段から旧校舎に向かってたわけか。
「そっか! わざわざ届けてきてくれて、ありがとう」
「いえ。随分と長く走らせてもらいました」
彼はニコニコと爽やかに笑っている。「長く走らせてもらった」とわざわざ言うということは、やはり嫌味なのだろうか。
「大変申し訳ございませんでした」と、再度頭を深々と下げていると、目の前に右手を差し出された。
これはなんだろうと瞬きを繰り返す私に、彼は私の手を握って、立ち上がらせてくれた。紳士だ。
「大丈夫ですか? 痛いところはあります?」
「いや、ないです。心配してくれてありがとう」
軽く服に付着したごみを払い落とすと、改めて彼を見遣る。視線の高さに彼の肩辺りが入った。彼は私より身長が高いのか。
それから少し顔を上げると、白い明かりに照らされる彼と目が合う。
人形のように整った顔。白い肌にエメラルドグリーンが映える、なんて綺麗な人なんだろう——
恥ずかしい。
大きな瞳に映る私の顔を見て、我に返った。私、もうちょっと美人に産まれたかった。私の顔を見られたくなくて、俯く。
「少し付き合ってもらえますか?」
突然、彼はそう言うと、私の手を取ったまま歩き出した。訳がわからないまま、荷物を持ち替えて彼について行く。
彼は急に道を左へ曲がり、私が住むアパートから遠ざかっているのに気づき、思わず声を掛けた。
「あの、ちょっと」
「まあまあ落ち着いて」
「『まあまあ』って……私の家はそ——」
私の家はそっちじゃないと言い掛けた時、彼は唇に人差し指を添えた。「シー」
そして、後ろを気にするように視線を向けていた。
「厄介な人に目をつけられたようですね」
その言葉が示すように、私達を尾行する影。その気配に、私はようやく気づいた。
「誰……?」
格段美人なわけでもなく、モテる要素は持ち合わせていない。誰かに恨みを買った覚えも、売った覚えもない。もしかして、無自覚に誰かを傷つけていたのか。
奥底からじわじわと滲み出て来る恐怖心が私を襲った。指先が震える。
思わず彼の手を離し、立ち止まる。足もガクガクと震えていた。通り抜けていく風が、とても冷たく感じる。
「ごめ、ごめんなさい。脚が……」
彼に謝った。
すると彼も足を止めて、私に歩み寄った。目に見えない敵を睨みつけながら。
「お姉さんが謝る必要はありませんよ」
優しい声。私を落ち着かせるように、向けられる眼差しも柔らかかった。
「失礼します」
「?」
そう言って彼は私の両腕を掴み、向かい合う。私の視界から敵の影は消えた。
彼は柔らかな手つきで後頭部を支え、もう一方の手で輪郭を撫でるように顎に添えた。
近づいて来る綺麗な顔と、水に濡れたエメラルドのような瞳——ああ、知ってる。
これって、キスだ。
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