糸を紡いで、切って
曲の最後の音を、ピアノと共に切る。
一呼吸置いてから、鍵盤から手を下ろした
そんな彼女は、珍しくお
楽譜に目を向けたまま、彼女は口を開いた。
「アンタ、もう練習に来ないのかと思った」
彼女は、静かな眼差しで私を見上げた。
「ここに来てくれて安心したよ」
「なんで?」
「なかなか返事がなかったしさ。ちょいと心配した」
「あぁ、ごめん。仕事が忙しくて」
「ホントにそれだけ?」
心配そうな眼差しで私を見つめる。
それに気づいて、私は楽器を握り締めた。そうだよと、すぐに口に出すつもりだったのだが、思いとどまる。
指紋で曇る銀色。ぼやける私の顔。
嘘ついてもわかるんだからと言いたげな顔に、心が痛んだ。
確かに仕事も忙しかったけど、コンサートの練習を後回しにして、本当は男と遊びに行ってたなんて、理由なしでは言えない。
もし
だから、先輩との時間は必要なことだったんだ。
心配してくれる
でも、それを口に出せなかった。
本当にそれを言っていいの? と引っ掛かっていた。
理由のわからない不安が、心の中にあったから。
将来の為に、先輩との時間が大切だった。本当に大切だったの?
将来の為に、音楽を二の次にしたのは
自問自答を繰り返す。
「その顔……やっぱりなにかあるんだね。それ、
「あ」
久しぶりに聞く名前。
その瞬間、心をギュッと鷲掴みするような痛みが走った。同時に開いた目から涙が溢れた。
「ちが……あれ、あれ?」
違う、
落ちる涙を片手で受け止める。
彼女への返信が遅れた理由をと思って口を開いたのに、彼女の言葉で記憶が蘇り、口が震えた。
「あ」
『やっぱりお前が
『全然わかってない!
わかってるよ。
「ご、ごめん」
私は誰に謝っているのだろう。
「ごめん」
ここに来るまで、ずっと
母親との一件と、その彼女に言われた言葉だけを覚えておけばいい。
それ以外は忘れるんだ、と。
「ごめ、ごめん」
更に大粒の涙が溢れた。ポタポタと落ちて、濡れていく床。
それを見て、心を覆う氷がじわりと溶ける。今まで負ってきた小さな傷がいくつもある心。傷で隠した〝綺麗な星の夢〟が見え始める。
「ごめん、
あなたが言った彼の名前が、心に突き刺さって痛い。
思い出させないでよ。それを思い出す度に、私は忘れなければならないのが……嫌なのに。
「しほり?」
「ごめんね、
あなたは何度も忠告してくれたのに、また〝星の夢〟を見てしまう。
「どうして泣くのよ。まだあたしらに悪いと思ってんの? あの後、学校にちゃんと菓子折り持ってきてくれたでしょ? もうそれで終わったんだよ。一区切りついたの」
「ごめん」
「あたしももう気にしてないし、校長先生もなにも言ってなかったよ。お菓子が美味しかったことしか。あ、もしかして
オロオロする彼女の隣で、私はただ泣いた。
涙と共に、〝星の夢〟を覆う氷の壁が水になって滴り落ちていく。
「しほり、とりあえず落ち着きな。ジュースを買ってくるから。あ、まだ楽器吹くんなら水がいいよね?」
そう言って、私をパイプ椅子に座らせ、楽器も隣の椅子に置いてくれた。
バタンと、扉が閉まる。
「……ぅ、う」
一人の音楽室。私の泣き声が、広い音楽室に満ちる。
何故、泣いてるんだろう?
何故、こんなに苦しいんだろ?
「うぁ、ぅぅ……ぅー……」
もう恥ずかしいことはない。誰もいないのだから泣いたって構わないだろう。
三十代にもなって、子供みたいに大泣きをしてしまうなんて。
両手で涙を拭う。拭っても拭っても、涙は新たに流れ落ちた。手から溢れる涙が膝を濡らす。
胸元を掴む。
「忘れなきゃ」
暫くの間、泣き続けた。時間を気にすることなく、ただひたすら。
「はあぁぁ」
涙を流しながら、大きく息を吐いた。それは溜息のようで、そうではない。心の中で蓄積していた重たい気持ちを吐き出しただけ。
そしてやっと、頭の中にかかっていた霧が晴れた。心を覆っていた氷の壁も剥がれ落ち、最も向き合いたくない〝星の夢〟と対面した。
「ああ、やっぱり……」
ずっと目を背けていた。だって認識してしまったら苦しいから。そして認識してしまったら、忘れなきゃいけないから。
「ダメ」
口はひとりでに動く。
「正直になったらダメ」
言いたい。
「誰か、助けて——」
だから。
本当は、
「……先輩と付き合いたくない……」
誰にも聞こえないように、とても小さな声で言葉を紡ぐ。
私はお母さんの為に、お付き合いをした方がいいの。自分の為に、結婚した方がいいの。
——そうやって、ずっと、ずっと、ずっと自分を騙し、彼と付き合った方が良いと言い聞かせてきた。小さい傷で何度も何度も覆って、そんな大きな傷なんて元々ないのだと偽ってきた。
「もうやだ……怖いよ」
本当の私の気持ちに身を任せたら楽なのかもしれない。でも、自分がどうなってしまうのか不安で、怖かった。
素直な気持ちが出てこないように、身を縮こませる。
「
「——え?」
グシャグシャになった顔を上げる。恥ずかしい顔だと、見せられない顔だとわかっていても、懐かしい声に顔を上げずにはいられなかった。
「……
私は肩に掛けていたフェイスタオルで涙を拭った。そんなことしたって、泣き顔は変わらないかもしれない。でも、少しでも情けない姿を高校生の彼に見せたくないから。
「えっと……」
どう声をかけたらいいのだろう。考えてみたけど、言葉は続かなかった。
お母さんに言われたことを考えたら、ここで彼と話をするべきではない。
なのに、
なのに、
どうしよう。
彼はゆっくりとした足取りで、私の隣に座った。椅子に置かれた楽器に気づくと、口元が僅かに朗らかになる。
「お久しぶりです」
一ヶ月ぶりに聞く声。ハッキリとした先輩とは全く異なる、優しい声。
「
伏し目がちに、彼は話を続けた。
「母から事情を聞きました。本当に迷惑をかけて、すみませんでした」
彼は頭を下げる。
私は慌てて「顔を上げて」と促した。すると、自然と視線が交わる。緑色の瞳は、真っ直ぐに私の瞳を捕らえた。
「謝らないで。むしろ私の方こそ、お母さんに上手く言えなくてごめんね」
「いえ、
「……お母さんに怒られたでしょ? 大変、だったよね」
「もう終わったことですから」
「そっか……」
彼が母親にどんなことをされたのか心配になるが、もう過去のことになったのなら触れずにしておこう。
私は自分から
「元気がないですね」
「え?」
心臓が、一瞬止まったのかと思った。
「なにかあったんですか?」
先輩とは違う、落ち着いた声色。それは砂漠に降る雨のように、心の奥まですんなりと入ってきた。だからこそ言葉に詰まる。
どうしてわかるの?
どうしよう。
なんて返そう。
「……別に、大丈夫だよ」
そう答えるのが、精一杯だった。
なにも話せない。
彼に私の苦しみを伝えたって、どうしようもないじゃないか。相手を困らせるだけだ。
すると、
「……」
「……」
喋らなくなっちゃった……。
私は
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