素直な気持ちは心の奥底に

「泣いてる姿を見たら心配しますよ。誰だってそうでしょ」

 私を一向に見る気配はない。でも、それが私にとって気が楽で。

「余計なお節介かもしれませんが……」

 ギシッとパイプ椅子が軋む。

「どうしても放っておけなくて」

 彼は私を見ていた。冗談の欠片もない瞳は、私を離さない。

「兎よりも真っ赤に腫れた目を見たら、なにも見なかったフリなんてできないでしょ」

 そう言いながら、片眉を寄せて苦笑する。

「だから、ちゃんと言葉に出して教えてください」

「……なにを?」

 私はなにも話せない。だから、暫く考えた後そう聞き返すと、福岡ふくおかくんは柔らかい眼差しで、そっと微笑んだ。

「『助けて』て」

 ハッと思い出す。

 一人の時に、口から出てしまった言葉。誰にも伝えなかった言葉。

 その言葉を訊かれていたことと、そしてそれを言ってしまった自分を再認識すると恥ずかしくて、顔を背ける。顔から火が出るようだ。

「あ、あれは! つい、出ちゃっただけなの。だから」

「それでも良いです。助けてって言いたくなるほど、今がつらいんだって言ってくれなきゃわからないんですよ」

 彼は朗らかに笑う。

 水が隅々まで染み渡るように、その言葉がすうっと傷だらけの心に入ってくる。ちょっぴり沁みるけど、でも傷の痛みがひいていく。

「ありがとう」

 素直な気持ちだった。まだ羞恥心があって、彼と目を合わせることができなかった。

「でも」

 ——ねえ。

「どうして、そんなに優しくしてくれるの?」

 ——年上の私に。

「こんな大人が、情けなく見えない?」

 ——気持ち悪いでしょ。

「三十の女がさぁ、勝手に一人で悩んで、苦しんで、無様に大泣きしてる姿が」

 ——こんなみっともない泣き顔を見たら。

「『もっと大人になれよ』て、言いたくならない?」

 言葉が過去に傷つけられた言葉と重なる。自分で言って更に傷ついて、涙が流れた。自分のトラウマを自分の口で吐き出す。

「『ちょっと怒ったくらいで、すぐに泣くなよ』て」

 やめて。

「『少し傷ついたくらいで、すぐに甘えてくるなよ』て、言いたくなるでしょ⁉︎」

 やめて。

「優しくしないでよ」

 やめてよ。

「もう放っておいて」

 やめてッ!

「お願い」

 やめてぇぇぇぇぇぇ‼︎‼︎‼︎‼︎


『やっぱりお前がたぶらかしたんでしょうが! 高校生に手を出すような女なんだから、結婚もしていないんでしょうね! 汚い女! 馬鹿じゃないの! 腐った人間が! どうせこのままバレなければそうに手を出すんでしょ! ああああああ気持ちが悪い‼︎』


 何度も蘇る、福岡ふくおかくんの母親の言葉。

 私は苛立つように立ち上がった。

「二度と話しかけないでッ‼︎」

 そう叫んでから、我に返る。

「あ」

 違う。

 そう言いたかったのではない。そんな酷い言い方をするつもりはなかったのに。

「あ……」

 終わった。

 これで、春のように穏やかだった関係が終わった。

 静かに福岡ふくおかくんは立ち上がり、ドアに向かっていく。私に言い返すこともなく、殴ろうとすることもなく、ただ一直線に歩く。

「福、おか……くん」

 私は彼の顔を見ることはできなかった。どんな顔にさせてしまったのだろうか。

「……福岡ふくおかくん」

 終わってしまった。終わらせてしまった。私が縁を切った。福岡ふくおかくんは歩み寄ろうとしてくれたのに。私から突き放してしまった。

 口を両手で覆う。

「あ、あぁ…………い……ないで……」

 馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ!

 私は、大馬鹿者だ。

 電話の着信音が鳴る。どれだけ無視を決め込んでも、それは鳴り続けた。話を訊くよと、私を気遣うように。



   ■ ■ ■



 あの後、スマートフォンにかかってきた着信は奈良栄ならさか先輩だった。所謂いわゆる、デートのお誘い。コンサートが近いから断った筈なのに、何度も何度も誘ってくる。

 先輩にかけ直した方が良いだろうか。

 暫くの間、スマートフォンの画面を遠目に眺めながら悩んでいると、別の着信が入った——夏希だった。

 おかしいなと思って電話に出てみると、先生に捕まって時間がかかりそうだから、先に帰ってくれとのことだった。

 楽器に付着した指紋を拭き取り、曇りのない銀色のフルートを見つめる。楽器はこんなに綺麗なのに、私の心は曇ってる。

「はぁ……」

 それを楽器ケースに片付け、シャイニーケースに入れる。そのまま学校を後にした。

 夜道を一人で歩きながら、そこで奈良栄ならさか先輩に電話をかけ直す。

 私達は別に付き合ってはいない。それなのに、先輩はちょっとお茶をすることをデートと呼ぶ。紛らわしいのでやめてほしいと頼んだのだが、軽く流されて終わった。

 少しずつ、先輩の存在が大きくなると同時に、重くも感じていた。それに今は福岡ふくおかくんの件もある。全て捨ててしまえれば楽なのに。

 他愛のない話をしながらアパートに着いた。その頃には、気持ちが少し落ち着いていた。

 部屋に入ると、長々と話した電話を切り、ベッドに投げる。楽器を木目調のテーブルの上に置き、楽譜が入った黒ファイルは床に投げ置く。そして、身軽になった私は、ベッドに飛び込んだ。

 閉じた目を開けると視界に入る、向日葵のケースのスマートフォン。

 福岡ふくおかくんが、このスマートフォンを拾ってくれて、そこから縁ができたんだっけ。

「でも、そんな縁、ない方がいいんだよね」

 ゴロンと仰向けになると、ベッドは軋んだ。

「こんなおばさんと話してると、変な噂がたっちゃうし。福岡ふくおかくんに申し訳ない」

 見慣れた白い天井。

「あんな優しい笑顔、なくしたくないなぁ」

 福岡ふくおかくんが私に向けてくれる笑顔は、向日葵のような派手さはないけど、のどかな春のような温もりのようで。そして、咲いてはすぐに散る桜のようでもあって、大切にしたい。

 お風呂に入らなきゃ。

 そう頭で思っても、体は鉛のように重たい。そして心の底から疲れた。動きたくない。

福岡ふくおかくん……ごめん」

 あんな言葉を言って。本当にごめん。全部、あなたの為だから。

 また涙が流れる。目が痛い。ぎゅっと目を瞑った。

 そして、長い時間が経たないうちに、うつらうつらと睡魔が襲ってくる。泣き疲れてしまったようだ。

「……福岡ふくおかくん……」

 メールの受信音が鳴る。ああ、きっとこれは奈良栄ならさか先輩だ。

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