糸を紡いで、切って

 曲の最後の音を、ピアノと共に切る。

 一呼吸置いてから、鍵盤から手を下ろした夏希なつき。その肌は、小麦色とまではいわないが、すっかり日焼けしていた。

 そんな彼女は、珍しくおしとやかなお嬢様のように落ち着いている様子。音楽室にある立派なグランドピアノを弾く彼女を見て、似合うぁと常々思っていたが、今日は一段とそう思う。

 楽譜に目を向けたまま、彼女は口を開いた。

「アンタ、もう練習に来ないのかと思った」

 夏希なつきの言葉を聞いて、私はフルートを持つ腕を下ろす。

 彼女は、静かな眼差しで私を見上げた。

「ここに来てくれて安心したよ」

「なんで?」

「なかなか返事がなかったしさ。ちょいと心配した」

「あぁ、ごめん。仕事が忙しくて」

「ホントにそれだけ?」

 心配そうな眼差しで私を見つめる。

 それに気づいて、私は楽器を握り締めた。そうだよと、すぐに口に出すつもりだったのだが、思いとどまる。

 指紋で曇る銀色。ぼやける私の顔。

 嘘ついてもわかるんだからと言いたげな顔に、心が痛んだ。

 確かに仕事も忙しかったけど、コンサートの練習を後回しにして、本当は男と遊びに行ってたなんて、理由なしでは言えない。

 もし奈良栄ならさか先輩と上手くいけばお付き合いをして、結婚するかも。そうなればお母さんは将来に不安を感じずに済むし、私もその小言を聞くことがなくなる。今より音楽に集中することができる。

 だから、先輩との時間は必要なことだったんだ。

 心配してくれる夏希なつきに、そう説明しよう。彼女ならきっとわかってくれる。

 でも、それを口に出せなかった。

 本当にそれを言っていいの? と引っ掛かっていた。

 理由のわからない不安が、心の中にあったから。

 将来の為に、先輩との時間が大切だった。本当に大切だったの?

 将来の為に、音楽を二の次にしたのはって、本当?

 自問自答を繰り返す。

「その顔……やっぱりなにかあるんだね。それ、福岡ふくおかのお母さんのことでしょ?」

「あ」

 久しぶりに聞く名前。

 その瞬間、心をギュッと鷲掴みするような痛みが走った。同時に開いた目から涙が溢れた。

「ちが……あれ、あれ?」

 違う、夏希なつきにそう言おうとした。

 落ちる涙を片手で受け止める。

 彼女への返信が遅れた理由をと思って口を開いたのに、彼女の言葉で記憶が蘇り、口が震えた。

「あ」

 福岡ふくおかくんのお母さんに言われた言葉。


『やっぱりお前がたぶらかしたんでしょうが! 高校生に手を出すような女なんだから、結婚もしていないんでしょうね! 汚い女! 馬鹿じゃないの! 腐った人間が! どうせこのままバレなければそうに手を出すんでしょ! ああああああ気持ちが悪い‼︎』

『全然わかってない! そうを連れ回すような糞女が理解できるはずがない! あばずれ! ビッチ! 人間の底辺!』


 わかってるよ。

「ご、ごめん」

 私は誰に謝っているのだろう。

 福岡ふくおかくんのお母さん? 夏希なつき? 学校? それとも——

「ごめん」

 ここに来るまで、ずっと福岡ふくおかくんのことは考えないようにしていた。

 母親との一件と、その彼女に言われた言葉だけを覚えておけばいい。

 それ以外は忘れるんだ、と。

「ごめ、ごめん」

 更に大粒の涙が溢れた。ポタポタと落ちて、濡れていく床。

 それを見て、心を覆う氷がじわりと溶ける。今まで負ってきた小さな傷がいくつもある心。傷で隠した〝綺麗な星の夢〟が見え始める。

「ごめん、夏希なつき

 あなたが言った彼の名前が、心に突き刺さって痛い。

 思い出させないでよ。それを思い出す度に、私は忘れなければならないのが……嫌なのに。

「しほり?」

「ごめんね、夏希なつき。私、私」

 あなたは何度も忠告してくれたのに、また〝星の夢〟を見てしまう。

「どうして泣くのよ。まだあたしらに悪いと思ってんの? あの後、学校にちゃんと菓子折り持ってきてくれたでしょ? もうそれで終わったんだよ。一区切りついたの」

「ごめん」

「あたしももう気にしてないし、校長先生もなにも言ってなかったよ。お菓子が美味しかったことしか。あ、もしかして福岡ふくおかのことじゃなかったとか?」

 オロオロする彼女の隣で、私はただ泣いた。

 涙と共に、〝星の夢〟を覆う氷の壁が水になって滴り落ちていく。

「しほり、とりあえず落ち着きな。ジュースを買ってくるから。あ、まだ楽器吹くんなら水がいいよね?」

 そう言って、私をパイプ椅子に座らせ、楽器も隣の椅子に置いてくれた。

 バタンと、扉が閉まる。

「……ぅ、う」

 一人の音楽室。私の泣き声が、広い音楽室に満ちる。

 何故、泣いてるんだろう?

 何故、こんなに苦しいんだろ? 

「うぁ、ぅぅ……ぅー……」

 もう恥ずかしいことはない。誰もいないのだから泣いたって構わないだろう。

 三十代にもなって、子供みたいに大泣きをしてしまうなんて。

 両手で涙を拭う。拭っても拭っても、涙は新たに流れ落ちた。手から溢れる涙が膝を濡らす。

 胸元を掴む。

「忘れなきゃ」

 暫くの間、泣き続けた。時間を気にすることなく、ただひたすら。

「はあぁぁ」

 涙を流しながら、大きく息を吐いた。それは溜息のようで、そうではない。心の中で蓄積していた重たい気持ちを吐き出しただけ。

 そしてやっと、頭の中にかかっていた霧が晴れた。心を覆っていた氷の壁も剥がれ落ち、最も向き合いたくない〝星の夢〟と対面した。

「ああ、やっぱり……」

 ずっと目を背けていた。だって認識してしまったら苦しいから。そして認識してしまったら、忘れなきゃいけないから。

「ダメ」

 口はひとりでに動く。

「正直になったらダメ」

 言いたい。

「誰か、助けて——」

 だから。

 本当は、

「……先輩と付き合いたくない……」

 誰にも聞こえないように、とても小さな声で言葉を紡ぐ。

 私はお母さんの為に、お付き合いをした方がいいの。自分の為に、結婚した方がいいの。

 ——そうやって、ずっと、ずっと、ずっと自分を騙し、彼と付き合った方が良いと言い聞かせてきた。小さい傷で何度も何度も覆って、そんな大きな傷なんて元々ないのだと偽ってきた。

「もうやだ……怖いよ」

 本当の私の気持ちに身を任せたら楽なのかもしれない。でも、自分がどうなってしまうのか不安で、怖かった。

 素直な気持ちが出てこないように、身を縮こませる。


眞野まのさん」


「——え?」

 グシャグシャになった顔を上げる。恥ずかしい顔だと、見せられない顔だとわかっていても、懐かしい声に顔を上げずにはいられなかった。

「……福岡ふくおか、くん?」

 福岡ふくおかくんはドアを開けたまま動かなかった。笑顔を見せず、口を閉じて、静かに私を見ていた。

 私は肩に掛けていたフェイスタオルで涙を拭った。そんなことしたって、泣き顔は変わらないかもしれない。でも、少しでも情けない姿を高校生の彼に見せたくないから。

「えっと……」

 どう声をかけたらいいのだろう。考えてみたけど、言葉は続かなかった。

 お母さんに言われたことを考えたら、ここで彼と話をするべきではない。

 なのに、

 なのに、

 どうしよう。

 福岡ふくおかくんの声がとても心地よくて、そばにいたいと体が動かない。逃げなきゃいけないのに。彼から離れないといけないのに。脚が全く動こうとしない。

 彼はゆっくりとした足取りで、私の隣に座った。椅子に置かれた楽器に気づくと、口元が僅かに朗らかになる。

「お久しぶりです」

 一ヶ月ぶりに聞く声。ハッキリとした先輩とは全く異なる、優しい声。

眞野まのさんにずっと謝りたかったんです」

 伏し目がちに、彼は話を続けた。

「母から事情を聞きました。本当に迷惑をかけて、すみませんでした」

 彼は頭を下げる。

 私は慌てて「顔を上げて」と促した。すると、自然と視線が交わる。緑色の瞳は、真っ直ぐに私の瞳を捕らえた。

「謝らないで。むしろ私の方こそ、お母さんに上手く言えなくてごめんね」

「いえ、眞野まのさんが責任を感じないでください」

「……お母さんに怒られたでしょ? 大変、だったよね」

「もう終わったことですから」

「そっか……」

 彼が母親にどんなことをされたのか心配になるが、もう過去のことになったのなら触れずにしておこう。

 私は自分から福岡ふくおかくんの目から離れた。

「元気がないですね」

「え?」

 心臓が、一瞬止まったのかと思った。

「なにかあったんですか?」

 先輩とは違う、落ち着いた声色。それは砂漠に降る雨のように、心の奥まですんなりと入ってきた。だからこそ言葉に詰まる。

 どうしてわかるの?

 夏希なつきも、福岡ふくおかくんも。

 どうしよう。

 なんて返そう。

「……別に、大丈夫だよ」

 そう答えるのが、精一杯だった。

 なにも話せない。

 彼に私の苦しみを伝えたって、どうしようもないじゃないか。相手を困らせるだけだ。

 すると、福岡ふくおかくんは前を見据えた。口を開く様子なく、ただ前を——ピアノを眺める。

「……」

「……」

 喋らなくなっちゃった……。

 私は福岡ふくおかくんをチラチラと一瞥いちべつした。

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